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悪意  作者: うろおぼえ
8/10

第七章

 午後九時。死にかけの商店街の路地で蹲りながら、携帯電話を取り出す。

 

 とう子の番号にかけるが、出ない。木島聖と別れてから都合七回目。それだけかけても、とう子が電話に出る事はなかった。

 

電源が入っていないか、どこかに忘れてきたか。どちらにせよ、らしくないヘマだ。事件が終わって、安心仕切っているのかもしれない。


まあ、大丈夫だろう。一人だと少し心細いが、やれない訳じゃない。少なくとも、誰も死なせる事はない。


 木島聖が潜在的悪人であるのは明らかだ。彼の言い分を信じるのには、大きなリスクが伴う。けれどこの場所。木島真知と名前も知らない女性徒が殺されるこの場所にいる限り、最悪の事態は起こりようがない。


 夜は更けていく。音が段々と消えていく。ぽつぽつと見て取れた通行人も、気付けば完全にいなくなっている。時計を確認すると、時刻は午後十時を回っていた。


 木島聖の話が本当なら、そろそろ誰かが現れる。


 バチン、バチン、コツコツ。不規則に弾ける電球の音に混じって、足音が聞こえてくる。


 乾いた足音は路地の入り口で一度止まり、歩行速度を少し緩やかにしてこちらへ向かってくる。


 バチン。消えていた電球が息を吹き返し、路地を照らす。


「――――ッ!? 」


 やってきた人物は俺の姿を見て酷く驚いた様子だった。顔は驚きに満ちていて、両腕は身を守るように体の前に出されていた。


 彼女が驚くのは当然だった。約束していた場所に行くと、待っていたのは見ず知らずの男だったのだから。


「……あんた、誰よ」


 バチン。電灯に照らされた顔は、一度だけ見た事がある。現実に言えば二度だが、最初は顔まで確認出来なかった。


「怪しい者じゃないって言っても信用して貰えないと思うけど、怪しい者じゃない」


 極力穏やかな口調で言ったが、この顔で差し引きプラスマイナスゼロだろう。いや、人によっては逆に怯えてしまうかもしれない。


「は。一人じゃ話も出来ないって訳」


 しかし、少なくとも彼女に怯えられている、という事は無さそうだ。怖がっている相手を睨みつける人間なんてそうそういない。はったりだとも考えられたが、そうではないように見える。


「木島はどこ? 返してくれないと困るのよ、私」


 どうやって呼び出したのか疑問ではあったが、成る程。どうやら彼女の物を何か盗んだらしい。勝ち気そうな性格の彼女であれば、泣き寝入りするなんて事はなかっただろう。


「悪いけど、今日は来ない」


 それは嘘だった。約束を交わした人物はちゃんとその内やってくる。けれど彼女に会わせる事は出

来ない。何が真実であったとしても。


「はぁ? ホント、困るんですけど! あれがないと私すごい怒られるのよ! 」


 一体何を盗んだんだ? と疑問に思いつつも、彼女の怒りに応える事はしない。


「悪いけど、帰ってよ。とにかく、今日ここにそれはない。後日渡すよう、伝えておくから」


 意識して低い声を出す。こんな事をしたのは初めてだったが、効果はあったようだ。彼女は少し後ずさる。けれど表情は厳しいまま、ずっとこちらを睨んでいた。


「クソ野郎」


 そして。そんな捨てセリフを吐いて身を翻し、路地から出て行く。その際近くにあったゴミ箱を蹴飛ばそうとした。しかし直前で理性が働いたのか、寸での所で止めていた。


 酷くご立腹のようだった。……まあ、当然か。彼女からすれば物を盗られた挙句、約束まで反故にされたのだから。


 しかし、こちらとしては上々の結果だ。初対面の女の子に罵倒はされてしまったが、結果だけ見ればこれ以上ない。彼女をすぐに帰す事が出来たのは、それくらい大きい。


 木島聖の言う通り、彼女はここに来た。名は西崎愛美。西ケ谷高校の生徒で、木島真知の友人。そして。あの夢の中で木島真知と一緒に、この場で血を流して死んでいた人物だ。


 いよいよ、木島聖の言う事に真実味が増してきた。けれど認めたくはない。その真相に納得したくなくて、ざわついた心のまま待機する。


 バチン。それから何度その音が鳴っただろう。時間にすれば恐らく十分程。きちんと時計を見た訳ではないのでわからないが、恐らくそれ位だ。コツコツと。先程と似たような靴音が聞こえてくる。


 けれど今度は一切の淀みもなく、歩調もそのままに。彼女は、俺がいる路地へと入ってきた。

 バチン。


「…………」


 驚いたような、呆然としたような、そんな複雑な顔だった。どこか悲壮感が漂っているようにも見える。けれどそれも一瞬で、いつものように、華のような笑顔になるのだった。


「こんばんは、岸本さん。どうかされたんですか。こんな場所で、こんな時間に」


 以前会った時と同じ口調、同じ穏やかさ。誰も嫌悪感など抱かない、柔らかな物腰。それは完璧なものだった。予定を崩された筈の彼女のその態度はまるで乱れておらず、以前と全く同じだった。そ

れは、不自然な程に。


「こんばんは。……少し、野暮用があってさ。気は進まなかったけど、やる事にしたんだ」


「そうなんですか」


 バチン。照らされた顔に、やはり変化はない。


「同じ質問を返すけど、そっちこそどうしたんだ。この辺は危ないって、言ったと思うけど」


 そう聞くと彼女――木島真知は、困ったように小さく笑った。


「ごめんなさい、そうですよね。けど、少しこの辺に用事があって。仕方がなかったんです」


 彼女との会話は、以前と同じく心地が良かった。俺のような人間でも、ずっと続けられるんじゃないかと思えてしまう。出来ればこのまま、そんな穏やかな話を続けていたい。


 けれど、俺は確かめなくてはならない。


「用事って、何だ」


 その簡単な質問に、当然彼女は躊躇うこともなく。


「友達との、約束です」


 そう、答えてしまった。


 頭がぐらぐらと揺れるような錯覚。地面に足がついていないようだった。


 予想していなかった訳じゃない。あいつの話はどれも筋が通っていた。信じられない話だったが不思議と現実味があった。けれど俺は頭のどこかで、それを否定していた。否定したがっていた。ただの私情と感情論という、酷く幼稚な理由で。


「相手は……西崎愛美か? 」


 声が、震えていた。彼女が怖かった訳じゃない。着々と近付く真実が、怖かったのだ。


「……どうしてそれを? 」


 変わらない。変わらない笑顔のまま、彼女はいつものように朗らかに言った。


「木島聖に……お前のお兄さんに聞いたよ、」


 躊躇いがあった。けれど、それを口にしなければならなかった。歯痒くて、あまりの不快感に吐き気がする。


「何もかも」


 そう言った瞬間、彼女は目を丸くする。けれどそれは一瞬だけ。すぐに普段通りの笑顔に――仮面のような笑顔になるのだった。


「あの人の言う事を、信じるんですか」


 誰かを訝しむような、そんな発言。それは彼女には似つかわしくないものだった。


「最初は半信半疑だった。はっきり言ってしまえば殺人犯の言う事だし。けれど今の所、状況はお兄さんの言う通りに動いている」


 一歩、木島へと近付く。


「木島。そのカバンには、一体何が入ってるんだ」


 彼女は小さな手提げ鞄を左手に持っていた。財布や携帯電話位しか入らないサイズの、小さなもの

だ。


 木島聖の言う通りであれば、真実はその中にある。


 バチチ。いつもとは違う音を立てて、不規則に消えていた電灯が落ち着きを見せる。弱い光は、消

えそうにはなるが消える事はなかった。


「……私が来る前に、西崎さんは来ませんでしたか」


 彼女は質問に答えない。少しずつ、欠陥のない笑顔に変化が表れる。


「さっき来たけど、今日は帰ってもらった」


「……何で……」


 木島は俯いて何かを言い掛けて、寸での所で飲み込む。そして顔を上げ、また笑うのだった。もは

やそこに余裕はない。


「そう、ですか。じゃあ、私も帰りますね」


 会話の流れを無視した、唐突な行動。俺はそれを許す訳にはいかない。ここで彼女を帰してはいけ

ない。そうなればまた繰り返すだけだ。


 一人ならどうにかなるなんて、随分甘い考えだった。俺は彼女を説得出来るかどうかがわからなく

て、内心酷く怯えている。


 それだけは気取られないように、また彼女に一歩近付く。


「そこには何があるんだ」


 近付く度に、彼女の笑顔が不自然なものになっていく。けれど逃げるような素振りは微塵もなかっ

た。


「何も。お財布と、携帯電話。それと家の鍵だけです」


 彼女は一向に認めようとしない。埒が明かなかった。やりたくはなかったが、強硬手段に出る事にした。


「言いにくいなら当ててやる。そこには一本のナイフが入っている。木島聖が播磨美里と須藤里香を殺した、凶器が入っている」


 もう、手を伸ばせば彼女に触れられる位置まで来ていた。


「……兄さんが、二人を? それを私が? 」


 笑い飛ばすようなそんな顔には、やはりゆとりがなかった。木島真知は気の毒になる位、嘘が下手だった。


 さらに一歩近付いて、鞄に手を伸ばす。木島は一切抵抗せずに、けれど自分から渡すような事もせず。ゆっくりと鞄から手を離した。


 中を確認する。彼女の言う通り、鞄の中には財布と携帯電話、キーホルダーにつけられた一本の鍵。それと――――木島聖の言う通り、一本のナイフが入っていた。


 サバイバルナイフというよりは、ハンティングナイフに近い。大きくはないが、小さくもない。刀身に汚れは見られなかったが、柄の所に、血痕らしきものが見受けられた。


「…………」


 ナイフを観察し終えて彼女に向き直ると、下を向いて俯いていた。表情は窺えないが。角度的に口

元だけは見て取れた。もう、笑ってなどいなかった。


 見たくはなかったものが現実の物になる。吐き気を催す程の不快感に加えて、今では頭痛も起きていた。


「何で、あの時――俺ととう子に話してくれなかった。俺は初対面だったけれど、とう子とは友達だったんだろう」


 俯いたまま、彼女はボソボソとつぶやく。それは俺の知っている木島真知ではなかった。


「……助けて、くれるとは。もらえるとは、思わなかったから。所詮違う学校の生徒だと、思ったから」


 その発言にはいつものような覇気がまるで感じられない。その様はまるで今にも泣き出しそうな小学生のようだった。


「メールの時もそうだ。何だよ、ごめんなさいって。何でも言ってくれって、とう子だって言ってただろう。なのになんなんだよ、ごめんなさいって」


 華奢なその体は小さく震えていて、もしかしたら見えていないだけで、既に彼女は泣いているのかもしれない。


「……貴方達二人は、眩しかった。まるで以前の私と愛美ちゃんを見ているようで、汚したくなかった。こんな事に、巻き込みたくなかった」


 そうして、ようやく彼女は顔を上げる。その顔は力なく笑っていた。目元からは、ぽろぽろと小粒の涙がこぼれていた。


 巻き込みたくなかった。そんな、お人好しらしい理由で。彼女はここまで来てしまった。自分の手で、親友を殺そうとする所まで。


 昼間、木島聖に二つの質問をした。とてもシンプルな質問だ。これ以上西ケ谷高校の生徒を殺す予定はあるのか。木島真知を殺そうという思惑はあるのか。


『なんで? あの二人はうざったいし邪魔だから殺したけれど、もう殺したい奴なんていないよ。それに真知を殺す? いくら殺人犯だからって、あんなに可愛い妹は殺さないよ。理由だって、ないしね』


 答えはどちらもノーだった。思い返してみればそうだった。木島聖は自分の都合で殺人を犯す倒錯者ではあるが、無差別殺人犯ではない。彼には二人を殺す動機がなかった。


 なら誰が彼女達を殺すのか。背景には複雑な事情が絡んでいるものの、その答えは酷く単純なものだった。


 簡単な話だった。西崎愛美を殺すのも、木島真知を殺すのも。目の前に立つ、彼女一人だったのだ。


「これは、木島聖から渡されたもの?」


 ナイフを掲げながらそう聞くと、彼女は無言で頷いた。


 本当に、あの男の思惑がよくわからない。自分で凶器を渡しておきながら、俺に彼女を止めて欲しいと頼むなんて。殺人犯に常識など通じないにしても、矛盾した行動ではないのか。


『僕としては、彼女の意思を尊重したい。けれど兄としては、平穏に生きていって欲しいんだよね』


 それは詰まるところ、本音ではやめてほしいが、キツく言いたくはない、甘やかしたいという事なのだろう。何だそれは。駄目兄貴にも程がある。


 妹の為にあの男が描いたシナリオはこうだった。


 二人を殺した凶器を渡し、木島真知が西崎愛美を殺害。その後、木島聖は凶器を回収し、警察へ出頭。西崎愛美殺しを自供し、連続殺人は三人目の犠牲者を最後に幕を閉じる。

 

 木島真知に復讐をさせた上で、自分が罪を被る。それが、奴の思い描いていた筋書きだった。


 けれど現実にはそうはならない。彼女は西崎愛美を殺した後、自らも命を絶つ。それが何故かは、彼女自身にしかわからない事だ。決して誰かが推し量れるような事ではない。


 俺ととう子は一つ、勘違いをしていた。それは木島聖が、木島真知の模倣を行っていたという事。確かに木島は模倣をしていた。しかし逆だったのだ。模倣していたのは兄ではなく、妹の方だった。


 兄である木島聖によると、木島真知は幼少期の頃から離人症という、あまり耳慣れない病を患っていたらしい。その症状は健常者には理解しえないもので、自分自身に対する実感の希薄化、又は喪失。目の前で起きている出来事が、まるで他人事のように感じられるというものだった。


 幼い頃、学校での人間関係が上手くいっていなかった彼女は、その病に悩まされる事となる。どうにかしようとすればする程、現実感が無くなっていく。そうしていく内に友人達は離れていくという、悪循環に陥った。当時は酷い有様だったと、木島聖は言っていた。

 

 しかし、その中で彼女は一つの解決策に辿り着く。それは、完璧な兄の模倣だった。そつなく他者との交流を深める兄の、真似事を初めたのだ。

 

 特定の人物のように振る舞え、と言われてもそんな事は本来不可能である。試したとしても人は恥を感じ、そこに躊躇いが生じ、やがて自信を喪失する。役者のように稽古に励めばある程度は近付けるのだろうが、どんな人間であっても、他者の完璧な模倣など出来はしない。

 

 しかし現実感が希薄で、自分自身すらも曖昧だった彼女には、それが完璧にこなせた。木島真知には何故か、別人に成り切る事が出来たのだ。

 

 離人症患者だから出来た、という訳ではない。本来この病に悩む人々にそんな余裕はない。彼らは現実感の喪失とともに、様々な意欲までをも失ってしまう。木島真知のように、誰かの模倣をするなどという事は不可能なのだ。事実、当時の主治医も首を傾げていたという。

 

 別人のように変わった妹に、兄は少なからず不安を覚えた。しかしそれは最初だけで、次第に笑顔を取り戻していく彼女を見て、いつしかその不安は消えていた。

 

 木島真知の生活が一変したのは、当然と言えば当然だった。木島聖はその悪性を除けば何事においても優秀な人間だ。コミュニケーション能力にも長けている彼の模倣をすれば、人間関係の修復も容易い。相手も幼く、不審に思う者もほとんどいなかったそうだ。

 

 父親の仕事の都合でこの街に引っ越した頃には、その模倣は今の域にまで達していたらしい。都合五年間。彼女は兄になりきる事で社会に溶け込み、その身を守り続けた。

 

 その順風満帆だった高校生活に暗雲が立ち込め初めたのは、つい一ヶ月程前の事だった。


『誰に聞いても答えてくれなかったから理由はわからなかったけど、どうにもあいつ――』


 耳を疑うような、内容だった。思えば、だから木島聖はあの時、俺に向かって辛辣な言葉を投げたのかもしれない。


――嫌われない人間なんていないよ。


 一ヶ月ほど前から、木島真知はクラスの女子からいじめを受けていたらしい。詳しい内容は聞かなかった。彼もそれを口にしようとはしなかった。ただ、一つだけ確かな事は。そこから彼女の様子が、おかしくなった事。


 とう子や俺、兄の前では完璧だった模倣。それが、学校では出来なくなってしまったのだという。


 こればかりは推測になってしまうが。恐らく、彼女は昔の事を思い出してしまったのだと思う。昔の、上手くいっていなかった木島真知を。


 悲惨だった過去に足を引っ張られ、仮面のヒビは大きくなっていき。まるで投球障害に陥った投手のように、彼女は兄の模倣という、今まで当たり前にこなしてきた行為ができなくなってしまった。

なりを顰めていた現実感の喪失という症状も、それと同時に再発する。一度は上手くいっていた生活。それが誰かの手によって壊され、自分の力ではどうしようもなくなってしまった。


 では彼女は、どうしたか。追い詰められていた彼女は、極々単純な解決策に飛びついた。以前と同じように、兄の模倣を初めたのだ。

 

 彼女が彼の悪性まで見抜いていたのかどうかまではわからない。しかし、どういった経緯かはわからないが、彼女は兄が播磨美里と須藤里香を殺した事を知ってしまう。


『模倣を開始してからの五年間、真実として真知は悪意に晒されていなかった。君の言う、嫌われない人間を完璧に演じ切ったんだ。悪意を受けない人間は、悪意を知らないらしい。僕は全然そんな事はないんだけど、真知の場合は本当に知らなかったようなんだ。五年前には、毎日のように受けていたというのにね』


 それは離人症による記憶の混濁、というよりは改竄に近いのだろうか。そう聞くと、彼は首を振った。


『それは違うよ。真知の場合は全て演技なんだ。あいつは悪意を知らないであろう俺を、演じ続けていただけなんだよ』


 つまり彼女には元々悪意があった、という事らしい。模倣によって五年間抑圧されてきたその黒い心は、クラスメイトからの迫害によって露わになった。


 自分の模倣。悪意の再発。彼女がいじめの主犯格であった西崎愛美を殺すのは、当然の事だろう。そう、殺人犯の兄は言ったのだった。


「…………」


 木島は、黙ったまま俯いていた。地面には、まだぽつぽつと小粒の涙が落ちていた。


「殺したい程、憎かったのか」


 薄っぺらな質問だった。めぐりの悪い頭を、殴りつけたくなる。もっと何か言う事はなかったのか。……けれどこのまま黙っていたら何も解決しない。馬鹿な質問だとは思ったが、口にせざるを得なかった。


 数秒間、彼女は沈黙を続けた。


「……どうなんでしょう」


 正直に答えてくれないかと思ったその時、彼女は小さな声でそういった。


「おかしな話だと思うんですけど、自分でも、よくわからないんです。憎かったかどうかと聞かれれば、憎かったんだと思います。何度も、酷い事をされましたから」


 彼女は右手で、自分の体を抱くような動作をとった。見れば、足が小刻みに震えていた。


「けれど私の中には同時に、また以前のように仲良くしたいという気持ちがあったんです。変な、話ですよね」


 彼女にとって、西崎愛美との時間は幸福だったのだろう。傷つけられた後もなお、その頃に戻れればと、願っていたのだ。


「けど……本当に、自分でもよくわからなくて。戻りたいという気持ちはあるのに、このまま何もせずにいたら、自分が壊れてしまいそうで……だから私は、彼女を――」


 それは木島真知特有の嘆きだった。酷い矛盾を抱えた解決策は、およそ他人には理解されない。彼女自身も、恐らくそれはわかっているだろう。


「だから西崎愛美を殺して、その罪を死んで償おうとした」


 俯いていた顔が、勢い良く上げられる。


「……なんで」


 それを、と言葉にならない声が聞こえてくる。少し躊躇ってから、その問いに答えた。


「四日程前に、夢を見た。人が死ぬ夢だ。夢と言っても、ボヤケた写真が数枚、並んでいるだけのものだった。最初は誰だかわからなかったけれど、とう子に聞いたら、それは木島真知という西ケ谷高校の生徒だって事を知った。勿論最初は、そんな夢を信じてなんていなかった。おかしな夢だったけど、夢でしかなかったから」


 そんな話をしようか、最初は迷った。木島が信じてくれるとも思えなかったし、正直に話した所で

その後の説得に役立つような事とも思えなかったからだ。下手をすれば、知っていて彼女に近付いたという、不信感を抱かせてしまうかもしれない。


 けれど、進んでそうした訳ではないとは言え、俺は彼女の過去を覗き見た。この程度の事でその罪滅ぼしになるとは思わないが、出来るだけ真摯に話そうと思ったのだ。


「まだ確信はなかったけど、助けられる命なら助けようと思った。だから俺は、とう子に相談して、お前に直接会ってみる事にした。そこで何もなければ、あの夢はなかった事になるはずだった」


 そして彼女は不自然な反応を示し、翌日に播磨美里が殺された。


 そこまで言って、ふと気付いた事があった。本当に、木島聖は播磨美里と須藤里香、彼女達を疎ましく思っただけで殺したのかという疑問だ。彼にはもう一つ、考えられる動機がある。けれどそれならば何故あの二人だけなのか、という疑問が出てきてしまう。何にしても今考えるべき事ではないので、頭の隅に仕舞っておいた。


「日を追う毎に夢は鮮明になっていって、昨日は須藤里香の殺人現場まで見た。ついこの前まで止め絵だったそれは、動いていて。ついに犯人が誰かも、わかったんだ」


 だからといって、木島聖が捕まるという結末には、何ら影響はなかった訳なのだが。


 木島は涙を止めて、呆然とその話を聞いていた。当たり前の反応、なのかもしれない。とう子だって、最初は似たような反応をしていた。


「……酷い、神様もいたものですね」


 木島は小さく微笑んで、そんな事を呟いた。奇しくもそれは、またしてもとう子と同じような反応だった。


「何が、したいんでしょうか。人殺しの夢なんか見させて、私の醜い結末まで予想させて。一体、神様は何がしたかったんでしょうか」


 木島は夢の事を疑ってはいなかった。悪趣味だと吐き捨てたとう子と同じように、そんな疑問を口にしたのだった。


 勿論、その答えを知る術はない。文字通り神のみぞ知るというやつだ。未来視の専門家でも出てくれば話は別だろうが、仮にそんな人物が出てきたとして、この答えに対する返答が返ってくるとも思えない。


「とう子も似たような事を言っていたよ。悪趣味だって。俺も、正直に言えばそう思う。ただ、何をしたかったのかは何となくわかるだろう」


 雑で、根拠も何もない回答だ。神様に反感を感じている彼女にこんな事を言っても、また文句を言うだけかもしれない。


「とりあえず、きっと木島真知という人間を助けたかったんだろう。なら、直接手を下せばいいだろって話だけど、きっと何か事情があったに違いない。人の精神的な面には干渉出来るけど、操る事は出来ないし、物理的な介入も出来ないとか。きっとそんな理由だ」


 相手がとう子であれば白い目で見られていたに違いない事を、つらつらと並べ立てる。


「なら……あの二人も助けてあげれば良かったのに。それって、酷いエゴイズムですよ」


 木島は嫌悪感を隠す事もなく言った。確かにそれは、その通りだ。木島真知を助けるのであれば、

播磨美里も須藤里香も助けてしまえばいいのに。誰だって、そう思う筈だ。


 けれど残念ながら、昔から神様というのは独善的な存在なのだ。人を生かしもするし、殺しもする。そこにどんな基準があるのかは、恐らく未来永劫わからない。俺達人類は、ずっとこのまま振り回され続ける。人の生き死にというのは、そういうものなのだ。


「……俺は小さい頃に両親を亡くしてさ。父さんは事故で、その次の年に母さんが病気で死んだんだ。元々人間関係が上手くいってなかった俺は、心の拠り所がごっそり減って余裕がなくなったのか、酷く落ち込んで。その後二年くらいは、随分な有様だったと思う。そのせいか他の人間よりは、いくらか人の死っていうものに敏感な子供だった」


 それは言う筈のなかった言葉だった。自然と、口から言葉がつらつらと出て来る。平静を装っているつもりだったが、ちゃんと繕えていたかはわからない。俺はさっきからずっと余裕がなくて、必死

に言葉を探しているだけだった。


「きっとそのエゴイストは、俺だったらお前を助けるんじゃないか、そう思ったんだろう。事実とし

て、俺はお前を助けたいと思った。人殺しにもしたくなかったし、死んでほしくもなかった」


――真知の事をどう思う? 今度は、君個人が異性として見た場合の意見を聞きたいな。


 その答えは、わからないんだ。今の俺には、答えられそうにない。


 ただ、これだけははっきり言える。


「俺はきっと、お前に憧れていたんだ。木島みたいに完璧にこなせたら、俺も上手く出来たんだろう。きっと何も問題はなかったんだろう。そう思った」


 実際には、木島にも俺と似たような悩みがあって、俺が憧れていたのは木島聖の殻だった。


「俺は憧れていた人間に、木島真知に、道を外れて欲しくはないんだ」


 結局俺は、月並みな事しか言えなかった。

 

 とう子なら、なんて言っただろうか。どうやって彼女を諭しただろうか。ただ話すだけではなく、寄り添って彼女を慰めただろうか。こんな時ですら、そんな事ばかりが頭をよぎる。


「……それは、私じゃありません。それは木島聖の、偽物です」


 案の定、木島はそんな反論をする。俺が彼女の立場だったとしても、きっと同じ事を言うだろう。

それがわかっていながらも、不出来な頭ではそう言うしかなかった。


 けれど俺は否定しなければならない。継ぎ接ぎだらけで欠陥だらけの理屈でも、彼女にわかったと

頷かせなければならない。予想外の結末ではあったものの、彼女を助ける為にとう子と動いていたの

は、変わらない事実なのだから。


「そうかも、しれない。けれど木島とあいつは、別人だ」


 必死に捻り出した言葉は、けれど嘘という訳ではない。真実として、俺はそう思っていた。


「確かに、会った時は似てると思った。模倣と聞いて、納得もした。けれどお前と木島聖は、明らか

に違うよ」


 とう子だって言っていた。彼女と木島聖はまるで違うと。今ならばその言い分がわかる。


 木島真知にも、悪意は確かに潜在していたのだろう。模倣とは言え、人を殺してしまおうと思う程

の。


 けれど人を殺した兄は笑いながら死体を嬲って、妹は罪の意識で自らの命を絶つ。この点だけ見て

も、木島真知と木島聖は別物だ。


「お前は、完璧な模倣なんて出来ていなかったんだよ。表面上だけ似せるような事は出来ても、その奥にある木島聖の本質までは真似出来なかった」


『本当に、ぶつかってくるなんてなぁ』


『頭の悪い子は扱いやすくて助かる。たまに、虫唾が走るけれどね』


 そんな事を、目の前の少女が言うだろうか。……決して言わない。だって彼女は最初から最後まで、俺が初めて感じた通りの人間だった。模倣を元に出来上がった人格であろうと、その結論は覆らない。


「俺ととう子を巻き込みたくないって……お前さ、人には優しくする癖にそんな事ばかりしていたら、人生損するよ。そういうのをお人好しって言うんだ」


 目の前の彼女の印象は、今でもずっと変わらない。初対面で、ガチガチに緊張していた無表情の男子高校生に、笑顔でビターチョコケーキを勧めてくれた。そんな、優しい女の子だ。


 ……ああ、そうだ。そんな事じゃないか。もっと簡単な理由が、あるじゃないか。


「甘い物が苦手な奴に。無愛想でとっつき難い奴に。笑顔であのケーキの存在を教えてくれた、そんな優しい女の子に、人殺しなんてして欲しくない」


 難しい理屈なんて思い付かないし、とう子のように機転も利かない。俺にはそんな想いを伝える事しか、出来なかった。


「…………」


 木島は黙ったまま俯いて――唐突に、小さく笑うのだった。


「そんなに畳み掛けられちゃ、反論する間もないじゃないですか」


 言われて、言葉に詰まる。確かに随分長い事喋っていたように思う。木島を置いて、ひたすらに彼

女を説得しようと喋り散らしていた。


「憧れていたとか、お人好しで優しい女の子だとか。まるで告白されているみたいで、気恥ずかしい

です」


 言われて顔が熱くなるのを感じる。確かに、俺は一体何を延々と言っていたのだろう。一字一句を思い出す度に、頭の熱が上がっていく。というか。


「……何かお前、キャラ違わない?」


「あは。あんな事言ってくれたのに、そういう事言いますか、普通」


 それはそうなのだが、木島の様子は明らかにおかしい。もしかして離人症の症状の一つなのだろうか。


「つまりさっきの発言のほとんども、実は結構適当なものだったんですかね」


 その朗らかな笑顔には、どこかニヒルな雰囲気がにじみ出ている。……何だろう、その顔はすごく

あいつに似ている。


「い、いや違うぞ。全て本心だ。一字一句適当な事を言わなかったと、断言は出来ないけど」


 おかしい。何で焦ってるんだ俺は。


「……何となくわかってましたけど、嘘がつけない性格なんですねぇ」


 珍獣を見るような目で、木島はこちらを見ていた。そんな顔で、人を見るような奴ではなかったのに。


「おい、大丈夫か木島。どこか具合でも悪いのか」


 慌てて駆け寄り、彼女の額に手を当ててみる。熱はない。暑さのせいで多少汗ばんではいるが、呼吸は正常だ。


「そう言われると、少しショックですね……」


 言いつつ、額に当てられた手を優しく除ける。


 まさか、とは思うのだが。もうそれしか、考えられなかった。


「大丈夫ですよ。むしろ元気な位です。吹っ切れたと、言いますか」


 いつもの柔らかい笑みではなく、ハツラツとした笑顔で。


「だって。あんな事言われ続けたら、誰だって元気になりますよ」


 そう、言ったのだった。


 その笑顔には、正直ドギマギしてしまう。普段と大して変わらない筈なのに、どこかいつもと違う

魅力がある笑顔。


 ……恐らくだが、これが素の彼女なのだろう。所々に模倣の片鱗を残しつつも、その発言の全てには以前にはない力強さがあった。


 それにしても、よかった。あんな不器用な言葉でまた笑ってくれるとは、正直思っていなかった。何故あれで彼女が吹っ切れたのかは疑問が残るが、今は大した問題じゃない。これで話は終わり、めでたしめでたしの筈だ。


「一つ、条件があります」


 心の中で中途半端なガッツポーズを上げていると、彼女がそんな提案をしてくる。安堵していたというのに、少し不安を感じてしまう。


「……条件って、何の」


 彼女の笑顔はこの上なく生気に溢れていて。むしろ溢れすぎていて、少し不穏だ。


「私が真っ当に生きていく事との、交換条件。調子づいている自覚はありますけど、これ位は飲んで頂かないと」


「いや、これくらいと言われても……」


 提示されてもいないのにどの位も、ないだろう。一体、どんな条件だと言うのだろうか。どんなものにせよ、俺は飲まない訳にはいかないのだが。


「簡単な事です。今の私には友達と呼べる人がいません。だから私と、友達になって下さい」


 しかし、木島が提示した条件は酷く安いものというか。


「いや、もう友達だろ」


 もう既に満たしているというか。


「ああ、新生した私だから、とか言うのはなしで。というか、とう子にそんな事言ったら怒……いや

泣くぞ」


 あいつが木島に怒る事はないだろう。きっと友達扱いされなかった場合、泣くことはないにしてもいじけるに違いない。


「…………」


 それを聞いた木島は目を丸くして、口をぽかんと空けていた。


「いいですね。すごい、素敵な返し方です」


 そして唐突に眩しすぎる程の笑顔になって、そんな頓珍漢な事を言うのだった。素敵な返しも何も、只の事実だろうに。


「それじゃあ、岸本さん。改めて、よろしくお願いしますね」


 木島が握手を求めるように、右手を差し出してくる。気恥ずかしさを感じつつも、それを握り返そうとして、寸での所で止めた。服で手汗を拭いてから改めて握り返そうとすると、彼女は声を上げて笑うのだった。その笑顔には、一片の翳りもありはしなかった。


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