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悪意  作者: うろおぼえ
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第六章

 ほの暗いトンネルに、彼女は立っていた。


 足は震えていた。手は何かに祈るように固く握られている。恐怖に歪んだ顔は、じっと目の前の暗闇を見据えていた。


 暗闇から、一人の男が姿を現す。


 高架線のわずかな灯りに照らされたのは、端正な顔立ちの青年だった。彼は笑顔で何か、彼女に優しく囁いているようだった。


 一歩、一歩。彼は彼女に近付いていく。彼女は彼が近付く度に、何かを叫びながら後ずさっていく。けれど震える足が、小さな石に躓く。きっと、もう限界だったのだろう。立っているのがやっとだったのだ。それを証明するように、彼女は立ち上がる事が出来なかった。


 諦めたのか、青年に向かって何かを言っていた。流れる涙はその勢いを少しずつ増していく。数瞬毎に大きくなっていく顔の歪みは、その綺麗な顔を別人のように変えていた。


 それは、分かりやす過ぎる情景だった。青年は何があっても彼女を殺す。彼女は自分が無力なのをわかっているから、ただただ懇願する。彼女は数秒後に、間違いなく彼に殺されるだろう。


 泣きじゃくる彼女に、もはや人間の尊厳などない。あるのはただ、助かりたいという願いだけ。

けれど青年は、それを容易く踏み躙る。


 優しい笑顔のまま、何かを喚く彼女の首に。躊躇無く、持っていたナイフを突き立てる。


 直視していれば気分を害する程の出血の中、彼は笑っていた。笑顔で、もがく彼女の腹を蹴飛ばしていた。

 

それは、分かりやす過ぎる情景だった。彼は、分かりやす過ぎる狂人だった。





 



 いつの間にか寝ていた事に驚くよりも先に、俺は携帯電話を取り出していた。

 

 時間を確認する。午前五時。さすがにまだ、とう子は起きていないだろう。けれど一刻も早く、あいつに伝えなければいけない。


 着信履歴から電話をかける。四回目の着信音で、電話はつながった。


『……何時だと、思ってる』


 不機嫌そうな声だった。今にも、その不満は爆発しそうだ。


『昨日あれだけ付き合ったのにこの仕打ちか……岸本お前――』


「――ああ、本当に悪いと思ってる。けどとう子、犯人がわかった」


遮ってそう言うと、とう子は電話の向こうで息を呑む。数秒黙った後、小さく低い声が聞こえてくる。


『誰だ……じゃないな。それはまず、確かなのか』


 そう言われると、少し困ってしまう。結局、この話の拠り所はあの夢でしかない。


「確かかどうかはわからない。今日……というかさっき夢を見た。播磨美里が殺される場面だ。それ

も今までの夢とは訳が違う。今回のは画像じゃなかった。動いていたんだ」


 自覚はなかったが、少し興奮気味なのだろう。ところどころ言葉が足らない。けれどとう子なら問題なく理解してくれる筈だ。

 

 そう。今回の夢は静止画ではなかった。音はなかったが、動画だったのだ。何故そうなったのかはわからない。それに、それは今重要ではない。俺はさっきまで、播磨美里が誰に殺されるのかを、はっきりと見ていた。今重要なのはそこだ。


『……きな臭い話だが。未来視の事について、少し調べてみたんだ』

 

 けれどとう子にとってはそうではないのか。遠慮がちにそう言って、未来視についての話を始める。それは悠長なようにも思えたが、必要な事だから話しているのだろう。


『ネットの情報だから、どれも嘘くさいものばかりだったけれどな。だがその中に、いくつか興味深いものがあった』


『ああ、話半分に聞いてくれ』


 そう付け足して、とう子は続ける。


『一つは、未来視は科学的なものだとするもの。未来を視る者はその情景を視ているのだという。その当人の周りで起きている事を知覚し、その情報を脳内で統合する。そこから常人には理解出来ない計算式のような物を用いて、未来を予測する。例えば、立て掛けられた今にも倒れそうな不安定な箒と、天気予報で知った台風の接近。箒が倒れるのは自明の理だ。未来視は、簡単に言ってしまえば高度な予測なんだとさ』

 

 それは筋は通ってはいるが、にわかには信じられない話だった。風で倒れる箒程度なら誰でも予測出来るだろう。けれど俺の場合はどうだ。木島の夢を見る前に、そんな重要な情報を無意識に手に入れていたか?思い出す限り、そんなものありはしない。

 「木島の殺害現場の場合はどうなんだ。俺はそもそも、あの夢を見るまで木島万智なんて人間すら知らなかったんだぞ」


『そこは私にもわからない。けれど通じるものはあるだろう』


 通じるもの……?一体何の事を言っているんだ、とう子は。


『だからさ、岸本はその夢を見た後、木島ちゃんに会った。その後、その夢はどう変化した? 』


 どう変化したか。

 それはより鮮明に、血まみれの遺体が、木島だとわかるように、なった。


『そういう事だ。木島万智という情報を得たお前の脳は、とんでもない計算式でその予測をより確実なものにした。……まあ、眉唾ものの話なんだけどな』


 信じられない。信じられないが、やはり筋は通っている。少なくとも、これは託宣であるといった、超常現象的な話よりかはいくらか信憑性がある。


 それにその通りなのだとしたら、今朝の夢にも合点がいく。播磨美里の殺害現場を視たのは、恐らく昨日の、彼女からのメールのせいだろう。


『二つ目に、他の分野に漏れず、未来視もちゃんと発達するものらしい。意識的に能力を向上させる事も可能だそうだ。岸本の場合は、明らかに無意識的なものだがな』


 無意識も何もあれはただの夢だ。あれが明晰夢ならまだしも、そんな類の夢ではない。見ようとして見れるものではないのだから。


 しかしとう子の言いたい事は何となくわかってきた。


「つまり、静止画から動画になったのは、俺の未来視が発達したからって事か?俺自身は何もしてないのに? 」


 そうだとすれば辻褄は合う。けれど口にしたように、俺自身は何もしてはいない。それで未来視が強力な物になるというのは、おかしな話なのではないだろうか。


『そういう事だが……まあ、話は最後まで聞け』


 とう子は一度言葉を切って、数秒黙り込む。何かを考えているような様子だった。


『岸本。家の家事で嫌いなものって何だ? 』


「は? 」


 それが今、何の関係があるというのか。


『いいから答えろ』


 しかしとう子は有無を言わさない。


「わかったよ……けどなんだろう……しいて言えば、外の掃き掃除か。腰は痛くなるし、風の強い日

は余計に時間がかかって、やるのが億劫だ」


『うん。出来ればやりたくない? 』


「いやまあ、そりゃ。やらない訳にはいかないけど」


 外の掃き掃除は姉と日替わりだ。俺が当番の日に葉っぱの一枚でも落ちてれば大目玉だ。


『つまり無気力に、極端な話、無意識にやっていると? 』


 そこまで言われて、ようやくとう子の言いたい事がわかった。


「……小学生じゃないんだから、そこまで噛み砕いて言わなくてもいい」


『おいおい、可愛くないぞ。せっかく、わかりやすく説明してやろうとしたのに』


 とう子はぶーぶーと文句をたれている。本当に厚意でそんな説明の仕方をしたのか、ただおちょ

くった結果なのかは、とう子の頭の中を覗かないとわかりそうにない。


「向上心もなく、無気力にやっているような事でも、繰り返す度に少しずつ向上していく。そういう事だろ」


 電話口からはため息が一つ。話が早く済んだというのに、言い当てられて酷くご不満らしい。


『そうだよ。どんな事でも体は慣れる。無意識の内に最適化を図る。短くて、より確実な道筋を模索する。……こうも書かれていたな。脳内で不安定な、未来を視るという計算式(

ルート)を、少しずつ確かなものにしていくようなものだと。一度築かれた道筋は回を重ねる毎に太く、強くなっていくと』


 最初は須藤里香の夢もぼんやりとしか見えていなかった。それが少しずつはっきりしていったのも、そういう理由なのだとしたら納得がいく。


 ならば、いつかは木島万智を殺す犯人を見る日も来るのだろう。恐らくもう、その必要はないだろうが。


『無駄話が過ぎたな。全くの無駄という訳ではないだろうが。それで岸本。可愛い可愛い木島ちゃんを殺そうとしているのは、一体どこのどいつなんだ』


 冗談のような事を、真剣な声で言っていた。とう子はとう子で、木島が被害に遭うのが我慢ならなかったのだろう。


「まだ確実な話じゃない。この街に殺人鬼が二人いる可能性だって、ある訳じゃないか」


『は。お前にしては、面白い事言うじゃないか』


 そんな事を、とう子は真面目に言っていた。こんな時に褒められても何も嬉しくはない。


『じゃあ聞き方を変えよう。須藤里香を殺したのは誰だ?播磨美里を殺したと思しき容疑者と、木島万智を殺そうとしている殺人鬼はどこの誰なんだ? 』


 その名を口にして、とう子はどんな反応をするだろう。勿論言わないなんて選択肢はないが、それを言うのは少しばかり躊躇われた。それは、やはり自分の言った通りだととう子に勝ち誇られるのが嫌な訳ではなく。純粋に、俺自身がその事実から目を背けたかったのだ。


「お前が昨日、嫌いだと言っていた人。人間の皮を被った、悪魔」


『――――』


 とう子が息を呑んだのが、電話越しでもはっきりと伝わってくる。その様子からしてやはり、その心中は穏やかではないようだった。


『……じゃあなんだ。あいつは、自分の妹を、殺そうとしてるのか……? 』


 それは俺に向けられた問いではなかった。ただただ信じられないと。そんな事があっていいのかという、とう子の憤りからくる、自問自答だった。


『……訂正するよ、岸本。あいつは悪人だ。生まれながらの、狂人だよ』


 酷く冷たい声だった。そんな声を聞いたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。これは憶測でしかないが。とう子は彼の事を嫌いなりにも、きっと人間扱いはしていたのだ。それが今、完全に瓦解した。


「ああ。俺も、今ではそう思う」


 あの光景は、恐らく一生忘れない。助けを乞う人間の首に、笑顔でナイフを突き立てた。血を噴き出しもがく彼女を、平気で足蹴にした。


 それはそう。とう子の言う通り。人間の皮を被った、悪魔そのものだった。








 アーケード街のはずれに、小さな喫茶店がある。定年退職した老夫婦が経営する店だ。立地のせいか客入りはあまり良くないが、ほとんど趣味でやっているようなものなので、店主達はさほど気にかけてもいないらしい。


「お待ちどおさま」


 注文していたアイスコーヒーがテーブルに置かれる。趣味でやってる割には凝っていて、コーヒー豆は勿論、紅茶などの茶葉にも拘っている。淹れ方も退職後に一から学んだのだそうだ。必然として味は良く、純粋な客入りは悪いもののリピーターは多いという、この街の隠れた名店となっていた。


 店長に頭を下げ、店を出たのがつい二十分程前。とう子が来るまで、もう少し時間はかかるだろう。


 本来であればそのままアルバイトを開始する予定だったのだが、状況が変わった。一刻も早く、とう子とこれからの事を話し合わなければいけなくなった。


 店長にどう言い訳したものかと思ったのだが、話をしたら二つ返事で了承してくれた。滞りなく予定が立てられてとても助かったのだがしかし、その時の顔がこの上なくニヤけていたので少し複雑な心持ちだった。当分、あの勘違いは拭えそうにない。


 何にせよ時間は確保する事が出来た。この土日を使って、何が何でも決着をつけなくてはならない。


 アイスコーヒーが無くなりかけた頃、店の扉が開いた。つけられている鈴が鳴り、小柄な客が入ってくる。


 青いジーンズ木地のショートパンツに、黒のVネックのTシャツ。縁の小さな白いワークキャップと、ハイカットの茶色いスニーカー。今日も今日とて、中島とう子の私服はボーイッシュなものなの

だった。


「待たせたな……じゃあ、私はダージリンで」


 歩み寄ってくる店主に注文を告げて、向かいの席に座る。帽子をとると、額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「少し暑いな」


「ああ。何でも、今夏一番の暑さになるらしい」


 他愛もない事を、まるで挨拶のように交わす。


「ふーん。この後の事に悪影響が出なきゃいいけどな」


 普段であれば雑談の一つや二つでも始めるのだが、事態は切迫している。とにかく時間が惜しい。

とう子もそんな事を言う辺り、早く本題に入りたいのだろう。


「方法は後々考えるとして、まず俺達がやらないといけない事は」


 不自然な程唐突に本題を切り出すが、とう子は何も言わない。なので、そのまま話を続けた。


「とにかく木島聖を、どうにかして警察に捕まえてもらう」


 今更口にするような事でもないが、今一度確認するように言った。


 須藤里香を殺したのは、木島万智の兄である木島聖だった。播磨美里、及び木島万智の殺人に彼が

関わった、関わるのかどうかは定かではないが、強い疑いが持たれる。


 実の妹である木島万智は言わずもがなだが、播磨美里にも彼との接点がある。それは彼が講師を務める進学塾に通っているという点。それともう一つ。播磨美里と須藤里香の殺害現場のそのどちらもが、西ケ谷高校から進学塾への通り道であるという事。


 須藤里香殺しが木島聖で確定的になった以上、疑ってかかるべきだろう。


「そうだな。岸本の言うように、この平和な街に殺人鬼が二人もいない限りは、もうそれで事件は起こらない。元の平穏な街に戻る」


 よっぽどあの時の言い回しが気に入ったのか、そんな返しをされてしまう。反応すればまた繰り返しかねないので、それについては触れない事にした。


「後はどうすれば――木島聖を、警察が逮捕してくれるか、だな」


 とう子は顔色を変えずにそう言った。


 一番の問題はそこなのだ。俺達が木島聖を捕まえても意味はない。私刑など許されてはいないし、やるべきでもない。公的な機関である警察に捕まえてもらわないと意味がない。


 だがそうする為には材料が足らな過ぎる。結局木島聖を犯人足らしめているのは、今のところあの夢しかないのだ。それだけでは警察は動いてくれない。何か、動くに足る証拠を提示しなければならない。


「……例えば、須藤里香を殺す所を目撃したって通報するとか、どうだ? 」


 勿論匿名で。女子高生が立て続けに二人も殺されたのだ。匿名の通報だとしても警察が無視するとは思えない。


「いいんじゃないか。まあそれで、間違いなく何らかの捜査はするだろう。あの狡猾な奴がそんな物手元に残してるとは思えないが、凶器が見つかればそのまま即御用だ」


 む。なんだろう。何故か反対されると思っていたから、素直に賛成されて少し拍子抜けしてしまう。


「本当にそれだけで大丈夫だと思うか? 」


「ああ、大丈夫だよ。日本の警察は優秀だ。こと殺人事件においては手は抜かない。あれが怪しいと言えば、小さな糸口から木島聖まで必ず辿り着く」


 それは、そうなのだろう。ならこの話は終わりだ。とう子の太鼓判があるのなら、きっと物事はそ

の通りに動いて、木島は助かる。そんな根拠の無い確信があった。


 けれど。ならなんで、こんなにもとう子は浮かない顔をしているのだろうか。


「……何か心配事か? 」


「……ん? んー……」


 目を反らしながら苦笑いをして、らしくない反応をする。


「何だよ。何かあるなら言ってくれ」


 そうはっきり言うと、伏し目がちなままため息をつく。本当に何だろう。今日のとう子は、何か変

だ。


「いやさ。予め言っておくけど、話半分に聞いてくれ。それとこれから話す事は少し矛盾を孕んでいるけど、私の意思はもう変わらない。木島ちゃんは何があっても助ける。それを承知の上で、聞いてくれ」


 とう子が何を言いたいのかよくわからなかったが、無言で頷いた。


「はっきり言ってしまうとな。このまま、私達は木島ちゃんを助けていいのだろうかという迷いが、私の中に少しだけある」


 それは確かに、矛盾した発言だった。これまでとう子は木島を助ける為に色々と奔走した。今の発言はそれらを否定しているものだ。


 それがどうしてなのか問い質したかったが、先程の前置きを思い出して押し黙る。


「助けたくない訳じゃない。彼女は大切な友人だ。人間的にも、この上なく素晴らしい人物だ。……

けれどそういった所とは別の問題なんだ、私の話は」


 一度言葉を切って、伏し目がちだった顔がこちらを向く。困ったような顔だった。けれどそれとは

逆に、視線は酷く柔らかなものだった。


「私が言いたいのはさ。彼女を助けるという事は、曲がりなりにも未来を変える事になる。木島聖を捕まえ、木島ちゃんを助ける。その話が現実的な所まできた。けれどそこまできて、少し怖くなったんだ。そんな大それた事をしていいのか、問題はないのかと、思ってしまったんだ」


 息を呑む。俺はそんな事、考えてすらいなかった。何故今までそんな事すら考えなかったのか。助ける事ばかりを考えていて、目に入らなかったのか。それとも、都合が悪いからと、無意識の内に目を反らしていたのか。


 昔見たSF映画を思い出す。あれはタイムリープものの話だった。主人公は幾度となく時空移動を繰り返し、死にゆく運命にあるヒロインを助けようと奔走する。


 時間を移動出来るのなら話は簡単なように思う。けれどそれは、終わらない悲劇の始まりだった。

 何度目かのタイムリープで、主人公はヒロインを助ける事に成功する。しかしその――ヒロインが

死んでしまうという未来を変えてしまったせいで、他の親しい友人が死んでしまう。


 酷い話だと思った。物語としては良く出来ていたが、残酷な話だった。あの映画の結末はどんなものだったか。よく、思い出せない。


 とう子の言っている事は、つまりはそういう事なのだろう。ただの人間が、そんな事をしてしまっていいのか、その後の事の責任をとる事が出来るのか。


「……今更な話だな。忘れてくれ」


 力なく、とう子は言った。俺はそれに、何かを返そうとした。けれど、何も返せなかった。

無責任な事は言えなかった。それに口にしてしまえば何かが揺らいでしまいそうだったか

ら。

 

 だって俺は気付いてしまったのだ。木島を助ければ、未来は変わってしまう。誰かを助け

たいという、一見尊い願いは。その実、酷く独善的なものだった。







 喫茶店を出て、今時珍しい公衆電話から匿名の通報をした後、とう子と共に西ケ谷高校の学区へと向かった。とう子はこれからまた昨日のように聞き込みをするというので、付き合うことにしたのだ。


 木島聖が捕まれば必要のない事だと思うのだが、とう子はとう子なりにこの件を詳しく調べてみたいらしい。


「殺人鬼が二人いないとも、限らないしな」


 つい数分程前、にししと笑ってまたそれを言われた。いたく気に入ったのは嫌という程わかったが、一体いつまで続くのだろうか。


 蝉の鳴き声が、とても煩い日だった。とう子とは普段から口数の少ない関係だから、余計に煩く感じる。けれどそれが不快という訳ではない。


 本当に、何でこいつと仲良くなったんだったか。性格は、とてもじゃないが合うようには思えない。何かきっかけがあった筈なのだが、それが今一思い出せない。


「うわ。そうか、この辺って……」


 唐突に、少し前を歩いていたとう子が素っ頓狂な声を上げる。何か慌てた風で、そんな様子はとても珍しい。


「何だよ」


 ぶっきらぼうに聞いたが返事はない。やっぱり、今日のこいつは少し変だ。


「また、何か悩み事か」


 少しうんざりしながら聞いた。するととう子の足取りが、少しだけ緩くなる。


「いや、もう悩みはない。その悩みは、もう解決してくれたじゃないか」


「は……? 」


「何でもない、よっと!お前本当に損をする性質だよなぁ! 」


 バン! と、何故か背中を手のひらで叩かれた。音は激しかったが、やはり痛みはない。終始訳が

わからなかったが、とう子の気分が上向いたようなので、これ以上追求するのはやめておいた。


「おっと。そうだった。男には、車道側を歩いてもらわないとな」


 様子が戻ったのはいいのだが、逆に機嫌が良すぎる気がしてくる。とう子はひょいと俺の前を通り、車道側とは逆方向に位置取った。狭い歩道で真横を歩かれて、少し窮屈だった。


「狭い」


「そんな事ないだろう。殺人鬼が二人いるかもしれないんだから、男にはその役目を果たしてもらわないとな」


 上機嫌で笑って、また背中を叩かれた。とう子は先程からひたすらに笑顔を振りまいている。いつ

ものニヒルなものとは違う、純粋な笑顔を。少し調子は狂うが、不思議と居心地は悪くない。


「ハキハキ歩け、約束の時間に少し遅刻しそうだ」


 なら真横を歩くなよと思いつつ、機嫌を損ねないよう、俺は何も言わなかった。







 三人目の聞き込みが終わった頃、時刻は十二時を回っていた。さくさく進めた筈なのだが、思いの外時間を食ってしまったらしい。


「そっか。悪いな、時間とらせちゃって」


 二、三歩離れた距離で、とう子は西ケ谷高校の女生徒にそう告げた。今日西ケ谷高校の生徒は何かしらの行事の準備の為か、登校日だったらしい。三人にとう子が詳しく聞き出そうとしたが、いずれも歯切れの悪い答えが返ってくる。あまり気の進まない行事なのだろう。目の前にいる女性徒は学校指定らしきジャージ姿だった。恐らくこれから部活なのだろう。


「ううん。ところでとう子ちゃん。一つ聞いてもいい? 」


 ジャージ姿の女生徒は、どこかそわそわとしながらそんな事を聞いてくる。


「ああ、いいよ。答えられる事なら何でも聞いてくれ」


 とう子が大きく頷きながらそう返すと、彼女は目を輝かせながら質問を投げかけてくる。


「その人、とう子ちゃんの彼氏? 」


 店長に、頭を殴られたような衝撃が走った。勿論錯覚だ。


 何でそうなるんだ、とか。何で俺が、とか。どうやったらそう見えるのか、とか。とう子はどう

やって否定するのか、とか。とう子がふざけた返事をした場合、俺はどう対処すればいいのか、とか。様々な、複雑とも言える考えが頭を巡っていく。


 その問いに対し、とう子はというと。


「どうなんだ」


 彼女の問いには直接答えず。何故かニヤけ面で、俺にそんな疑問を投げかけてくるのだった。


 どうやら今現在俺は、からかわれているらしい。


 だが残念だったなとう子。日頃の行いを悔いるがいい。何度も経験していれば、半ば条件反射的に構えているものなのだ。


「こんな顔で聞いてくる辺り冗談だから、察してほしい」


 ぐい、と無理やりとう子の体の向きを変えて彼女の方に向けつつ、そう言う。抵抗するかとも思われたが、脇に抱えられたとう子は意外にも大人しかった。


 すると彼女は、目を丸くしたかと思えば、その目を伏せ。何か考えを巡らしたような雰囲気を醸し出した後、小さくため息をつくのだった。酷く、複雑な仕草だった。


「あー……そうなんですね。よく、わかりました」


 先程の仕草が少し気になるが、納得してくれたのなら上々だ。とう子の企みは見事打破された。


「錦ちゃん。そろそろ時間」


「あ、ホントだ。ごめん、そろそろ行くね」


 彼女は腕時計に目をやると慌てた様子で身を翻す。しかしすぐに振り返って、こちらを見据える。そして。


「とう子ちゃん、頑張って」


 などと言う、彼女の目は何故か俺に向けられていて。ついでにその目は、何故かすごく不機嫌そうに細められていたのだった。


「そろそろ離せ」


「ん。ああ」


 その様子に呆けていると、とう子が怪訝な声でそう言った。手を離すととう子はTシャツの皺を伸ばしながら、何も言わず一人てくてくと歩き始めてしまう。


 俺はというと。珍しくとう子に完全勝利したというのに、謎の疎外感に襲われていた。


 四人目への聞き込みは、どうやら河川敷のベンチで行うらしい。

 河川敷というのは、大体植樹などされていないまっ平らな場所だ。自然、木陰なんてもの

は出来よう筈もない。真夏にそんな場所で会合を開こうなんて変わり者は、勿論俺達以外に居はしなかった。


「あつっ」


 ベンチに座ろうとしたとう子がびくりと体を揺らし、素早く立ち上がる。ベンチが予想以上に温まっていたのだろう。薄手の長ズボンですら熱く感じるのだ。素肌を晒しているショートパンツでは、とてもじゃないが座れないだろう。


「大丈夫? これ、良かったら使って」


 そう言って、四人目の女性徒――斎藤貴美枝は厚手のスポーツタオルを差し出してくる。どうやら、彼女もこれから部活動に行くらしい。


「いやー、天使ですなぁ。本当に貴美枝ちゃん大好き」


 斎藤貴美枝からスポーツタオルを受け取りつつ、隣に腰掛ける彼女に軽く抱きつくとう子。ずっと男っぽいとは思っていたが、まさかこいつそういった気があるのではと、今更になって疑ってしまう。


「とう子ちゃん、暑いよ」


 斎藤は苦笑いしてそう言いながらも、自分からとう子を引き剥がそうとはしない。それだけで、何となく彼女の性格が見て取れる。


 朗らかで、少し自己主張が苦手なタイプ。とう子みたいな奴とは相性が良いかもしれないが、常に後ろを歩いているような大人しい人物。


「ごめんな。もう少しだけ」


 謝りつつ続ける辺り、やはりこいつにはサイコパスの気まである。斎藤は笑顔のままだったがさす

がに可哀想だったので、意味ありげに大きな咳払いをした。


「嫉妬は見苦しいぞ」


 しかしまるで効果はないのであった。……ので、首元を掴んで強引に引き剥がす。


「……何だか今日はやけに実力行使をするなぁ。口よりも先に手が出る男は女に嫌われるぞ」


 よくもまあこれだけ言葉が出てくる。反論しようかとも思ったが、斎藤がきょとんとした顔でこちらを見ていたのでやめておいた。何せ彼女とは初対面だ。ここで言い争いを始めては心証を悪くしかねない。とう子の言うように、本当にそういう人間だと思われるのも癪だ。


「じゃあ斎藤ちゃん。メールで話した通り話を聞かせてよ」


 今までのは何だったのか。とう子は唐突に話を切り出した。

すると斎藤はびくりと体を震わせるのだった。それは、あまりにも不自然な反応だった。


「あ、ああ、木島さんの話だよね」


 斎藤は慌てた様子だった。とう子の方を見ると、向こうも視線だけをこちらに向けていた。


「でも、ごめんね。メールで言った通り、やっぱり変わった様子はないよ」


 また、その回答。一人目も、二人目も、三人目も。細かい所に差はあれど、いずれも同じような返事。


 それに斎藤の様子。さっきまで慌てふためいていたというのに、質問の答えを言う時は平静そのものだった。


 その平静さの源は、答えが用意されていたからではないか、という疑問。以前、とう子も言っていた。皆不自然なくらい、同じ反応だと。


 こうやって四人と顔を合わせてみて、その意味がわかった。確かにこれは不自然だ。むしろ不自然

を通り越して、異常とすら感じる。


「そうか。……ごめんね斎藤ちゃん」


 とう子は小さな声で、何故か彼女に謝った。


「え」


「もう一度だけ聞くよ。本当に何もない?」


 顔は笑っていて、目もちゃんと笑っている。とう子はただ、真っ直ぐに斎藤の目を見据えていただ

けだった。だというのに、尋常ではない威圧感を醸し出している。


「えっと……」


 斎藤は目を泳がせて答えに詰まっていた。一目瞭然だ。彼女達は、確実に何かを隠している。


「本当……だよ。とう子ちゃん、私の言う事信じてくれないの……? 」


 引き攣った笑顔で、彼女は答えた。不安そうな瞳は、今にも涙を流しそうだった。それは迷子の子供を連想させて、少しだけ、気の毒に思ってしまう。


「信じるよ。ごめんね、何度も同じ事を聞いて」


 そう言って、またとう子は彼女に抱きついた。またか、と思って見ていたのだが、斎藤は安心した様子だった。


 少ししてとう子が斎藤から離れる。すると心底申し訳なさそうな顔でこちらを見てきたのだった。何を訴えたいのかは、まあ大体汲み取れる。すまん岸本、この小動物のような少女を追求するのは、もう私にはできそうにないとか、多分そういった感じのものだ。


 木島聖が犯人である可能性が確定的になった以上、無理に聞き出す事もない。彼女達が隠しているものが何なのかはわからないが、木島聖が捕まれば木島は助かるのだ。無駄にとう子の心証を悪くする事もない。


 小さく手を振って、問題ないととう子に伝える。すると申し訳なさそうな顔のまま、斎藤に向き直る。


「すまない斎藤ちゃん。もう一つだけ、聞きたい事があるんだ」


「何……? 」


 斎藤はまたきょとんとして、とう子に問い返す。泣きそうだった様子は、今はもうない。


「木島ちゃんの兄貴の――木島聖について、何か知っている事はないかな」


 それは酷く漠然とした問いだった。前の三人にもした、全く同じ質問。答えは三者三様だったが、同時にどれも当たり障りのない回答だった。


 斎藤はまた、そわそわとし始める。以前の三人とは少しだけ違う反応。それを見て、とう子が口を開いた。


「まあ、ほとんど知ってはいる訳なんだけどな。西ケ谷高校の生徒に、直接聞いてみたいと思っただけでさ」


 下手な、カマのかけ方だった。けれどこの状況、この相手においては、非常に有効だった。


「……他の子に、聞いたの? 」


 極度の不安から、安心へ。図らずともそんな揺さぶりをかけられた彼女は、簡単にそれを口にしてしまう。


「ああ。この前な」


 随分、適当で下手くそな返事だった。よく見れば、とう子の顔は少し引き攣っている。斎藤を騙しているようで、いや実際騙しているのだが、それで心が痛むのだろう。


「私も噂程度しか知らないんだけどね……本当なのかな、里香ちゃんと美里ちゃんを殺したのが、先生だって」


 それは、意外過ぎる収穫だった。そんな言葉が斎藤から出てくるなんて、内心酷く驚いていたが、何とか平静を保つ。恐らく、とう子も似たような心境だろう。


「らしいね。私は聞いたよ。殺す所を見たって人から」


 しかしとう子は平然とそんな事を言っていた。もう顔は引き攣っていない。今一こいつの罪悪感を感じる基準がわからない。全くの嘘ではなければ、構わないという事なのだろうか。


「誰が見ちゃったの……? 」


 見た人物に対して同情するように、斎藤は言った。まあ、俺なんだけどね。


「それは言えない。本人も嫌がるからさ」


 ね? と諭すようにそれっぽい事を言って話をはぐらかすとう子。何だかんだ小慣れてきていた。


「でもさ、私にはわからない事があって。それはどうして木島聖が二人を殺したのか。所謂動機って奴までは、知らないんだよな」


 それを聞いた斎藤は、また落ち着かないような素振りを見せる。もうここまでくればそれが何を示すのかは明白だ。彼女のこの反応は、事情を知っている反応だ。


「どうなんだろう……言っても、いいのかな」


 斎藤は口にするかしまいか、迷っていた。それは今現在迷っている事柄が、先程の隠し事よりかはいくらか話しやすい内容だという事を示している。


「良ければ、聞かせてくれないかな。聞いても絶対に、他の人間には漏らさない」


 とう子は真剣な顔で斎藤に頼み込む。斎藤は少し思案してから、その動機について話し始めるのだった。


「最初はただの噂話だったんだ。マンガなんかでそういう話は聞くけど、現実的じゃないから、私は耳にしても話半分に聞いてた」


 思い出すように訥々と語る斎藤。


「それは、何? 」


 とう子が優しい声で聞くと、斎藤は迷いを振り切るように一度頭を振って、続ける。


「一ヶ月くらい前からかな。美里ちゃんと先生が、付き合ってるっていう噂が流れ初めたの」


 少し、頭がフリーズする。木島聖と、播磨美里が恋仲だったって。今、斎藤は確かにそう言った。


「は。そりゃまた」


 とう子はというと、不吉な笑顔になって吐き捨てるようにそう言った。心底気に食わない。その表情と口調からは、そういった感情が容易に読み取れた。


「やっぱり、とう子ちゃんもよくないと思うよね。先生は成人で、美里ちゃんはまだ未成年だし。そ

ういうのにロマンがあるっていうのもわからなくはないんだけど、まさか進学塾の先生と教え子が付き合ってるだなんてとても思えなくて。最初は、信じてはいなかったんだ」


 未成年との恋愛については、確かとても複雑だったと思う。


「そうだね。恋愛自体は法的にグレーだけど、そこに性行為が絡んでくればまた話は別だ。たとえ真面目な付き合いだったとしても、罪に問われる事もある」


 さらりととう子は言ってのけて、俺と斎藤だけがたじろいでいた。……それ以上の意味なんてない

のだ。怯む必要なんてない。


「まあ仮に問題がなかったとしても、良い大人が女子高生に手を出すなんて事は、倫理的にあってはいけない事だと思うけどな」


 とう子は不気味に「ははは」と笑いつつそう言った。本当に嫌いなんだな、あの人の事。


「ごめん、続けて」


「うん。……私と同じで、信じてなかった人も結構いたの。けれどある日、美里ちゃん自身がカミン

グアウトして。ああ、本当の事なんだって」


 それを聞いて俺もとう子も、少し驚いてしまう。だって播磨美里にも、その恋愛にはリスクがある

事はわかっていたはずだ。自分から周りに触れ込むだなんて、あまりにも考え無しな行動だ。


「ま、自慢だったんだろう」


 さぞつまらなそうに、とう子はつぶやく。とう子のように、自己顕示欲などない人間には到底理解出来ないのだろう。


 恐らくとう子の言う通り、播磨美里の思惑は『自慢』だ。相手は女生徒に人気がある木島聖。羨望の的になる事は確実だったろう。リスクがあるとわかっていながらも、彼女はその誘惑には勝てなかった。


 何となく、少しずつ。隠れていた真実が見えてくる。


「そこでも驚いたけど、本当にびっくりしたのはその後。里香ちゃんが美里ちゃんに掴みかかって言ったの。付き合ってるのは私だって」


「不愉快、極まるな」


 そう口にするとう子は、もう不気味な笑顔すらやめていた。


 予想はしていたが、やはりそういう事だったらしい。播磨美里と木島聖。それと須藤里香は三角関係にあった。


 しかし、少し疑問が残る。木島聖が彼女達を殺したのはその上での痴情の縺れなのだろうか。播磨美里と須藤里香が悶着を起こすというのならすんなり納得出来るのだが、何故木島聖が二人を殺したのだろう。


「少しわからないな。それで、何で木島が二人を殺す事になったんだ」


 その疑問を、とう子が代わりに口にする。


「ここからは、私も人に聞いた話だから本当かどうかはわからない」


 斎藤は一度言葉を切り、少し躊躇うような素振りを見せてから。


「美里ちゃんは、妊娠していたらしいの。それも先生の子だって、里香ちゃんに直接そう言ったって」


「は」


 また、不気味な笑い声が聞こえる。その気持ちは、分からないでもない。


 ここからは憶測になるが、恐らくそれが真実だろう。


 播磨美里は木島聖を独占するため、真実かどうかは別として、彼の子を妊娠している事を須藤里香に伝えた。どこからかその話を聞いた木島聖は、口封じの為か、勢い余った結果なのか、播磨美里を殺してしまう。その後須藤里香は播磨美里殺しの犯人が木島聖だと勘付き、自分の身に危険を感じ別れを持ち出したのだろう。その結果、播磨美里と同じように帰らぬ人となった。

 小さな齟齬はあるだろう。けれど恐らく、大方この通りに事は運んだ。


 しかし――。


「――なんて、馬鹿な奴。遅かれ早かれ、発覚するだろうに。頭は良いと思っていたが、それは見込み違いだったのか。はたまた、それくらいにイカれているだけなのか」


 とう子はまたつまらなそうに言う。


 そう。それは秀才と評される彼が起こした事件にしては、あまりにもお粗末なものだった。

もう一ヶ月もの間、生徒間で噂は流れている。恐らく、もう何人かの大人の耳にも入っている事だろう。遅かれ早かれ、木島聖と彼女達の関係は公になる。


 だと言うのに、殺した。それも二人も。


 あの時の光景を思い出す。血を流す須藤里香を、笑顔で嬲る木島聖の姿を。

 

 そうだ。そうなのだとしたら納得出来ない話ではない。木島聖はきっと、紛う事なき悪魔なのだ。

 

 彼女達がずっと隠していた事。それは木島聖と友人の恋仲だったのだろう。だとするならば、妹である木島真知まで口を閉じていた事にも頷ける。彼女達は揃って、友人のプライバシーを守ろうとしたに過ぎない。

 

そう。きっとそれだけなのだ。それだけの、筈なのに。


 彼女はそれを俺達に言い渋ったのかとか。

 彼女は兄の殺人を知っていたのかとか。

 彼女は結局、何を謝っていたのかとか。

 彼女は何故、兄に殺される事になるのかとか。

 そんな、疑問の数々が湧いてくる。


「…………」


 一人頭を振って、雑念を振り払う。今は考えなくていい。とにかく、事件はもう終わったのだ。余

計な事は、木島聖が捕まってからゆっくり考えよう。


「そっかそっか。よくわかったよ。ありがとう斎藤ちゃん」


 礼を言うとう子に、しかし斎藤は不安な眼差しを返す。


「とう子ちゃん、詳しい事は私から聞いたって、言わないでね」


 妙に怯えた様子の斎藤の頭を、とう子が優しく撫でる。


「大丈夫だよー。たとえ拷問を受けたとしても言わないから」


 冗談めいた返答に、彼女は安心仕切った笑顔を返す。


 これで、本当に終わりだ。平和な街で起きた殺人事件は、犯人の自滅に近い形で幕を閉じる。まあ、殺人事件というのは往々にしてそういうものな気がするが。


 動機もはっきりした。辻褄も合っている。もう何も起きはしない。けれど何故だろう。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 斎藤がベンチから立ち上がる。


「うん。またな」


 とう子は笑顔で手を振って、彼女を見送った。


 けれど、何故だろう。何故こんなにも、蟠りが残るのだろう。もう何も起きない、起きない筈なのに。


「岸本」


 不意に、とう子が声をかけてくる。雑念を払って目を向けると、心底疲れたような顔をして。


「私、多分一生詐欺師にはなれないと思う」


 そんな事を、真顔で言うのだった。


 なる気があったのか、そういう生き方は出来ないという意味合いなのか。どちらの意味なのかはわかりかねるが、途端に力が抜ける。お陰で少し気持ちが晴れてくれた。


「ああ、向いてないよ、お前」


 そう答えると、疲れたような顔のままため息をつく。その反応もまた、どちらの意味合いにもとれる。いたく疲れた事は確かなようなので、深く追求する事はしなかった。






 午後三時を過ぎた休日の商店街は、多くの客で賑わっていた。夕食の材料を買いに来た主婦、商店の主人と雑談をする老人、肉屋の前で揚げたてのコロッケを頬張る家族、暇そうにブラブラと歩いている若者。上げればきりがない程に、商店街は賑わっていた。誰もここで、殺人事件が起こるとは思っていない。事実、もう起こる事も、ないのだが。


 斎藤から話を聞いた後、とう子と軽い昼食をとったのがつい三十分程前。そろそろ酒屋も忙しくなる頃だろうという事で、今日はお開きになった。


 商店街を一人、歩いていく。気のせいか、少しだけ体が軽くなったような気がした。


 ずっと気が重かったが、結局俺達が何もしなくても、木島聖は殺人犯として逮捕されていたのだ。

少し拍子抜けというか、空回りした気分だが、その分捕まるまでの時間が短くなったと思おう。誰かの生き死にに関わるなんて事に比べたら、些細な事だ。


 けれど今日も見張りはしなければならない。三十分置きくらいに携帯電話でニュースを確認しているが、今のところ木島聖が捕まったという報せはない。彼の凶悪性と無鉄砲な犯行からして、木島真知の殺人が、今日行われる可能性だって十分にあるのだ。やらない訳にはいかなかった。


 それももう数日の辛抱だと思えば、大した事のないように思えた。実際は数日の拘束というと大した事なのだが、今の俺はそう思わなかったのだ。


 それくらい、心は軽い。まだ小さな蟠りはあるが、大筋は解決した。何か起きたとしても、それは木島真知の死に比べれば些末な出来事だろう。


 もう少しでありふれた日常に戻る。その後の事はどうなるか、あまり想像がつかない。けれど悪い方向に転ぶなんて事は、万に一つも有り得ないだろう。それだけははっきりと言える。





「おう、帰ったか。で、どうだった? 」


 開口一番、目を輝かせて誤解まっしぐらな店長。それにどう対応するかしばし迷って、正直に言おうという結論に至った。


「どうもこうもないですけど。ちょっととう子に相談があっただけですから」


 言ってからハッとする。店長の顔を見やると、やはり満面のニヤけ面なのだった。


「ははーん。初めての事だから色々とわからなくてか。可愛いヤツめ。……あ? でもお前それ少し酷じゃねぇか? いや、どうなんだ実際」


 などと、一人何かブツブツと呟く店長。酔っている時もシラフの時も変わらないと思っていたが、実はこの人常に酔っているんじゃないだろうか。


「てぇ事は今日は進展なしか。つまらん」


 臆面も無くそう言うと、店長はレジへと戻っていく。その右手は腰に添えられていた。どうやら今日は腰の調子は良くないらしい。


 変に口を開くとまた話がややこしくなりかねないので、黙っておく事にした。あえて殊勝な理由を

付け足せば、あまり話が長くなると業務に支障をきたしかねないのだし。


 レジで何やら作業をする店長と、品出しをする俺。昨日もやっていた事なのに、全く別のものに感じられる。


 俺自身が殺人事件という、非日常に身を投じていた訳でもないというのに。我ながら随分ナイーブだと思う。ただ俺はあの夢を見て、少し行動しただけだというのに、まるで一年分のテスト期間を今さっき丸々終えたような、そんな気分だった。普段通りの日常と呼ぶには、些か幸福過ぎる。


「こんにちは」


 けれどその日常を壊すように、その男はやってきた。


 何度か聞いた済んだ声。スラリと長い手足に整った顔立ち。一見、人畜無害を絵に描いたような好青年。模範的善人を表したような、けれどその実悪魔のような青年。彼――木島聖は手を上げて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。


「オールドグランダッドは、置いているかな」


 それは、この酒屋にあるウィスキーの中で一番度数の高いバーボンだった。値段も手頃で、売れる

本数こそ少ないが、リピーターが多く根強い人気がある。


「置いてますよ」


 店長がちらりとこちらを見る。任せていいものか気になったのだろう。視線だけで、大丈夫だと返す。


「ああ、良かった」


 陳列棚へと向かうと、彼もすぐ後ろについてくる。


 とても、不快な気分だった。


 後ろを歩いているのは、二人の人間を殺した殺人犯。俺がその事実を知っている事を、きっと彼は知らないだろう。彼の凶行を知る術なんて、俺から直接聞くか、とう子に聞くかしかない。


 知っている筈はない。そうだとわかってはいても、背後に意識を集中せざるを得ない。


 呼吸は荒くて、悟られないようにするのに精一杯だった。顔には嫌な脂汗をかいている。普段はすんなり見つかる人気の酒瓶も、今日は何故か見当たらない。


 まるで背中に、刃物でも突き付けられているような感覚。


「――これだね」


 不意に後ろから手が伸びてきて、思わず大きく避けてしまう。伸ばされたその手は、すぐ目の前にあったオールドグランダッドを握っていた。


「……そんなに驚く事、ないと思うけど」


 木島聖は驚いた様子もなく、冷ややかな目でこちらを見ていた。その様子はあまりにも不自然で、

焦燥感は増していく。喉が乾く。呼吸の乱れが抑えられない。


「――平気だよ。君は殺さない」


 予備動作もなく、彼はこちらに近付いて――耳元で、そんな事を囁いた。


「今、なんて……? 」


 頭が酷く混乱してしまって、きちんと聞き取れていたのに、問い返す。


「……少し、外で話さない?もし人殺しと話すのが億劫だって言うなら、別に人気のある所で構わないから」


 もう一度、木島聖の口から物騒な言葉が出て来る。もう、先程の考えは無くなっていた。明らかに、こいつは知っている。


「店長さん。少し、彼を借りてもいいですか? 」


 いつものように、柔らかい口調で店長に話しかける殺人犯を、俺は見ている事しか出来なかった。






「気持ちのいい快晴だ」


 木島聖が大きく腕を上げ、気持ちよさそうに伸びをする。

商店街から少し離れた場所に、それなりに大きな公園がある。休日ともなれば多くの親子が訪れ、賑やかに遊具の音を鳴らしている。


 二人きりで話がしたくないならと、彼が提案したのはそんな公園だった。


「いやしかし。本当についてきてくれるとは思わなかったよ」


 朗らかに笑って、彼は日陰にあるベンチに座った。目線だけを動かして、隣に座るよう促してくる。


 本当に、こいつの言う通りだ。正気じゃない。俺は今、殺人犯に誘われて、のこのこと公園までついてきている。とう子が知ったらきっと酷い剣幕で怒るに違いない。何か道具を持ち出してきてそれでその非力さを補って、目一杯の暴力を振るってくるだろう。


 けれど。彼の誘いを断るのも、違うと思ったのだ。


 犯人である木島聖ならば、数々のわだかまりを解消してくれるかもしれない。それにそれは彼が捕まったら、もう確認のしようがない事かもしれない。


 それに、正直に話すとは思えないが。もしここで妹を殺す動機と、日付。それを聞き出す事が出来れば、それは何よりも得難い情報になる。


「……何で。俺が知ってるって、わかったんですか」


 単刀直入に聞いた。もう、半ばやけくそだった。


「ん? いやだって、君ら西ケ谷高校の生徒に僕の事聞きまわってたでしょ? それも大っぴらに。僕の大ファンである彼女達が、それを知らせてくれない訳ないじゃない? 」


 言葉を失う。彼女達の間では木島聖が犯人であるという噂が流れていた。それをわかっていながら、彼と連絡をとっていたのか……? それはもはや――。


「妄信的、だよね。僕との可能性を感じちゃって、守らなくちゃいけないって思うみたいだよ? 」


 彼は本当におかしいと、ケラケラ笑って。


「本当、馬鹿な子は扱い易くて助かるよ。たまに、虫唾が走るけれどね」


 その化けの皮を、いとも簡単に剥がしたのだった。


「……あんた、最低だよ」


 沸々と怒りが湧いてきて、相手が殺人犯だという事も忘れてそう言った。けれど彼は気分を害したような様子もなく、またケラケラと笑うのだった。


「そうかもね。でも君も思うでしょ? ほら、一緒に聞き込みをしていた中島さん。彼女みたいな子と、妄信的な彼女達には明らかな違いがあるって」


 それに答える事はしなかった。何を言っても、目の前の悪魔には揚げ足をとられそうな気がしてしまったのだ。


「まあ尤も、彼女は少し賢すぎるけどね。だから僕は嫌われているし、僕も彼女は大嫌いだ」


 臆面もなく、声を上げて笑う。どうしてなのか。木島聖は、会った時から酷く機嫌が良かった。


「きっと僕の仕業だって勘付いたのも、彼女なんだろう? 」


 不意にそう聞かれて答えようか迷ったが、こいつがとう子に復讐めいた事を企てでもしたら厄介だ。


「……普段はそうだ。とう子は俺なんかよりよっぽど頭が良い。けれど今回は違う。あんたが犯人だって気付いたのは、俺だ」


 体勢を一切動かさずに、木島聖の一挙一動に目を配って警戒する。君は殺さない。それは気付いたのが俺ではなく、とう子だと思っての発言だったのではないだろうか。


 木島聖は目を丸くして、黙り込む。喉が乾く。どうにも、その沈黙が耐えられなかった。


「やっぱり、俺を殺しますか」


 沈黙に耐えきれずにそう聞くと、彼は盛大に吹き出した。


「あはは。まさか。今更君に手を出そうだなんて思わないよ。……少し、驕りすぎじゃないかな。別に君達が気付いても気付かなくても、僕は近々捕まる。正義を成すのは、君たちじゃないんだ」


 言われて反感を抱いてしまう。けれどそれは、その通りだった。殺人犯を捕まえるのはおかしな夢を見る高校生などではない。


 では、何故こいつは俺に話しがあるだなんて持ちかけてきたのだろう。一体他に、何の話があるっていうんだろうか。


「じゃあ話って、何ですか。下らない雑談なら、もう帰りますよ」


 鋭い視線を向けるが、木島聖は怯んだ様子も、焦った素振りも見せはしない。ただ微笑んだまま、こちらをじっと見据えているだけだった。小馬鹿にされているような気がして、心がざわつく。


「……君は、真知の事をどう思う? 」


 けれどそんな質問で、乱れていた心は急ブレーキをかけたように静かになる。沸々と沸いていた怒りも、同時に消え去っていく。


 何故、こいつはそんな事を聞くのだろう。これから、彼女の事を殺すから? それとも、兄として単純な質問? 殺す筈の人間なのに? 


 一人で黙りこくっていても答えが出る事はない。


「……何で、そんな事を聞くんですか」


 聞き返すと、木島聖は困ったように眉を寄せ、顎に手を添えた。


「悪いけど、質問に質問で返されるのって、好きじゃないんだ。普段こんな事は言わないけれどね。先に、質問に答えてくれるかな」


 顔は笑っていた。けれど目はこれ以上ないくらいに冷たかった。有無を言わせない、その雰囲気。

目の前の男が人殺しだという事を、俺はわかっていたようでわかっていなかった。


「……前にも言ったと思いますけど、本当に良く出来た良い人です。模範的な善人、倫理観を決して無視しない、それでいて周りとの摩擦も起こさない。そんな、誰にも嫌われないような人です」

 正直に言う。話した事は全て本心だ。それ以上の意見は思い付かない。


「んー。そういう事でもあるんだけれど。まあ、いいか。そっちは追々聞くとして」


「…………? 」


 何だろう。俺は別段頓珍漢な回答をした訳ではないと思うが。どうやら、木島聖の思惑とは少し

違ったらしい。


「僕も概ね同じ意見だ。規律を重んじ、相手を常に尊重する、お手本のようなお人好し。それでいて冗談も言えるし、僕に似て美人だ。点数をつけるのだとしたら、100点中90点は、間違いなく超えるだろうね」


 機嫌が良さそうに笑って、木島聖は同意した。言葉は違えど、抱いている印象はほとんど変わらな

いらしい。


「けれど。君は一つ、勘違いしているよ」


 また笑ったまま、冷たい目で。彼は諭すように言った。


「相手がどんな善人であろうと、どれだけ自分に好意を向けようと、いくら厚意を施されようと。嫌われない人間なんて存在しない。確かにあいつは敵を作りづらい奴だけど、人間社会で生きていく以上、敵を作らない事なんて不可能なんだ。だからそこだけは訂正させてもらうよ。そんな甘い考えは、見当違いも甚だしい」


 表情はそのままに、口調はいくらか強く。


「人に幻想を抱いてはいけない。もしかしたら君は木島真知という飛び抜けた善人を見てしまって、何かとんでもない夢を、密かな願望を見てしまったのかもしれない。彼女ならばそうであるのではという、甘い幻想を」


 強い口調で立て続けに言われてしまって、頭が追い付かない。

 

 けれど反論は出来なかった。木島聖の言っている事は概ね正しい。嫌われない人間などいないし、誰も嫌わない人間もいない。

 

 俺は彼女を見て、漠然と思ってしまったんだ。他者とのトラブル続きの幼少期。彼女のように生きられたら、どれだけ違った結末にたどり着けただろうかと。

 

 そうだ。これは憧れというよりも妄想に近い。俺は自分の過去に彼女を当てはめて、他者ともっとまともな関係が築けたのではないかと、幻想を抱いてしまったのだ。


「わかってくれたようだね。頭の柔らかい子は聞き分けが良くて話のしがいがある」


 木島聖は満足したように小さく二度頷いていた。


「じゃあさっきの質問をもう一度。真知の事をどう思う? 今度は、君個人が異性として見た場合の意見を聞きたいな」


 言われて首を傾げる。何だそれは。真面目に答える必要なんてないように思えたけれど、俺は正直に、彼に答えた。


「……わからないです。彼女に対しての思いにそういったものが含まれているのか、わからないんです。……ただ、何かしらの答えが欲しいというのなら、嫌いという事は有り得ない。そう言う他ない

です」


「成る程。……うんうん。歯切れが悪くとも、素直だと言うのは好感が持てる」


 木島聖は大きく二度頷いた後、小さくため息をついたのだった。それはどこか、安堵のため息のように見えた。


「そんな君に一つ、頼みたい事がある。報酬はないけれど、きっと君にとっても悪い話じゃあない」


 そうして、彼は全ての真相を口にする。まるで頭になかったそれらは、にわかには信じ難い内容だった。


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