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悪意  作者: うろおぼえ
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第五章

もう、驚く事はなくなっていた。


恐らく俺はこの不思議な夢に嫌悪感を感じつつも、少しずつ順応してきているのだ。笑い合う木島達、木島真智と、名も知らぬ少女の死体。以前感じていた嫌悪感も、慣れてきたのか、少しずつ緩和されている。しかしそこに人の死が投影されている以上、その泥が完全に無くなる事は恐らくないだろう。


 けれど、今日はいつもと違う点があった。不明瞭な写真が、今日はいつもより一枚多い。……いや、厳密に言えば違うのだ。写真の枚数はいつも同じ。ただ今までは、二枚しか見えていなかっただけ。他の物は変にぼやけてしまって、内容を窺えなかっただけなのだ。


 しかし何故か、今日はそれが見えていた。それもはっきりと。


 場所はどこかの高架線の下。人通りの少ない、暗いトンネル内。


 そこで――――一人の少女が、大量の血を流して絶命しているのだった。






 目が覚めた。ベッドから跳び起きて、リビングへ向かう。


 何時かはわからないが、姉はもう起きていた。キッチンでいつものように朝食を作っている。


「ありゃ、おはよう。今日も早いのね。昨日ほどじゃないけど」


「おはよう」


 顔も合わせず挨拶をして、リビングの中央へと向かう。


 テレビの電源は入っていなかった。近くにリモコンが見当たらなくて、本体の電源ボタンを押す。チャンネルを変えるボタンに指をかけたまま、画面が映るのを待った。


「――――遺体が、発見されました」


 以前も聞いた、不吉な言葉が聞こえてくる。テレビから少し離れて、画面を注視した。


「被害者は持ち物などから西ケ谷高校の生徒、須藤里香さんと見られ――」


 夢で見た通り、被害者は木島真智ではなかった。それを確認出来て安心している自分がいて、少し気分が悪くなる。


「死因は首を切られた事による失血死――」


 おびただしい程の血は、首を切られた事によるものらしい。


「――先日起きた殺人事件の現場から近い事もあり、警察は同一犯による犯行の可能性もあるとみて――」


 あれは、やはりあの河川敷の下流にある高架線だったらしい。距離は播磨美里が殺された場所から二キロ程。被害者はどちらも西ケ谷高校の女性徒、現場は徒歩で三十分程しか離れていない。誰だって、同じ犯人なのではと疑いを持つ。


 初めて、夢が現実のものとなった。いつかはこうなるかもしれないと身構えていたが、予想していたよりも精神的なショックは少なかった。恐らくその理由は二つある。一つは、あの夢がただの夢ではないという、根拠の無い確信があったから。二つ目は、被害者が木島真智ではなかったから。彼女が、まだ生きていたから。


 不謹慎な考えを振り払うように頭を振る。正直に言って、木島が生きているという事実は嬉しい。けれど――。


「――二日連続で殺人事件なんてね。いよいよ、常軌を逸してきた」


 気付けば隣には姉がいて、深刻な顔でテレビ画面を眺めていた。


「本当、どうかしてる」


 素っ気なく、けれど心の底から同意して、ソファーに座り込んだ。


 そう。姉の言う通り、もうこれはまともな事態ではない。殺人事件が起きた。それだけでも皆眉を顰めるというのに、同じ街で二日続けて、しかも高校生が殺された。何年も殺人事件とは無縁だったこの街において、その事実は異常と言って差し支えない。


 とにかく、とう子にあの事を伝えなければならない。






 朝食を済ませて部屋へ戻ると、ちょうど携帯電話が鳴った。相手が誰であるかは、大体想像出来た。


「おはよう。ニュース、見たか? 」


 いつも通りのハキハキとした声。夜よりも朝の方が得意なのは、子供の頃から変わっていないらしい。


「おはよう。見たよ。……ちょうどよかった。後で連絡しようと思ってたんだ」


「まあ、二日続けて他殺体が出ればな」


 とう子は思い違いをしていた。無理もない。あんなニュースを見た後では、普通はそう反応する。


「いや、そうじゃないんだ」


「……? そうじゃないって、どういう事だ?」


 興味を惹かれたのか、とう子の声が少し低くなる。


「今朝、俺は須藤里香の事件現場を夢で見た。いや、厳密に言えば今までも木島達の夢と一緒に見えていて、はっきりとは見えていなかっただけな訳だけど」


「――――」


 それを聞いてとう子は黙り込んでしまう。あまりの衝撃に言葉が出ない、のではなく。何か、考え込んでいるのだろう。こいつはそういう奴だ。


「……そうか。つまり、いよいよ夢が現実のものになった訳だ。……それにしても、本当に厄介な夢だな。そんな低劣なものをただの人間に見せつけるのなら、せめてもっと親切に教えてくれないものなのか」


 なあ?などと言われても、こちらとしては自分でコントロール出来るものでもないので返答に困ってしまう。


「そんな冗談言ってる場合じゃないだろう」


「ああ、わかってる。そんな啓示めいた物をただの人間に見せるのなら、もっと整然としたものを示してくれないものかと、つい愚痴を言いたくなってしまったんだ。……何にしろ、どうにかしないといけないな」


 とう子は大きくため息をついて、一度言葉を切る。そして恐らく、真実であろう言葉を口にした。


「このままだと、木島ちゃんは間違いなく死ぬ」





 今朝の天気も曇り気味で、そんな浮かない天気はどんよりとした気分に拍車をかけていく。道行く人々の顔も、やっぱりどこか憂鬱そうだ。


 きっとそれは天気のせいだけではない。家を出てから五分程。その間に二人の警察官を見かけた。


 物々しい、とまではいかなくとも、街は一時的に穏やかな日常を失っている。当たり前の話だが。何も、この殺人事件は俺達だけの話ではないのだ。


 アーケード街の商店は、普段通り営業している。店の者も、客も、ぱっと見ただけではいつもと変わらない。


 けれど店主の座っている椅子の横には、金属製のバットが置いてあったり。


 井戸端会議をする年配の女性達の話題の中心は、もっぱら今朝のニュースだったり。


 明らかに、住民達は異質な事件に敏感になっていた。……当然だろう。人が人の手によって死んだのだ。人の死というのは、殺人というのは、それだけ周りの者に影響を及ぼす。


 このアーケード街の中でさらにもう二人死ぬと知っているのは、きっと俺だけだ。そう考えた途端、気分が悪くなる。お調子者のヒーローであれば手柄を独り占め出来ると喜ぶのかもしれないが、生憎俺はそこまで図太くはないし、ヒーローなどでもない。正義を成せるかもしれないなんて喜びはなく、あるのはただ、自分は彼女を助けられるのかというプレッシャーだけだった。


 もう一度あの時の自問自答を繰り返す。答えはとうに出ているが、自分に言い聞かせるように。

 この中で木島の死を知っているのは俺だけだ。それを見過ごしても、きっと住民からは何も言われない。批判などされる訳がない。その道理がないのだ。


 けれど頭の中の住人達は、そうではないのだ。まるで全て知っているかのように、お前はもう本当にやるべき事はないのかと糾弾してくる。その幻想は時に、息苦しさをも引き起こす。


 それらは俺の頭の中の妄想で、決して現実のものではない。当たり前だ。彼らにはそれを知る術などないのだから。だからこれは、俺の心の弱さが生み出した妄想でしかない。俺のような人間が、たとえとう子の手を借りようとも、木島を助ける事が出来るのだろうかという、そんな女々しい考え。……けれど、俺は木島を助けなければいけない。そこには倫理観や義務感の他に、もっと別の感情がある。


 お前は人の死に敏感だと、とう子に言われた。きっとそれは、そうなのだと思う。

知らない人間の死には、人並みに蛋白だ。けれど知っている人間の死を考えると、途端に体の力が抜ける。


 少し前まで、木島万智は知らない人間だった。けれど顔を合わせて、話をした。彼女は甘い物が苦手な俺に、ビターチョコケーキの存在を教えてくれた。たった一度だけだったけれど、メールもした。


彼女の身に何か起きたとして、もう無感情ではいられない。そして何より。


――何故あの人が殺されてしまったのか、不思議でなりません。


 あんな人間が、殺されていい理由がない。そう、思うのだ。


 兎にも角にも、もう一度とう子と相談しなければならない。どういった訳か夢の見え方にはズレがある。須藤里香の死は、もう見た時には手遅れだった。しかし最初に見た被害者である木島は、まだ生きている。何か法則があってそれがわかればいいのだが、生憎てんで見当がつかない。


 以前と状況はあまり変わっていない。ただ木島の死が濃厚に、ほぼ確実になっただけ。


 結局のところ、彼女がいつ殺されるのかがわからない。須藤里香の夢が現実となった以上、昨日考えた事以外にも何か手を打たなくてはならない。もしかしたら、今日にでも木島は殺されてしまうかもしれないのだから。


 考えながら歩くが、やはり良い案は思い付かない。……いや、あると言えばあるのだが、それはあまり現実的ではなかった。


 地面とにらめっこしながら歩いていると、どんっと。誰かにぶつかってしまった。


「すいません」


 慌てて謝りつつ顔を上げる。目の前には、こちらを不思議そうな顔で見る青年が立っていた。


「いや、大丈夫。気にしないでいいよ」


 青年は手を振って、爽やかに笑った。その様子を見て、少しだけ安心する。


 背の高い、顔立ちの整った人だった。年は俺より少し上だろうか。爽やかな印象も相まって、まるで芸能人のようだ。そしてこれは気のせいかもしれないが。彼はどことなく、彼女に似ていた。


「次からは、ちゃんと前見てね」


 そう言って、青年は歩き去っていく。もう一度頭を下げて、それを見送った。


 その青年は、木島万智に酷く似ていた。顔立ちと、その柔らかい物腰。彼女に兄がいたとしたら、きっとあんな感じなのだろう。


 もしあの人が木島の兄であったとしたら。あれだけ優しそうな人だ。きっと何かあっても相談に乗ってくれるだろう。例えばそれは、自分の身に及ぶ危険だったり。


 だとしたら、あの時言い淀んだのにも辻褄が合う。俺達が何かしないでも、彼女は兄に助けてもらえると思ったのだろう。それで殺される未来が回避出来るかどうかは、別として。


 案外、本当にあれは木島のお兄さんだったのかもしれない。そう考えると、何故か少しだけ安心した。味方が増えたような、そんな気がしたのだ。


 淀んだ気分が少しだけ晴れて、足取りも心無しか軽くなる。気付けばアーケード街は、終わりに近付いていた。派手な出口を出れば、人通りの少ない住宅街に出る。


「――まさか本当に、ぶつかってくるとはなぁ」


 アーケード街を出る直前。背後から、そんな笑い声が聞こえたような気がした。





「もしかしても何も、それは間違いなく木島ちゃんの兄貴、木島聖だよ」


 昼休み。例によって俺ととう子は屋上に来ていた。勿論これからの事を相談する為だ。……相談する為なのだが、俺は今朝会った青年の事がどうしても気になってしまっていた。そのつかえを取り除かなければ本題に集中出来なさそうだったので試しに聞いてみると、とう子は心底つまらなそうにそう答えたのだった。


「やっぱりそうなのか。外見といい物腰といい、似過ぎだと思ったんだ」


 一人納得して、喉に刺さっていた小骨がとれたような気分になる。しかし、そんな俺とは違って、とう子の顔はどこか険しい。今にも、何か恨み言でも吐きそうな顔だ。


「私は、嫌いだけどな。似ているとも、これっぽっちも思わない」


 そして、本当に恨み言のような事を口走る。


 少し驚いてしまう。この友人はその性格上、誰かに対して嫌悪感を抱くのはそう珍しい事ではない。けれどそれをはっきりと口にする姿は、あまり見た事がなかったからだ。


「何だ。やけに刺々しいな」


「いや、まあうん。あいつは特別だ。悪口は災いの元、モラル低下の源だと思っているからあまり口にはしたくないんだけどな。何というか。私なりに、世の鈍感共に警鐘を鳴らしたいというか」


 とう子にしては随分歯切れの悪い回答だし、何を言っているのかも、いまいちわからない。一人首を捻っていると、とう子はこちらをじと目で見つつ小さくため息をついた。


「……まあ、お前はそうだよな」


「さっきから何が言いたいんだよ……てんでわからないから、はっきり言ってくれ」


 痺れを切らしてそう聞くと、とう子は眉を顰めた後、観念した様にまたため息をついた。


「お前が鈍感だって事だよ」


「だからそれが――」


「――岸本。羊の革を被った狼って、聞いた事あるだろう」


 とう子はこちらの話を遮って、そんな話を始めた。まだ話が見えてこないが、とう子なりに順序立てて話そうとしているのだろう。


「そりゃ、まあ一度は」


「どちらかと言えば人間の革を被った悪魔と言った方がわかりやすいかもしれないが、あいつは悪人ではないしな」


 そこまで言われて、ようやくとう子の言いたい事の見当がつく。


「あの人が、そうだって言うのか」


「そうだよ」


 少し不満を感じつつ問うと、つまらなそうな顔ではっきりと返されてしまった。


 信じられなかった。あんなに感じの良い青年が、実はそうじゃないだなんて。いや、とう子にはっきりと言われた後でも、俺はそれが信じられないでいる。


「妹の真似でもしてるのか、正直その演技力には目を見張る。けれど隠し切れない悪意が、あいつにはある。頭は良いみたいだが欲望に負けてしまうのか、いつも決まって詰めが甘いんだ」


――まさか本当に、ぶつかってくるとはなぁ。


 空耳だった筈のそれが、脳内で再生される。


 とう子の言う通りなのだとしたら、あの笑い声も木島聖の物という事になる。


 けれどやはりそれは信じられない。だってまるで木島聖は、妹である木島万智の生き写しだ。仮にとう子の言うように兄に悪意があるのだとしたら、あの善人でしかない妹にも醜い一面がある。裏を返せばそうなってしまうんじゃないかなんて、そんな屁理屈まで考え始めてしまう。


「だーかーらー、さ。上手いんだよ、驚く程に」


 黙り込んでいる俺に、とう子は呆れたようにそう言った。


「事実、私だって最初は騙された。……勿論最初だけだぞ?けれど注視していればわかる。あれは生来の性悪だ。臨任とは言え、進学塾で講師なんてやらせるべきじゃないよ、あんな奴に」


 あんまりな言い様だった。これだけ誰かに敵視をむき出しにしたとう子は、もしかしたら初めて見るかもしれない。それ程に、とう子は木島聖という人間を毛嫌いしていた。


「……って、あの人講師なのか」


 思い返せば雰囲気的にも、それっぽいと言えばそれっぽい。


しかしあれだけの美男子だ。女子生徒に囲まれる木島聖の姿は容易に想像出来る。とう子の言う演技も相まって、アイドル的な扱いも受けているかもしれない。


「……とんでもない人気がありそうだ」


 つい、心の中が声に出てしまう。


「あるぞ、それはもう反吐が出る程に。講師が風紀を乱すっていうのは、甚だしい問題だと思わないか?進学塾の名が聞いて呆れる」


 それに間髪入れずにとう子は答える、それはもう、心底毛嫌いするべき事実だと言わんばかりの渋い顔で。確かに、その通りなのかもしれないが、あえて同意せずにスルーする事にした。これ以上続ければ、この友人は木島聖に対して怨嗟を吐き続けるかもしれない。自分から話を振っておいて何だが、肝心な話の方を、そろそろしなくてはならない。


「こっちから話を振っておいてなんだけど、そろそろ本題に入ろう」


「ああ、そうしよう。あいつの話なんざ極力したくない」


 こちらの予想に反してとう子はあっさりと矛を納める。そしてこれは全くの余談ではあるのだが、この友人は機嫌が悪くなるとハシが進む質で、気付けばとう子の弁当箱はもう空になっていた。


「昨日三つの策を捻り出した訳だけど、正直それだけじゃ足りないと思う。お前はどう思う? 」


 率直に聞くと、とう子は困ったような顔をしながらも同意するように頷くのだった。


「足らない、という意味では昨日の時点で既に足らなかったけどな。まあ、夢が現実になると判った以上、あれだけでは心許ないというのは確かだ。しかし」


 とう子は困り眉のまま、一度言葉を切る。


「いいか。昨日も言ったが、やれる事は限られているんだ。夢が現実になる事は確定的になった。けれどそれは私達の間だけでの話だ。まだ信憑性なんてものは欠片もないし、力になれるような人間は話を聞こうともしてくれないだろう。かと言って四六時中木島ちゃんに付きまとう訳にもいかない。残念だが、昨日の三つが最善策なんだ」


 それは、わかっている。状況は変わっていないのだ。不思議な夢で彼女の死を知覚出来たとしても、俺達は物語の中のヒーローでも何でもない。ごく普通の、ただの高校生でしかない。もどかしいが、とう子の言う事は尤もだ。


「本当に、もう何もないかな」


 諦め悪く、そう呟いた。


「ああ、ない」


 とう子は真顔でそう答える。当たり前の反応なのに、つい、ため息をついてしまう。


「ただ」


 その空気が耐えきれなくなったように、とう子は間を空けずに話し始めた。


「やはり木島ちゃんの周りでは何か起きてる。それは確かだ。それを調べてつぶさに観察していけば、もしかしたら犯人に辿り着けるかもしれない」


 そう言えば、昨日とう子は西ケ谷高校の生徒に話を聞くと言っていた。そこで、何か有益な情報でも得たのだろうか。


「何かわかったのか」


 期待して聞くと、とう子は「いや」と首を振った。という事は、それはただの経過報告という事だろうか。


「皆普段と変わりはないと、言っていたよ」


「異常はないって事か」


 嬉しい事実である筈なのに、俺は落胆していた。とう子も険しい顔をしていて、俺と同じように落胆しているのかと思ったのだが、どうにも様子が違う。どちらかと言えば、何か納得がいかないといったような表情だった。


「そうだと言っていた。何故か、皆一様にな」


 とう子の言った言葉を、頭の中で一字一句復唱する。それはつまり――――全員が、同じ返事をしたという事か。


「いいか。私が聞いたのは、あの木島万智の事だぞ。目に見えた異常を感じずとも、些細な事を上げる人間が、全員とは言わなくとも何人かは居ていい筈だ。例えばそれは、播磨美里の死にショックを受けている様子だった、だとか。……だが、誰もそうは言わなかった。普段と変わりはないと、彼女達は口を揃えてそう言った」


「それは……変だ」


 なんだ、それは。それじゃあまるで――。


「だろう。声をかけたのは一四人。それだけの数に聞いて、全員が似たような答えを返してきた。木島ちゃん含め――全員で何かを隠しているとしか思えない」


 西ケ谷高校の生徒が集団で隠したがる事。それが何なのかはまるで見当がつかない。けれどこれまでに殺されたのも、これから殺されるのも、全員西ケ谷高校の生徒だ。全く関係が無い、なんて事はないだろう。


「何か隠しているのは木島ちゃん個人ではなかった。それ自体は収穫だ。……しかし、その中身まではそう簡単に突き止める事は出来ないだろう。何せ皆口を閉じてる。お手上げとはいかないまでも、骨を折らずに済む話じゃない」


 確かに。勿論、伏せている内容にもよるが、状況から考えてそう簡単に口を割るとは思わない。何しろ隠しているのは個人ではなく集団。そういった時、人間という生き物は凄まじいまでの結束力を発揮する。


「メールを送った子達に、これから直接話を聞いてみる。口を開きそうな子から順にな」


 だが同時に、小さなほつれも出てきやすい。人間は皆同じではない。やましい事をしていても普段と変わらず笑っていられる者もいれば、何かの拍子に平静を保てなくなってしまうような者もいる。恐らく、根気よく時間さえかければ、その隠し事とやらは確実に露わになるだろう。要領の良いとう子であれば、常人よりも早くその真相に辿り着けるかもしれない。


しかし。


「どうかな、間に合うかがわからん。いや、口にしても仕方ない事だが」


 そう。それが木島の死に間に合うかどうかがわからない。今日中に突き止める事が出来ればいいが、とう子は渋い顔をしている。一朝一夕には、解決する見込みがないのだろう。


「ともかく、私は学校が終わったら直接彼女達に会ってみる。岸本は予定通り八代さんの所で見張りをしてくれ。難しいとは思うが、不審がられない程度にな」


「ああ、わかった」


 八代さん、というのは酒屋の店長の名字だ。とう子は店長の事をそう呼んでいる。


 店長には今朝方嘘の事情を説明して、既に了承は得ている。そして、勿論姉にも適当な嘘をついておいた。一日に二つも嘘をつくというのは、詮無き事とは言え、あまりいい気分ではない。


 とう子の言う通り、店長に怪しまれずにあの現場を監視するのは難しかった。店の中からではアーケード街の大通りを通過する者しか観察出来ない。店の入口まで行ってようやく、例の脇道の入り口が見えてくる。勿論、角度的に奥の方までは見えない。


 店内から観察するのは、あまり良い案とは言えない。店長に怪しまれずに済むが、木島と犯人が店の前を通るとは限らない。もし逆方向から来られたら気付く事が出来ないからだ。断末魔は聞こえてくるかもしれないが、そうなってはならない。


 やはり確実に防ぐのであれば、店の入口付近が好ましい。あそこからなら、通りを行き交う人、脇道に入る人間全てが目に入る。昼間ならひっきりなしに通行人が行き交うが、夜であれば人通りは無いに等しい。木島や不審な人物に気付かないなんて事は、まず有り得ないだろう。


 しかし、それを店長に怪しまれずにやり続けるというのが困難なのだ。ずっと店の前に突っ立っていれば、まず間違いなく不審がられる。


 そしてこれが一番の問題なのだが、あの店長が俺が深夜遅くまで起きている事を許してくれるのかという点。大雑把な性格ではあるものの、あの人は俺を子供として扱っている。事実として俺は高校生であり、常識的に考えてもあまり良い事とは言えない。大っぴらに夜更かしを許してくれるとは思えなかった。


 何か策を講じねばならないのだが、どうにも思い付かない。このままでは監視そのものが無くなってしまう可能性まで出てくる。なので、頼りになる友人に助力を請う事にした。


「とう子さん」


「何だ急に。気持ち悪いぞ」


 分かりきっていた反応をされ、少しだけ感情が穏やかではなくなるが、めげずに続ける。


「店長に怪しまれない方法、何かないか」


 するととう子は顎に手を当て考え始める。いい加減とう子頼りは控えねばならないとも思うのだが、答えが出ないのだから仕方がない。一人で空回りして何も出来なかった、なんて事の方が遥かに問題だとも思うし。


「……悪くない案はある」


 そして、やっぱりというか当然というか。頼もしい答えが返ってくる。しかしどうしてだろう。その言葉とは裏腹に、とてつもない不安に駆られるのは。


「やるか? 」


 それは内容を一切口にせず、実行するか否かという問いだった。不穏極まる展開に、雲行きが怪しくなる。


 そこまできてようやく、心がざわつく理由に行き当たった。どうしても何もない。さっきからとう子の顔は、心底楽しそうに歪んでいた。







「おう、来たか」


 学校が終わった後、いつものようにバイト先である酒屋に赴くと、店長が珍しく出迎えてくれた。大抵腰が痛いのか、面倒なのか、レジの椅子に座ったままなのだが、今日に限って眩いばかりの笑顔で出迎えてくれたのだった。


「心無しか背が伸びたんじゃねーかぁ?」


 店の入り口付近で、バシバシと背中を叩かれた。とう子が振るう暴力とは違って、こちらは普通に痛い。店長である八代十大さんは御年五十を超える。学生時代から初めた柔道は、今現在でも続けているらしく、そのがっちりとした体格も、どこのプロレスラーだと言いたくなる程逞しいものだった。


「そりゃそうか。お前ももう十七だもんなぁ」


「いや、まだ十六です。十七になるのは、十月です」


「おお? そうだったか。悪い悪い、忘れてたわ! ちゃんと何か買ってやっから許せ! 」


「いや……ホントお構いなく……」


 鈍感だと言われる俺でも、さすがに何かがおかしいと気付く。というか開幕からひたすらにおかしい。腰の調子が良いせいかとも思ったのだが、それだけでここまで上機嫌になるのも変な話だ。


 普段、大抵仏頂面の店長は、何故かずっとニコニコと笑っていた。正直言って、かなり不気味だ。昔見たドラマだったか邦画だったかで、堅物な老人に孫が出来るという話があった。仏頂面の老人は孫の顔を見た途端、顔をくしゃくしゃに歪ませてだらしなく笑い出す。今の店長は、あの時の老人そのものだった。勿論俺は孫などではないし、店長は堅物で仏頂面ではあるが、全く笑わないという訳でもない。そこには感動の物語もないというのに、そんなくしゃくしゃな笑顔など向けられても反応に困る。


 きっと、この人にとってそれぐらい幸福な事でもあったのだろう。でもなければ人間、こんなにだらしなく笑い続けてはいられない。もし何もなくこの状態になったというのなら、何かの病気を疑う。


 創作物の中の老人と同じように孫が出来た、というのは恐らく違う。何故ならもう既に店長に孫はいる。少し悲しい話だが、疎遠になった息子夫婦からその一報だけは届いたらしい。会った事も無いらしいが、店長は同封された写真を後生大事に保管していた。


 ではその孫が会いに来たのか。これも恐らく違う。昨日も店に来たが、そんな雰囲気はまるでなかったし、今もそういった痕跡などは見当たらない。久々に会って、数時間で別れるというのもおかしな話だ。会いはしたが喧嘩別れした、というのなら辻褄も合うが、ならこの機嫌の良さの説明がつかない。


 単純に酒……は、大体いつも飲んでいるので恐らく違う。それはそれで大いに問題があると思うのだが、それで商売が成り立っているのだから、一非正規雇用者の俺がとやかく言うような事ではない。第一、店長は酔っていても素面の時と大差はない。


 じゃあ何なのか。……もういいや、面倒だ。


「何か良い事でもあったんですか」


 やんわり聞いたつもりが、何だか疲れた声が出てしまった。人によっては失礼な態度ととるかもしれない。それに自分で驚いてしまって、恐る恐る店長の様子を覗う。


「いやいや、良い事あったのはお前の方だろ?」


 しかし、店長の機嫌はジェットコースター状態のまま。止まる事もなく爆走し続けていた。……ん。というか今なんて言った?


「え? 俺ですか…? 」


 もう訳がわからない。店長の機嫌が良いのは、俺に良い事があったから……?


 ここ最近良い事なんてない。むしろ変な夢を見せられて、今も絶賛正体のわからない殺人犯から少女を守ろうと気を張り詰めている最中だ。良い事なんてこれっぽっちもない。あえて上げるとすれば、我が家に新しいテレビがやってきた事と、その少女(異性)と初めてメール出来た事くらいだが、それで店長がこうなる理由にはならない。それこそ本気で病気を疑う。


 第一、仮に俺に良い事があったとして、それを店長が知っているというのもおかしな話だ。もしかしたら、店長は何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない。


「いや、特に良い事なんてなかったですよ」


 そうつまらなそうに言うと、にんまりと。これまで以上に口を釣り上げて笑うのだった。相手が店長と言えども、さすがに鬱陶しい反応だった。


「わかってる! お前ぐらいの年頃だと、そういうの大人にゃ知られたくねーんだよなぁ」


 バシバシと叩かれる背中は、さっきよりも少し痛い。ああ、埒明かないわこれ。


 もう訳がわからなすぎて、思考が麻痺していた。何かもう、店長の機嫌が良いのならそれで良いんじゃないか。そんな気すらしてきた。実際、この後の事を考えると、そちらの方が――――あ。何か、わかりたくないけどわかった気がする。


「店長、とう子――」


「――ごめんください」


 俺の言葉を遮るように、お客さんが来店する。時刻はそろそろ五時を回ろうという所。夕飯の買い物のついでに、なんてお客さんがいても別段不思議ではない。


「はいはい、いらっしゃい。……ああ、鈴木さん! またあれ切らしたのかい? 」


 店長は上機嫌のままお客さんに対応し、そのまま話し込みはじめてしまった。


 さすがに、あそこの間に割って入るような事は出来ない。店長が上機嫌なまま許してくれたとしても、お客さんに失礼だ。


 仕方がない。素直に話してくれるかどうかはわからないが、一応確認してみよう。







 色々と気が気じゃないまま、本日の業務は終わった。店の前の看板を回収し、店内の所定の場所へ仕舞い込む。そして店内の掃き掃除が終わった頃、見計らったようなタイミングでポケットに入れていた携帯電話が振動した。


 振動のパターンはメールのそれを示している。画面を見ると、相手はとう子だった。


『だから手を打つって、言ったでしょ』


 文章の最後には、よくわからない絵文字がついている。多分笑っている事を示す絵文字だと思うのだが、何だか色合いが紫色のキャラクターで、少し不気味だった。


『だから、その内容を教えろ。今すぐ』


 手早く打って、返信する。


 今日の昼休み。何か知恵を貸してくれと言った俺に、とう子は「やるか? 」と聞いてきた。その笑顔には不安しかなかったので必死に内容を聞き出そうとしたのだが、頑なに教えてくれず、追い打ちをかけるように、昼休みの終わりを告げるチャイムまで鳴ってしまう。


 「どうする?」とにやけるとう子に、半ばやけになりながら「上手くいくなら」と答えてしまった。「任せておけ。お前は何もしなくていい」と言って、颯爽と立ち去るとう子を見つつ、何か取り返しのつかない事をしたのでは、と思ってはいたのだ。


 そんなやり取りがあった時点で、気付けばよかった。店長の機嫌が不自然な程良いのは、どう考えてもとう子に何か吹き込まれたからだ。


 また携帯が振動する。


『ネタばらしには早いと思うんだけどー』


 このように。どういった訳か、とう子は、メールだとたまに普通の女の子みたいな口調になる事がある。厳密に言えば女の子のメールというよりは、男子が女子っぽく打ったメールの方が近いかもしれない。それが意識してのものなのかはわからないが、こちらとしては何か謀られているのではと毎度疑ってしまう。


『やかましい。情報共有しておかないと、口裏も合わせられないだろう』


 ボタンを押す指に、つい力が入ってしまう。


『口裏を合わせなくてもいいような手を打ったんだけどなー。思い付いた時、実は私って天才なんじゃない? って思ったわ』


 成る程。それでさっき俺がいくら否定しても、店長は意にも介さなかった訳か。くそったれ。


『もう何でもいいから。一体、店長に何を吹き込んだんだ』


 テンポ良く返ってきていた返信が、唐突に止まる。と、思いきや、少しして携帯がまた振動した。


『しょうがないなぁ。じつはー、八代さんに教えてしまったのです。岸本君は今、意中の女の子に猛アタック中だって! きゃは☆』


 紫色のキャラクターの絵文字だらけのメールだった。握っていた携帯電話から、みしりという音がする。次いで、目まい。一体何故俺はこんな奴に助けを求めてしまったのか。後悔と事故嫌悪で、安くはない携帯電話を破壊してしまいそうになる。


『それをする意味を教えて下さい。そんな事を店長に言う事が、何故深夜の見張りをスムーズにする事につながるんですか。あとお前絵文字使うの下手くそだな』


 最後に一矢報いようと、何となく思った事を付け加える。事実として、とう子の絵文字の使い方は何だかおかしかった。少なくとも木島とは明らかに違う。上手く言えないのだがなんというかこう、木島は全体的にカラフルな感じなのに対し、とう子のは紫色のキャラクターばかりを多用するあまり味気なく、全体的に毒々しくなっているというか。


 するとまた少し間が空いてから、返信が来る。


『下手くそで悪かったな。岸本が木島ちゃんに夢中だから、夜中までメール等してても見逃してくれと頼んだんだ。お熱の最中だから、夜中どこかに出歩くような奇行にも及ぶかもしれないともな』


 意外にも貶されたのはとう子なりにショックだったのか。唐突に口調はいつも通りに戻り、絵文字も一切無くなる。


 成る程、と納得しかけて、ん? と首を傾げる。いや、確かに理屈の上ではそれで上手くいくかもしれない。現に店長はずっとあの様子だ。しかし。


『それは、木島にする必要はあったのか』


 店長には意中の女の子がいる、というだけで十分な筈だ。別に木島に限定する理由はない。

 すぐに返信は返ってくる。


『意味は違えど夢中なのは事実だろう。……いや、もしかしたらそっちの意味でも夢中か?まあ何にせよ、嘘っていうのはな、多少事実を織り交ぜるだけでそれっぽくなるものなんだよ』


 などと、それっぽい事を言われて納得……出来る筈もなく。かと言ってそれが悪手かというと、そういったわけでもなく。もう何か、俺の中では複雑な感情が渦巻いているのであった。


 ただこのまま引き下がるのは何か癪だったので。


『覚えてろよ』


 などと、小物感丸出しの捨て台詞を吐いておく。すぐに返信は返ってきた。


『まるで悪役だ』


 そんな事はわかっている。口にした時点で、口にせざるを得ないような状況に持ち込まれた時点で、俺の負けなのだと。けれど言わざるを得なかった。引っ込みのつかない性格というのは、本当に難儀だ。


 何だかどっと疲れた。携帯電話をレジ付近の机の上に置いて一息つく。すると間髪入れずに、また振動するのだった。


 送り主はまたもやとう子だった。辟易しつつも、メールを開く。


『それと、残念ながら私の方は今日の収穫はなしだ。やる以前から分かりきっていた事だが、思いの外皆口が堅い。それだけ知られたくない内容だとも推察出来るが、それがわかってもな』


 とう子は学校が終わった後西ケ谷高校の生徒に会う予定だった。何人かの生徒に会ってきたのだろう。そしてメールの通り、結果は芳しくなかったようだ。


『お疲れ。明日も続けるのか』


『そうだな。明日は何か得られる事を祈ってるよ』


 とう子にしては弱気な発言に思えた。今日とう子は何人の生徒に話を聞いたのだろう。もしかしたら、体力のないとう子の事だ。少し歩き疲れてしまったのかもしれない。


『無理はするなよ』


 何となしにそう送ると。


『お前もな』


 間髪入れずに、そう返ってきた。


「――そんなに熱心にメール打ち込んで、噂の彼女かー? 」


 唐突に、背後から大きな影に覆われる。驚いて振り向くと、店長が携帯電話の画面を覗き込もうとしていた。


「違います。とう子ですよ」


「ああ、なんだとう子ちゃんか」


 残念、とばかりに眉を顰める。つい、相手が店長である事を忘れて、冷ややかな視線を送ってしまう。


「好きな子が出来るのはいいけどよ。お前、とう子ちゃんの事はどうなんだよ」


 そして店長は困り眉のまま、よくわからない事を言う。とう子の事は、どう?どうって、なんだ。


「どういう事ですか」


「どうもこうもねぇよ。お前ら仲良いだろう。てっきり俺は、そのまま恋仲になるもんだと思ってたから少し驚いちまった」


 ……この人は本当に何を言っているんだろう。まだ先程のように、頭が茹だったままなのかもしれない。俺ととう子が恋仲になる?俺はあいつを、女として見れていないのに? それにとう子だって、そんな気はない筈だ。それは俺に対する態度を見れば一目瞭然だろう。


「まさか。仲が良いっていうか、幼馴染なだけで、ただの腐れ縁ですよ」


 そう。ただの腐れ縁だ。初めて出会ったのは、小学校に上がる前だった。あれはどうしてだったろう。確か何かきっかけがあって、俺からとう子に話しかけた。もう十年も前の話で、何がきっかけだったのかは、思い出せない。


「……そうか。まあ、こういった事を、俺の口から言うのもどうかと思うんだけどよ。ありゃ――」


「――すいません。あ。やっぱり閉まってますかね」


 唐突に、店の入口の方から声がして、店長の話し声が遮られる。営業時間は過ぎているが、どう考えてもお客さんだった。


 店長の方に目を向ける。店長はこちらを見つつ顎を少し動かす。俺がやるから奥に行ってろ、という事らしい。


「ついさっき閉めましたけど、構いませんよ。何かご入用ですかい」


 店長が笑顔で近付いていくと、入り口に立つお客さんはほっと胸を撫で下ろした。


「いいんですか? いやぁ、こういった個人経営のお店って、人情に溢れていて良いですねぇ」


 そう言いつつ、店内に入ってくる。俺は店の奥に向かいつつ、そのお客さんを横目で見やる。するとそのお客さんは、明らかにどこかで見た事のある人物だった。


「あれ……君ってもしかして、この前の」


 向こうも、どうやら気付いたらしい。


「知り合い……ですかい?  」


 穏やかな笑顔でこちらをじっと見ているその青年を見て、店長は目を白黒させている。俺は方向転換して、再び店内に戻っていく。


「この前は、本当にすいませんでした」


「いやいや、お互い怪我もなかったし、気にしてないよ」


 白いワイシャツに、青いジーンズ姿の青年。その端正な顔立ちは、見間違いようがない。来店したのは木島万智の兄、木島聖だった。


「学校の先輩か何かか……? 」


 相手が客という事も忘れて、店長はそんな事を聞いてくる。彼の外見と雰囲気からして、そう見られてもおかしくはないだろう。


「嬉しいなぁ、まだ学生に見られるなんて」


 聖さんは聖さんで、何だか気恥ずかしそうに笑っていた。この人の年齢は詳しく知らないが、進学塾の講師をしているのだ。十代、という事はないだろう。けれど先程も言ったように、彼の見た目は高校生と言っても、恐らくは通用する。


「深い関係じゃないです。この前、そこの通りで俺がよそ見しててぶつかっちゃったんですよ」


「事実とは言え、深い関係じゃない、とか言われちゃうと少し寂しいなぁ」


 聖さんは朗らかに笑っていた。あの時と同じように。そこには、やはり悪意などというものは欠片も感じられなかった。


 けれどとう子は言っていた。木島聖は生粋の性悪なのだと。外面は妹の模倣で、その中身は似ても似つかないと。


 それを思い出した途端、彼の発言には何か含みがあるのでは、と考え初めてしまう。


 人間という生き物は知能が発達している分、周りに影響されやすい生き物だ。それは恐らく群れである事の強みでもあるのだろう。社会を形成して生きていく以上、俺達は常に普遍的な行動をとろうとする。その行動から大きく外れなければ、群れから爪弾きにされる事はないからだ。


 しかしその考えは実はとても危ういと、心理学の本で読んだ事がある。群れの結束力を高めよう、同調しようという意識は、時に人を理不尽な行動に駆り立てる。いじめ問題などが、その顕著な例だろう。弱者は迫害され、時にエスカレートした行為は肉体的なものにまで及ぶ。


 木島聖に対する評価も、これに近いものがある。とう子に彼は悪い人間だと言われ、俺は色眼鏡で見てしまった。これがそこで終わる話であるのなら問題はない。しかしある程度の規模でそれが伝播した場合、木島聖という人間が排斥されてしまう可能性が出てくる。


 人間という生き物は、常識という、変動的で不安定な土台の上に立っている。誰もが踏ん張る中、それをやめてしまう者も中には存在する。そういった者に対しての風当たりは往々にして強い。


 群れで結束しようという意識は、同時に異質な個を排除しようという意識をも生んでしまう。それがこの世の常であり、社会的弱者が迫害される、そんな危険を孕んだ現実だ。だから俺達は、物事を出来る限り色眼鏡を通さずに見なければならない。木島聖に対する評価も、そうであるべきだと思うのだ。


 それにやっぱり、純粋な感想としてとう子の言う事は信じられなかった。とう子の事を信頼していない訳じゃない。けれどこの件に関してだけ言えば、あいつの言う事は間違っていると思う。俺には木島聖は、妹の木島万智と同類の人間にしか見えない。


「お前が、よそ見ねぇ。すまないなぁ、こいつ、いつもはそんな事ねーんだけどなぁ」


 店長はというと、一人そんな事を気にしていた。確かに、あの時は木島の事ばかりを考えていて、らしくなかった。不注意で人にぶつかるだなんて、小さい時以来だ。


 ……それはそうと、気付けば店長は聖さんに大分フレンドリーに話しかけている。その人お客さんですよ、店長。


「話し方だとか立ち居振る舞いだとか、年の割にしっかりしてますもんね」


 イメージ通りというかやっぱりというか、聖さんはそれを気にした様子もない。やはり、この人が誰かに悪意を向けるなんて事は、ないように思える。


「本当。うちの妹にも、見習って貰いたいものですよ」


 けれど。彼が何気なしに言ったであろうそのセリフだけは、酷く引っかかってしまった。


「そうですか。俺なんかより、万智さんの方がよっぽどしっかりしてますよ」


 言ってから、しまった、と口を抑える。何故か木島を非難されているような気がして、ついそんな事を口走ってしまった。


「…………」


 聖さんは、目を少し見開いてこちらを見ていた。表情に色はない。そこに感情はなかった。そこに、今までの笑顔の中にあった暖かさは、欠片もなかった。


「……何だ。万智の知り合いだったんだ。でも君、西ケ谷の生徒じゃないよね。一体どこで出会ったの、あいつと」


 しかしそれも一瞬で、また今まで通りの笑顔に戻る。目の前で笑顔の仮面をつけられたようで、酷く心がざわついた。


「この前ケーキ屋さんで。万智さんが、俺の友達と一緒に店に来たんですよ。それで、一緒に食べようという事になって」


「ああ、成る程」


 その笑顔は今までの物と何も変わらないはずだった。けれど今はつり上がった口も、薄められた目も、別物に見えてしまって。直視する事が出来ない。何か、とても醜悪なもののような気がして。


「じゃあ、彼氏って訳じゃないんだ」


 そして唐突に、聖さんの話は飛躍する。何故そんな話になるのだろう。その飛躍の仕方は少し不可解だった。


「そんな訳ないじゃないですか。だって、まだ顔を合わせて二日ですよ。それにとてもじゃないですけど、彼女に俺は見合わない」


 はっきり答えると、聖さんはニッコリと笑う。それはこれ以上ないくらいの笑顔だった。


「そう謙遜しないで。……さて、そろそろ僕は失礼しましょうかね。夕飯の時間も近いですし」


 そうして木島聖は「どうも」と頭を下げて踵を帰す。


 少し迷った。けれど、これはまたとない機会だ。そう考えたら、自然と口は動いていた。


「お酒は、いいんですか」


 店長が怪訝な表情をする。当然だ。帰ろうという客に、不躾にも程がある。


 声をかけられた聖さんは、ピタリと立ち止まる。そしてゆっくりと、こちらへ振り返った。


 彼は笑顔のままだった。不自然な程に、笑ったままだった。


「そうだった。馬鹿だなぁ僕は。てっきり忘れていたよ。じゃあ、これを一つ貰おうかな」


 ウイスキーの棚からボトルを一本、無造作に手に取る。目的の物を選んだようには、とても見えなかった。






 酒屋兼店長宅で先にお風呂を頂いて和室の居間に戻ると、店長は夜の晩酌なぞを初めていた。店長はテレビを見て機嫌が良さそうに笑っていて、そこはかとなく嫌な予感がする。


「お先にすいません」


「おう、上がったか。ツマミでも食うか? 」


 そう言って机の上の袋をガサガサと漁る。チーズ、いかの燻製、サラミ、柿の種、ビーフジャーキー。全体的に味の濃い、酒の肴の数々が並んでいた。


「それ全部この店のですか」


 頂きます、と言いつつビーフジャーキーに手を付ける。姉の繊細な味付けの料理も好きだが、こういった大雑把な味付けの食べ物も割と好きだ。


「賞味期限ギリギリの、まあ廃棄品みたいなもんだ。裏にまだいくつかあるから、帰る時持ってけ」

 店長のさりげない厚意には、本当に頭が上がらない。ツマミであれば酒好きの姉も喜ぶだろう。

「で。お前の想い人は、一体どんな子なんだ? 」


 などと心の中で感謝しつつ、ジャーキーを咀嚼していた口が止まる。感謝はしていてもそれは聞き流せない。すぐに反論したかったので少し苦しかったが、そこそこ大きい肉片をそのまま飲み込んだ。すると少し喉につかえてしまった。


「だから、違うんです。本当」


 胸を叩きながら必死に否定する。店長は立ち上がると、どこからかコーラの瓶を持ってきて、それを手渡してくれた。


「あ、どうも。……あれは本当、とう子が少し勘違いしたというか」


 否定しつつも、その歯切れは悪い。何故なら完全に否定してしまうと、とう子のこの立案した策がおじゃんになる可能性もあったからだ。木島が好きだとかどうとかはひとまず置いておいて、そうなってしまうのは俺の意図する所ではない。


「でも気に入ってるんだろ? さっきも、ああやってムキになって反論してたじゃねーか」


「いや、そりゃそうですけど……」


 ……ん? ちょっと待て。


「俺、それがあのお客さんの妹さんだなんて言いました? それともとう子に聞いたんですか? 」


 店長の口振りはまるで、俺の想い人(という設定)は木島万智である事がわかっているかのようなものだった。俺からそんな話はしていない。とすれば、やはりとう子が余計にも名前まで口走ってしまったのだろうか。けれど店長は聖さんの名字までは知ってなさそうだった。たとえ木島の名前をフルネームで聞いていたとしても、それが彼の妹だとわかる道理がない。


「んなもん、話聞いてりゃわかる。お前みたいな奴がとう子ちゃん以外の女の子とケーキなんて食って、直後にそんな浮いた話が出る。お前がツバつけようとしてるのは、どう考えてもあの兄ちゃんの妹だろう」


 成る程、納得した。確かに、状況証拠は揃い踏みだ。


「彼氏じゃないなんて言いつつよー。狙ってんだろ? 」


 このこの、と頭を小突いてくる。店長は非常に手がでかいので、小突かれる度に頭が小さく揺れた。


「違うんですけどねぇ……」


 もうなんだか否定するのも無意味な気がしてきて、その声すらも小さくなっていた。


「どんな子なんだ? あの兄ちゃんの妹だから、やっぱり美人か? 」


 店長の声はこれ以上ないくらいに弾んでいた。俺はというと、まだ少なからず抵抗の意思が残っていたので、何を言うでもなく口をもごもごとさせている。


「教えてくれよ。息子の時は、頭ごなしに反対しちまってよ」


 ……それは本心なのだろうが、卑怯だ。そう言われてしまうと、どうにも弱い。


 心の中でため息をつきつつ、何を口にしようかと考える。けれどそんな必要はなくて、何故か彼女の事はすらすらと口から出て来るのだった。


「優しい子です。まだ会って間もないですけど、多分、今まで会った人間の中で一番」


 店長は何を言うでもなく、酒を飲みながらこちらの話に耳を傾けていた。茶化されでもすれば、きっとすぐにでも話すのをやめてしまえるのに、そんな素振りは見せない。


「誰にも好かれて、誰にも嫌われないような善人で。それでいて、ユーモアもちゃんとあるというか」


 彼女は全てを肯定する。そんな彼女に否定は返ってこない。傷つける事もなければ、傷つけられるような事も絶対にない。それだけ清純な心根を持っているのに、冗談まで言えてしまう。そんな事とても、自分には出来そうにない。


「成る程なぁ」


 そこまで言うと、店長は何か納得したように自分の顎を撫で始める。


「何だ、やっぱりお前好きなんじゃねーか」


「な」


 即座に否定しようとしたが、上手く言葉が出てこなかった。というより、否定するような材料が、俺の頭の中には少しもなかったのだ。


 異性として好きかどうかと聞かれれば、それはわからない。魅力は感じるが、正直自分でもわからない。


 けれど人間的に彼女が好きかどうかと聞かれれば、それはイエスと言う他ない。彼女がそういった人間であるから、という理由の他に、俺は、彼女に憧れに近い何かを感じているのだ。自分では到底出来ないから、それを苦もなくこなす彼女に。


「そんな人間、誰だって好きになっちまうよなぁ。うちの母ちゃんも、そういう奴だったよ」


 昔を思い出すように、囁くように、店長はそう言った。右手の人差指は、ビール缶の縁をなぞっている。どこかその動作には、哀愁が感じられる。


「でもそういった子は、優しい分悩みも多いんだろう」


 どうなのだろう。俺の中の木島万智は、完璧な人間だ。そんな者は存在しないと思いつつも、彼女の場合は例外なのではと、つい思ってしまう。


「うちの母ちゃんも、そうだったんだよ。人に気ばっかり遣って、勝手に疲れちまう。そんな生真面目に構える必要はねぇって言っても、性分なんだろうな。やめるにやめれない」


 店長はビール缶を大きく煽って、一気に飲み干した。顔に出ない人だからわからないが、もしかしたら少し酔っているのかもしれない。


 店長の奥さんは、息子さんが学生の時に病気で亡くなったらしい。それがきっかけだったのかどうかは定かではないが、その頃から家庭内では不和が生じ始めたのだと言う。


「そういう子はな、人知れず苦労するんだ。いつも笑顔を振りまいちまってるもんだから、悩みを口に出来ない。だからな」


 不意に店長の大きな手が、肩に置かれた。それはこの人らしくない、とても優しい触れ方だった。


「好きになったんだったら、お前が精一杯守ってやれ」


 真っ直ぐな目だった。ふざけた様子なんて微塵もなかった。そんな真剣な様子の店長に、俺は何も返す事が出来なかったけれど、店長の目を見て、ただ小さく頷いた。






 午後八時を過ぎた頃から、アーケード街の人通りは目に見えて少なくなる。昼間は通行人で賑わっていた大通りも、今はもう閑散としていた。夕方まで綺羅びやかだった商店の電飾も、今ではそのほとんどが消えている。街が寝静まる。そんな表現が、酷くしっくりくる。


 小型のサイレンやらラジオやらがついた大きな懐中電灯を携えて、大通りを歩いて行く。一応上着を持ってきたが、どうやらそれは正解だったらしい。まだ七月の頭であるというのに、日が落ちた商店街は少し肌寒かった。


 店長は、あの後すぐに寝てしまった。うまい飯を作ってやる、などと豪語していたのだが、さすがに寝てしまった雇い主を起こす気にはなれない。小腹が空いた時の為にと、カップ麺を持ってきておいて良かった。お湯だけ拝借して、夕食を手短に済ませたのがつい先程の話である。


 店長があそこまで熟睡したのなら、とう子の策はいらなかったのでは、と余計な結果論が頭をめぐる。今更後悔した所で後の祭りだ。それに、店長が起きていた時の事を考えると、やはりあの策は悪手ではなかった。それでもやはり、俺と木島に対する配慮には欠けていると思うが。


 薄手のパーカーを羽織りつつ、あの場所へ向かう。


 バチン。小さくも、激しい音を立てる街灯。以前と、何一つ変わっていない人気のない路地裏。


 電灯の弾ける音の他に、物音はしない。少し緊張しながら、路地裏の端々を懐中電灯で照らす。勿論そこには木島万智の姿も、血にまみれた死体もありはしない。


 ほっと胸を撫で下ろす。誰かの死を、いつ訪れるかもしれない悲劇を警戒するというのは、思いの外疲れる。妙なプレッシャーが常にあって、それが日をまたぐ事にリセットされる。体の弱い、いつ死ぬかもわからないような病人というのは、こういった心境なのだろうか。そうなのだとしたら、なんて息苦しいんだろう。もしこれがずっと続くのだとしたら、俺は間違いなく参ってしまう。


 路地裏の縁石に腰をかけ、携帯電話を開く。時刻は午後九時を回っていた。


 当初は店の入り口付近で監視していようと思ったが、こちらの方が確実だ。大通りの街灯は少し暗い。通る人間を見過ごさないとも限らない。


 この策を思い付いたのはとう子ではなく、俺だった。とう子は最初反対した。何しろ体力と忍耐力を使うし、睡眠時間も大分削られる。それにとう子はこの前、この路地で不審者を見たと、警察に通報した。お前が捕まる気か、なんて心配は、まあ当たり前のものだったろう。


 けれど恐らくその心配はない。警官は確かに見回りに来るが、来るのは決まって夕方過ぎの暗くなり出した頃。匿名での電話一本では、彼らはそこまでしかやってくれないらしい。不満は感じるが、無理もない事だと思う。彼らだって暇ではないのだ。酒に酔って捕まる警官などに比べれば、嘘の通報で見回りに来てくれるだけましだと思うべきだろう。


結局とう子にはそれらを伝えて確実だからと押し通したものの、体力的にどれだけ続けられるか、それが心配だ。監視は日が登るまで。この後は眠気との戦いになる。それともう一つ。


「……まあ、そうなるよな」


 路地に入って十分。既に暇を持て余していた。こうなる事を予想して、雑誌を数冊持ってきたが、街灯の蛍光灯が切れ掛かっていた事を完全に失念していた。


 試しに懐中電灯で照らしてみるが、とても読めたものではない。光量は申し分ないのだが、いかんせん懐中電灯が重すぎる。手に持ちつつ読むというのは至難の業だった。


 諦めて雑誌を地面に起き、携帯電話を開く。さて、何で暇を潰そうか。







「…………参ったな」


 時刻が十時半を回った頃。暇を潰せそうなサイトは、あらかた見終わってしまった。それどころかここ最近一週間のニュースまで一字一句読んでしまった。ここまでして、まだたった一時間半。さすがに、自分の見通しの悪さに辟易する。


 仕方がないか、とメールの画面なんぞを開く。一応言っておくと、普段、こんな事はしない。人間、暇が過ぎると思わぬ行動をとるらしい。


 まず姉にメールを送ろうとしてみる。しかし、思いの外話題がない。店長がツマミをくれたから土産で持って帰るよ、なんて、別に今送る必要なんてない訳で。


 次に、とう子に送ろうとしてみる。ここ最近デリカシーに欠ける仕打ちを受けたせいか、あっさりと文面は浮かんでくる。


『暇だ』


 数秒して携帯電話が震える。


『暇を持て余してメールだなんて。雪でも降るかな』


 真夏にどんな天変地異だ。降るわけないだろう。


『少し見通しが甘かった。やる事がなさすぎる』


 少し間が空いて、返信が来る。


『仕方がないから、このとう子ちゃんが少しだけ相手をしてあげるよ』


 また、文末には謎の紫色のキャラクターがいて、血色の悪い顔で微笑んでいる。これだけ多用する辺り、とう子のお気に入りなのかもしれない。


 そう言えば、こうやってとう子と何通もメールのやり取りをするのは、ものすごく久々な気がする。高校に上がってとう子は進学塾に通い始め、新たな友達も作った。最近は昔ほど、交流はなかったように思う。現に紫色のキャラクターが何であるか、いつそんな絵文字を使い始めたのかも、俺はよく知らない。


『その血色の悪いキャラクターは何だ』


 臆面も無く、そんなメールを返す。こうやって率直に物を言える人間が、俺にはどれだけいるだろう。


『これか。これは茄子をモチーフにしたナス吉君だ。可愛いだろう』


 メールの最後には大量のナス吉君。恐らく、ナス吉君の絵文字全種を送ってきたのだろう。画面がいやに紫色で、少し不気味だった。


『可愛くない。……そんなキャラクター他では見たことないんだけど、一体どこで手に入れたんだ』


 テレビに出るご当地キャラクターもまあ、個人的に言わせてもらえばどれも安っぽい。けれどナス吉君はそのどれよりも安っぽかった。


『岸本は知らない、というより興味ないと思うけど、最近では誰でもこういった絵文字なんかが作れるんだよ。ようは素人が作った顔文字。ナス吉君はそんな魔窟から見つけ出した逸品なんだ』


 魔窟、とは随分な言い様だった。真剣に作っている人だっているだろうに。ただ、魔窟の元住人だとするのなら、ナス吉君の可愛くないデザインにも納得がいく。


『人気あるのか。その、魔窟界隈で』


 しかし何が流行るかわからない時代だ。案外、女子高生の間ではこういったキャラクターが流行っているのかもしれない。


『全然。ダウンロ―ド数二桁だもん、ナス吉君』


 なんじゃそりゃ、と思う反面、自分の感性が世間とズレていなかった事に少し安堵した。


『お前が使って、流行らせようとでも思ってるのか』


 どうにも反応に困ってしまって、そんな事を聞いてしまう。


『別に。流行ってくれたらそれはそれで嬉しいけど、そうならなくても別に構わない。私は好きでこれを使ってるんだから』


 ああ、そうだった。こいつは昔から、そういう奴だった。


 周りと違う自分に酔うだとか。周りに足並み揃えて自分を殺すだとか。そういった思春期特有の感情なんてまるでない。ひたすらに自我を突き通す、男らしい奴だった。


 それでいて周りには人が溢れていて、俺は憧れを抱いたのだ。こんな風に生きれたらと、女々しくも思ってしまったのだ。


 不意に、返信はしていないのに携帯電話が振動する。


『時に岸本。まだ私は話題には困らないが、実を言うと結構眠い。もしかしたら、途中で寝てしまうかもしれない』


 時刻を確認すると、ちょうど午後十一時を過ぎた所だった。家が厳しいらしく、元々規則正しい生活を送っているとう子にとっては、もう遅い時間なのかもしれない。今日はあの小さな体で歩き疲れたのだろうし。


『眠かったら寝ていい。適当に時間を潰すから』


 適当なものなどなかったが、方便としてはこれしか思い付かなかった。


『そんなのないだろう。ないから私にメールなんて寄越したんだ。いい、限界まで付き合う』


 律儀なメールの文末には、何かを我慢するような顔のナス吉君。もしかしたら普段涼しい顔をしているとう子が、携帯電話の前ではそんな顔をしているのかもと思うと、少し面白かった。


 不快だった電球の弾ける音は、気付けば耳に入らなくなっていた。






 とう子からの返信が途切れて、十分程が経つ。時刻は十一時三十分。この場所のせいか、精神的なものではなく本当にそうなのか。路地裏の空気は、少しずつ冷えていく。


 上着のジッパーを上まで閉める。


 深夜、というのは人の心に少なからず影響を与える。生きている世界から死んだ世界へ。一人、誰もいなくなった夜の街を観察していると、そんな幼稚な錯覚に陥りそうになる。まるで世界には自分しかいないような、お伽噺のような子供じみた錯覚。


 何もしなければここで、あの木島万智は死ぬ。そう考えると、この路地裏は死んだ世界と言えるのかもしれない。暇を持て余しているせいか普段は鼻で笑うような、そんなこじ付け紛いの事まで考えてしまう。


 アスファルトは綺麗ではなかったが、不快な程汚れてはいない。どこにでもある、砂埃にまみれた路地の地面。あの夢の中で彼女の死体は、そこに無造作に転がっていた。


 いつも笑顔だったその顔は、何かに耐えるように醜く歪んでいた。転がっていたモノは木島万智ではなかった。血を流した死体だった。そこには彼女らしさなんておよそ残ってはいなかった。


 彼女のような人間には他人には与り知らない悩みがあると、店長は言っていた。


 どうなのだろう。正直、ああ言われた後でもわからない。人間なら誰でも悩みなんてあるだろうが、聖人じみていて、どこか超然とすらしている木島には、それは当てはまらないのではと思ってしまう。


 けれどもしそうでないのなら。彼女は悩みを抱えたまま死んでしまうかもしれない。俺達は彼女が死なないように動いてはいるが、そもそもその悩みが彼女を殺す大本の原因である可能性だってある。あの時木島は、確かに俺達に何かを隠していて、一度は話そうとしていた。


「そう……じゃないか」


 躊躇っている、場合じゃない。口下手だからとか、また拒絶されるのが嫌だとか。そんな事、今はどうでもいい。俺はただ、彼女を助けなければならないんだ。そう決めたし、店長にだって言われたじゃないか。


 携帯電話を取り出す。時刻は十一時半を少し過ぎた辺り。まだ、木島は起きているだろうか。

 文面を考えるが、やはり以前のように思い付かない。ヤケになって考えなしに何か打ち込もうかと思っていると、不意に一通のメールを受信する。不思議気に思いながらメール画面を開くと、相手は木島だった。


『今日、兄さんに会いましたか』


 たったそれだけ。あの木島が、挨拶も無しにそんな短いメールを送ってきている。何か違和感を感じた。


『会ったよ。バイト先の酒屋で』


 その違和感の正体を確かめたくて、短い返事を送る。


 木島の返信も早かった。


『あまり、兄さんには近付かないで下さい。もし顔を合わせても、今日みたいに挑発するような事は絶対に言わないで下さい』


 挑発。それは、夕方のあれの事を言っているのか。つまり、木島聖はあの出来事を妹に話したのか。


 それは何故だ。何故そんな事を木島に話す必要がある。妹の知り合いに会ったから、ただその事を報告したのか。頭にきたから、身近にいた人間に不満を漏らしたのか。


 いや、おかしいのはそこじゃない。近付くなとか挑発するなとか、どういう事なんだろう。それじゃあまるで――。


『何で?お兄さんは、危ない人なのか?』


 まるで、木島聖は危険人物であると警告しているみたいじゃないか。


 とある事を思い出す。一人目の被害者である播磨美里も、二人目の被害者である須藤里香も。木島聖が講師を務める進学塾に、通っていた事。


 頭はぐるぐると回って、しかし憶測でしかないその考えは、着地点を失って宙に浮いたまま。この先に進むには、木島からの回答を待つ他なかった。


 しかしそこから、木島からの返信が途絶える。数分待っても、メールは返ってこない。


『木島、教えてくれ。もしかして、先日の殺人事件とお兄さんは関係があるのか』


 もう、憚る事など頭にはなかった。けれど、やはり数分待っても返信は返ってこない。


 それから五分程経っても返事は来なかった。もうこれ以上送っても、返事が返ってくる気はしなかった。けれど最後にもう一通だけ、送ることにした。


『何か心配事があるなら言ってくれ。俺もとう子も、出来る限り力になる』


 数分経っても、やはり返事は返ってこない。しかし諦めかけたその時、振動音が鼓膜を揺らす。

 メールを開く。そこにはただ一言。


『ごめんなさい』


 そうとだけ、書かれていた。


「……何だよ、それ」


 無力感に打ちひしがれて、項垂れてしまう。俺は意味もなく、砂埃にまみれたアスファルトを睨みつけていた。


俺もとう子も、ただ力になりたいだけなのに。何で――何で、何も言わずに謝るんだよ、木島。



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