第四章
がちゃん、と。ビール瓶の入ったケースを床に置く。
「腰、気を付けてな」
「あ、はい」
レジの方から、店長である男性に声をかけられる。店長は椅子に座りながら、時折腰を擦っていた。どうも今日は腰の調子が良くないらしい。
週に四日程、俺はこの酒屋で短時間のバイトをさせてもらっている。姉はバイトなんてしなくていいと言ってくれたが、そういう訳にもいかない。二人で生活しているのだ。姉の給料に比べれば微々たる額だが、少なくとも洋服や携帯電話代など、自分の出費分ぐらいは稼がなくてはならない。
主な仕事は店長と一緒に酒の配達、空き瓶の回収、荷出しだ。酒屋は駅前から少し離れており、訪れる客はあまりいない。時にはレジ打ちもするが、そうそうある事ではない。万年無表情な人間でも、どうにか務まる内容だった。
ケースからビール瓶を取り出し、それを並べていく。棚にはずらりと酒の瓶が並んでいた。ビールだけでいくつあるのかという位、その量は多い。店長は去年まで一人でこれを並べていたらしい。そして品出しよりも配達や空き瓶の回収の方が断然労力を使う。慢性的な腰の痛みに悩まされるのは仕方のない事で、誰が見ても明らかな職業病だった。
「終わりました」
「おう。悪いな、一人でやらせちまって」
「いーえ。その分、給料だって弾んでもらってるじゃないですか」
そう。今日もおおよそ四時間程度の勤務なのだが、こうやって店長の腰の調子が良くない時は、割増で給料を出してくれる。それも随分な額をだ。
率直に言うと、倍になる。当初はさすがにどうかと思い、店長に断ろうと何度か申し入れていたのだが、ある時彼は怒り出してしまった。ヘソを曲げてしまった店長の機嫌をどうにか直そうと話しかけていたら、今度は泣き出してしまった。ちなみに酒は少し入っていたと思うが、恐らく関係ない。
訳を聞くと、疎遠になった息子に俺が似ているらしい事。頑固な性格で優しく出来なかった分、お前には良くしてやりたいと思っている事。そして、お前が姉と二人で頑張っているというのを客から聞いた事。それらを声を出さずに涙を流しながら、つらつらと話した。
そう言われてしまっては、断るに断れなかった。というか、店長の話を聞いていたら俺まで涙ぐんできてしまって、その時にはもう、店長の事をただの他人だとは思えなくなっていた。
店長は姉とも交流があり、仲はすこぶる良い。会って一年足らずだが、血の繋がっていない親戚のようなものだった。だからこれは、アルバイトというよりはお手伝いに近いのかもしれない。
「あのケーキ屋、行ってきたんだって? 姉ちゃんとか? 」
店長は不意にそんな事を聞いてくる。今日は先程のお茶会の為、少しだけ遅めの出勤となった。理由を説明する際、うっかりたんぽぽの話をしてしまったのだ。
「いえ、友達とです。成り行きで」
「ああ、とう子ちゃんとか」
即座に言い当てられてしまう。どういったコミュニティを用いたのか、何故か店長はとう子とも知り合いだった。そして恐らくその筋から、俺の友人は極端に少ない、という情報も仕入れたらしい。簡単に言い当てられてしまうのは癪なのだが、致し方ない事だった。
「お前甘いもん苦手じゃなかったか?前に俺と話してたろう、あんなもん好き好んで食うだなんてどうかしてるって」
そんな事もあったような気がしないでもない。以前酒に酔った店長と雰囲気に酔わされた俺で、世のスイーツ好きを好き勝手こき下ろした事があった。今思い返すと自分でもどうかと思うような発言が多々あり、とう子や木島の前では絶対に口に出来ないような内容だった。
「嫌いですよ。けど今日とう子と一緒に来た子に、あまり甘くないケーキを教えてもらって食べてみたんです。俺でも食べれましたし、正直言って美味しかったです」
「本当かぁ? 」
信じられない、と言った顔でこちらを見てくる。……よし。場所もそう遠くないし、今度ビターチョコケーキをテイクアウトしてこよう。店長があのケーキを口にしてどんな反応をするのか、すごく気になる。日頃のお礼の意味もあるし、ついでに姉にも何か買っていけば、ご機嫌もとれて良い事尽くめだ。
雑談の話題が切れた所で、携帯電話で時間を確認する。時刻は午後十時を過ぎていた。
「あ、じゃあ俺、そろそろ失礼します」
椅子に座ったままの店長に頭を下げて、帰り支度を始める。遅刻してきたからもう少し遅くなると思ったが、思いの外早く終わってくれた。ゆっくりして遅くなってもそれはそれで法律的に問題があるし、さっさと御暇させてもらおう。
「おう、もう十時か。おつかれ」
そう言って、何故か店長は椅子から立ち上がろうとする。いつもは座ったまま俺を見送るのに、今日に限って腰に手を当て、少し痛みに呻きながら立ち上がった。
「いてて」
「座ったままでいいですよ! 」
驚いて店長の元に駆け寄ると、手で制止される。そして「これくらい平気だ」と言って入り口まで歩いて行くのだった。
どういった事かと首を捻りながらついていくと、何やら店長は店の外の様子を覗っている。
「この辺も、この時間になると人通りもほとんどなくなる。普段気にもかけない街灯の数も、こういった時は少ない気がしてならねぇ」
そこまで言われて、ようやく納得する。播磨美里が殺された河原からここまで、そこそこ距離は離れてる。けれど、この街ではつい先日殺人事件があったのだ。その街で、犯人も捕まっていない状態で、俺達は日常を送っている。
「殺されたのは、女の子ですよ」
店長を安心させるつもりで、そんな軽口を叩いた。するとムッとした顔でこちらを睨むのだった。
「バカおめぇ、人殺しに理屈なんて関係ねぇんだよ。人を殺すような奴は、もうタカが外れちまってる。まともじゃねぇんだ。そんな人間に、常識は通用しやしねぇんだ」
「だから気を付けろ」と言いつつ、店の入口にある戸棚を開け、手を突っ込む。そしてその中からとんでもなくでかい懐中電灯を取り出し、おもむろに手渡してきた。平気だとは思うのだが、断れるような雰囲気ではない。ずしりと重いそれを受け取ってみる。よく見れば、アラームや色んな機能のついたものだった。
「そう、ですね。気をつけます」
確かに店長の言う通りかもしれない。どんな理由があろうとも、人を殺した時点で加害者はもう正常ではない。殺人とはそれだけの大罪なのだ。人の命を自分の意思で摘み取る。そんな事をする人間が、まともな精神状態な訳がない。
で、あれば。
「本当に、気ぃつけろよ。人間、何で死んじまうか、わからねぇんだからよ」
逆説的に。木島真智のようなとびきりの善人を殺すのは、殺人犯としては正常なのではないだろうか。
重い懐中電灯を携えて、夜の街を歩く。ボタンやらハンドルやら色々なものがついているせいか、歩く度にカチャカチャと音がする。まるで熊よけの鈴だ。これだけ喧しい人間にはそうそう手は出せまい。もっとも、駅前で屯している不良学生達には、逆効果な気もするが。
ふと、たんぽぽでの事を思い出す。そうだ。てっきり忘れる所だった。
携帯電話を取り出し、登録数の少ないアドレス帳の中から中島とう子の電話番号を探し出し、電話をかける。
菓子店で別れる際、とう子はこう言った。
「あれは何かある。バイトが終わったら、とりあえず電話をくれ」
何かある。とう子の質問に対して不自然な反応を見せた木島。とう子はそれの事を言っているのだろう。……それは、俺も感じていた事だった。
木島真智は、確実に何かを隠していた。心配事はないかと問われた際、一瞬俺達に何かを言い掛けていた。迷うように口を開いて、何故かそのまま閉じた。そして二度目の問いにも、同じ答えを返すだけだった。
とう子に問われた際、木島は「大丈夫です」と答えた。これは憶測でしかないが。もしかしたらそれはそんな心配事がない、という意味ではなく。自分で解決するから大丈夫、という意味での発言だったのではないだろうか。
考え込んだ所で、憶測はいつまでも憶測のままだ。確かめる為には本人に聞くしかない。けれど木島はもう話してくれない気がした。あの時一度迷いはしたが、二度目の問いで彼女は俺達には話さないと決めたのだと思う。あの時のはっきりとした発言には、それくらい拒絶の意思が感じられた。少なくとも、そう簡単に打ち明けてはくれないだろう。
「お疲れ」
繋がった瞬間、とう子はそう言った。少し声が眠そうだった。
「悪い、待たせた」
「いや、いつもこの時間だろう、終わるのは。私も今さっき塾から帰ってきた所だ」
今日は塾の日だったようだ。とすれば、木島もそうだったのだろうか。
「悪いがそれなりに眠いんでな。さっさと本題に入ろう」
一度断りを入れるようにそう言うと、とう子は憚る事もなく大あくびをした。
「夕方言ったように、木島ちゃんは何か隠している。これはあくまで勘だが、それも件の夢と無関係とは言い難いような不穏な事態にだ。そうでもなければ、全く気がかりのないはずの人間が、それもあの木島真智が、心配事はあるかと問われてあんな反応はしない」
「ああ、俺もそう思う」
「ん、鈍感なりによく見てたな。まあそれぐらい露骨な救援信号とも、言えたが」
偉そうに言われて少しむっとするが、中学時代の友人達からも口を揃えて鈍感だと言われていたので、きっと事実なのだろう。何故ああも口を揃えて言われていたのかは、未だに疑問ではあるのだが。
「あれはやっぱりSOSなのか」
「だと捉えるべきだろう。勿論本人が意識して発信したものじゃないが、そう捉えていいだろう。彼女は一度私達に助けを求めようとして、それを躊躇し、結局口を噤んだ。何らかの理由で、だ」
以前も言ったように、木島真智はよく出来た人物だ。自分の意見ははっきり言うし、相手への気遣いは必ず忘れない。そんな人間が、誰かを面倒事に巻き込もうと思うだろうか。
「そういう性分なんじゃないか」
「うん、私もそう思う。けれどそこまでリスク回避が出来ない人物でないのは、お前もわかるだろう」
とう子の言っている事が、よくわからなかった。数秒意味を考え黙っていると、ため息をついて説明しだす。
「あのな、あー、例えばだ。あれだけの美人だ。仮に彼女をこれから殺すのはストーカーだとしよう。彼女の熱烈で異常なファンだ。大人しい女子高生にストーカー行為をする変態とか死んで欲しいが、まあそれは置いておいて。……殺すまでの過程で、犯人は何度か彼女に接触を図るだろう。最初は殺す事が目的ではないんだからな。ではその過程の段階で、木島真智という人間がその異常に気付かないと思うか?仮に危険を察知した場合、それを誰かに相談しない程、馬鹿だと思うか? 」
成る程、そういう事か。
「丁寧な解説どうも。確かに、木島はそんなタイプの人間じゃない」
「だろう。木島ちゃんは頭空っぽの馬鹿女じゃない。むしろ利発で物事をきちんと把握し、自分で対処出来る人物だ。仮に、だ」
喋り過ぎて酸素が足りなくなったのか、息継ぎをするようにとう子は一度言葉を切る。
「彼女が本当に殺されるとして、殺されるような状況に追い込まれていると自覚があったとして。それを黙っている程考え無しじゃない。殺されると知って、そのまま殺される人間は滅多にいない。そんなの、映画の中の変人位だろう?だとしたら、あそこで彼女が引き返した理由は何だと思う? 」
「……考えたらキリがないな」
「そうだな。あの夢はやっぱり夢で、殺されるような事とは無関係な事だからか。犯人がストーカーかどうかは置いておいて、まだ危険を感じる程の展開に発展していない、つまり殺されると思っていないからか。もっと細かい理由まで考えたらキリはない。けれど考えないといけない」
とう子は硬い意思を示すようにそう言った。……そうだ。そうすると決めたのだから、泣き言を言っている場合じゃない。
「正直言って、最初お前の話を聞いた時は眉唾だったよ。はっきり言うが、信じる方がどうかしてるしな。けど、お前が夢を見た直後に播磨美里が殺された。夢の中の人物を木島真智だと認識出来るようになった。その彼女は、私達の問いに不可解な反応を示した。仮に殺されるような状況にならなかったとしても、もう無視出来るような状況じゃない」
とう子の言う通り、もしもあの夢が夢であったとしても、木島に何か異変が迫っているのは明らかだ。このまま見て見ぬふりは出来ない。とりあえず、何か策を考えないといけない。
「この後、どうする? まさか、木島をつけて理由を探るって訳にもいかないしな」
「ん? いや、それが一番確実な手だろう。何せ彼女には話す気がないんだからな」
「それじゃあ俺達がストーカーになっちまうんだが……」
「ストーカーの定義は曖昧だから何とも言えないが、悪質な事が目的じゃないんだ。お天道さまも許してくれる。はは、何なら、私達はまだ未成年だしな」
とう子は不気味に笑いながら、不吉な声で少年法を盾にする。ストーカー規制法に少年法など適用されるのか、そもそもそこまでの罰則が及ぶのか。法律に疎い子供の戯言と受け取るべきだろう。
「とは言ったものの、倫理的によろしくないのは事実だ。それに残念ながら私達は学生で、時間も限られている。あまり現実的ではない」
じゃあ今までの話は何だったのか、とつい思ってしまう。その気配を察知したのか、とう子は「まあまあ」とこちらを落ち着かせるように呟いた。
「とりあえず、私は知り合いに当たってみるよ。木島ちゃんが何かトラブルに巻き込まれていないか、何か彼女の周りにそういった火種はないか」
それは、多分一番現実的な策だ。とう子の人脈は驚く程、というかたまげる程に広い。それはうちの高校だけではないし、一酒屋の店主だけでもない。西ケ谷高校にも、恐らく相当数の知り合いがいるのだろう。
それは心強いのだが、しかし。
「自分はどうしたらいいんだ、とか思ってるか」
こちらの心の内を読むように、とう子はそう言った。……その通りだ。とう子が動いてくれるのなら何かしらの収穫はある筈だ。それはとても心強いし、もしかしたらあっという間に解決に導いてしまうかもしれない。それは構わないし、むしろそうなったらこれ以上ない位に喜ばしい。けれど俺が言い出した事だと言うのに、とう子にばかり負担をかけるようで、どこか気が引けてしまうのだ。
「お前に限って蚊帳の外で不満、って訳じゃないよな。別に出来る事がないからって、罪悪感感じる必要なんてないんだぞ」
とう子は精一杯のフォローのつもりで言ったのだろう。けれど、どうしても気分は落ち込んでしまう。俺には、やはりもう出来る事はないのだろうか。
「岸本って、たまに女々しいよな」
それも事実だが、はっきりと言われるとさすがに癇に障る。
「悪かったな」
「はは、まあそう怒るな。何かしたいというのなら、一つ私から提案だ。ああ、先に言っておくがなかった事にするとか、今更ないからな」
目の前ににんじんを投げ出されたような気がして一瞬胸を膨らませたのだが、後半の不可解な発言によってそれは急激に萎んでいく。何より、唐突に変わったとう子の声色が凶兆を示している。簡単に言うと、嫌な予感しかしない。
「提案って、何だよ」
恐る恐る聞くと、鼻で大きく息を吐くような音が聞こえる。きっと、電話の向こうの幼馴染は、さぞ楽しそうに笑っているのだろう。
「断る」
「だから、今更駄目だって」
ははは、とフランクに笑う不吉な兆しそのものな幼馴染。こいつ、状況がわかってないんじゃないだろうか。わかっててこれならサイコパスの気がある。創作物でもそうだ。物語の常として、危険人物は案外近くにいたりする。
「岸本、悪いクセだぞ。お前、木島ちゃんにビターチョコのケーキを教えてもらって、礼を言ってなかっただろう。駄目だぞ、ちゃんと礼は言わないと」
数時間前の事を思い出す。確かに、あの時気恥ずかしくて礼を言えなかった。しかし、何故今それを言うのだろう。
「安心しろ、もう許可はとってある」
思わせぶりに、訳のわからない事を続ける。と、不意に携帯電話の通知音が鳴る。端末から耳を離して画面を見ると、何故か通話中のとう子からメールが届いていた。
中身を開いてみると、メールアドレスが記載されていた。そして文末には木島真智と書かれている。
また携帯電話を耳に近付ける。
「……お前状況わかってる? 」
威圧するようにこの上ない程の低い声で言ったが、電話の向こうのとう子は狼狽えた様子が微塵もない。
「? わかってるに決まっているだろう? 」
ならどうしてこうなったのか。
「策に詰まった時は、何か特別な事をしてみるものだ。幸い口実もある。いくら彼女でも出会って間もない奴に身の上話をするとは思えないが、上手くいけば、彼女の悩みの種を聞き出せるかもしれないぞ? 」
「…………」
複雑な感情が溢れ出し、何か言おうとして、けれど何も言えずに口を噤む。同時に文字通り頭を抱えて、せめて電話の向こうに何か恨み言を言わなければと思った。
「人間ジェットコースターが」
「捻り出したものがそれか。もう少し上手い例えはなかったのか。人力暴走機関車とか」
自覚がある人間程、質の悪いものはない。
「まあ落ち着け。そこまで悪い考えでもないのは、お前にもわかるだろう。とにかく今は情報が必要だ。どんな些細なものでも」
……それは、そうだ。だから俺もやらないとは言えなかった。とう子は間違った事は言ってはいない。いや、言ってはいないが。
「いや、ちょっと待て。今許可はとったって、言ったか? 」
「ああ、言ったが。だからもう後には引けないぞ」
あっけらかんと答えるサイコパス。
「……いつ? 」
「たんぽぽでの別れ際。ああ安心しろ、お前の連絡先は教えてないぞ」
わざとなのか本当にズレているのか。何故こんなヤツと友人をしているのか、わからなくなってきた。
「とうにお前の中では決まっていた事だと」
「まあ、そうなるな」
……頭が痛くなってきた。
けれどとう子の言う通り、それは決して悪い案ではない。言っている事はもっともで、俺達は一にも二にも彼女の事を知らなきゃならない。結局の所今胸につかえているのは、木島と上手く関係が築けるのかという不安だけなのだ。
「やれる事はやるんだろう。私任せは嫌なんだろう。なら、自分の出来る事をやれ」
今度はとう子が低い声を出す。何か言い返したい気分だが、もう何も出てきそうにない。それに、これは俺が初めた事だ。今ここで言い返せば、それはとう子に対しての八つ当たりに他ならない。
「やってやるよ、畜生」
「その意気だ。大丈夫だ、お前は少し自分を過小評価しているよ。お前は人並みに人間関係を築けるし、実は対人能力だって高い。そんな人間ががむしゃらになれば、出来ない事なんてないさ」
酷く優しい声だった。不自然な程急に褒められてしまって、少し調子が狂う。……何だか、たまにとう子の事がわからなくなる。
「思いの外長くなってしまったな。そろそろ家に着いた頃か」
言われて、愕然とする。十分以上話していたというのに、俺はまだアーケード街を出ていなかった。
「いや、まだ酒屋から四、五分の所だ」
「は? 何だ、考えながら歩いていたら足が重くなったか。不器用な奴だな」
容赦のない言葉に反感を覚えるものの、恐らくはその通りである。頭を抱えたくなるような内容の連続に、どうやらいつもより歩調が遅くなっていたらしい。
「仮にも殺人事件が起きてるんだぞ」
とう子はそんな事を言いながら、大きなあくびをする。心配している、というよりは呆れているような様子だった。
「不足の事態が続いたもんでね」
精一杯の皮肉を呟きつつ、足を速めた。あまり遅くなると、姉が心配してしまう。
パチン。歩いていると、不意に、脇道の方から何かが弾けるような音がした。
気になって近付いていき脇道に入ると、接触不良でも起こしているのか、奥に一本だけ立っている街灯が点滅していた。鈍い光は不規則に点いたり消えたりを繰り返し、音を立てては弱々しい明かりで辺りを照らしていた。
脇道に街灯は一本しかない。周りの商店もとうに閉まっている。必然として、街灯が消えている時、この路地は完全な暗闇となる。
パチン。また音がして、辺りが照らし出される。
路地は行き止まりだった。そこには飲食店のごみ捨て場が設けられている。
「――――」
――――見覚えが、あった。確かにそこには、見覚えがあった。
「どうした? 」
黙ったままの俺を不思議に思ったのか、息を呑んだのを聞き取ったのか、とう子が問いかけてくる。
「見つけた、かもしれない」
酷く辿々しい言い方だった。
「……何をだ? 」
とう子の声が真剣なものになる。
アングル、広さ、周りの建物の形。……確証はない。けれど、恐らくここだ。何故今まで失念していたのか。この街に、アーケード街は一つしか無い。
「夢の中の、殺人現場」
家に帰ると、姉はソファーで寝転がっていた。さっそく新しいテレビでドラマなんぞを観賞している。だらしない姿勢と恰好ではあったが、平日の大黒柱にあれこれ言う権利はない。
「おかえりー。遅かったね」
少し疲れた声でそう言うと、ソファーからむくりと起き上がる。
「いいよ。自分でやるから」
それを制止すると、また勢い良くソファーに寝転がる。
「イカそうめんが、冷蔵庫に入ってるからね」
やっぱり声には力が無い。当然か。朝六時に起きて朝飯を作り、仕事をして帰ってきてるのだ。
レンジで筑前煮を温めてながら、茶碗にご飯を盛っていく。忘れていた事に気付いて、じゃがいもの味噌汁が入っている鍋に火をつけた。ほうれん草の胡麻和えをテーブルにおいて、一息つくように椅子に座った。
ぼけっとテレビを見てる姉程ではないだろうが、俺も今日は疲れた。キャンパスに少しずつ筆を加えていくような日常に、大量のバケツでペンキをぶっかけられたような気分だった。勿論バケツの一つは、とう子がしたり顔で抱えている。いや、一つではなかったかもしれない。
木島との突然のお茶会。とう子の強引な提案。そして、夢の中の殺人現場。
『どうだろうな。劇的な進展なのは間違いないが』
あの脇道を発見して舞い上がっていた俺は、とう子のそんな言葉で冷静になる。
そう。結局場所がわかっても、正確な犯行時間も犯人もわからない。仮に犯行時間がわかっても、犯人を止める事が出来るだろうか。
『結局の所、私達はまだ子供なんだ。出来る事は少ない。警察に動いて貰おうにも、有用な証拠だって、ただの夢だけだしな』
ため息をつく俺に、とう子は明るい声で返す。
『いや、だから直接的な解決には繋がらないが、貴重な情報であるのは間違いない。未来が変わるような事でもなければ、木島ちゃんはそこで殺されるんだろう?知恵を絞ろうぜ岸本。その場所を見つけた事で、出来る事は劇的に増えたんだから』
その後、二人で絞り出した知恵は大まかにわけて3つ。
一つは、あの場で不審者を見たと、匿名で警察に通報する事。警察が取り合ってくれるかは分からないが、上手くいけば事件そのものが無くなるかもしれない。勿論、その結末は理想論なのだが。
二つ目は、バイト先である酒屋からの監視。店長は一人暮らしが寂しいのか、帰るのが面倒なら泊まっていけと、時折冗談の様に言っていた。実際何度かお世話になった事がある。主に姉と一悶着起こした時だ。店から脇道までは徒歩で五分程。家よりは遥かに近いし、店は大通りに面している。大きくもないアーケード街だ。夜に路地に入っていく人物がいたら、嫌でも目に入る。
三つ目は、木島本人にあそこには近付くなと忠告する事。本人に不審がられない理由を考えているが、今の所あまり良い案がない。警察と同じように、不審者がいたとでも伝えるのが最有力候補か。
一つ目はもうとう子が実行したらしい。もし今日あそこに誰かいたとしたら、俺が不審者となってしまう訳だが、目的には差し支えない。俺自身がその不名誉を幾らか我慢するだけで済むし、まるで問題がないという訳ではないのだが、まあ困ったような事態には発展しないだろう。
二つ目は、とりあえず明日店長に掛け合ってみる予定だ。姉と喧嘩したと嘘をつくのが手っ取り早いが、バレた時の事を考えるとあまり良い考えとは言えない。超強力なバルサンを焚いたら部屋が臭くなってしまった、とでも言うか。時期的にも奴らは活発な季節だ。
ただ、そう何日もお世話になるという訳にもいかない。そもそも店長に都合がある事も考えておかなければならない。その場合この策は白紙になってしまうが、それは仕方ない。
三つ目は――――ああ、一番気が重い。
『じゃあその不審者情報は、礼を言ったついでに言っておいてくれ。じゃあまた明日な』
とう子はそう言ってすぐに、電話を切った。こちらの意思など聞く気もないらしい。
味噌汁の鍋がぐつぐつと音を立てだしたので、慌てて火を消す。
リビングの時計を見る。時刻は十時半。あまり遅くなっては迷惑だ。さっさと食べて、人生初の、異性へのメールとやらを送らないといけない。
部屋に戻って電気をつけ、カーテンを締める。……気が重いが、今更後戻りも出来ない。
不貞腐れるようにベッドに寝転がって、文面を考える。しかし、驚く程何も思い浮かばない。五分程そうしていても何も出てこなかったので、何となく勉強机に座ってみる。するとようやくアイデアが沸いてきて、そこからは割とすぐに文面は考えられた。
『こんばんは。岸本です。今日教えてもらったビターチョコはとても美味しかったです。教えてくれて有難うございました。それはそうと、僕のバイト先の近くで不審者が現れたそうです。アーケード街の脇道です。あまり近付かない方が』
クソみたいな文面をそこまで打ち込んで、消去ボタンを長押しして一気に全部消した。一体誰だこいつは。かしこまり過ぎてまるで業務連絡だ。
もっと軽い気持ちでいこう。ただのメールで、相手はあの木島だ。ザ・善人の木島だ。何も気負う必要なんてない。
『こんばんは、岸本です。ビターチョコ、美味かったです。教えてくれて感謝してます。お返しと言っては何ですが、アーケード街で不審者が現れたそうです。もし用事があるようでしたら、注意した方がいいと思います』
読み返して、一体何が変わったんだと頭を抱える。
とう子に助けを求めようかとも思ったが、もう猶予がない。そろそろ時刻は十一時になろうとしている。アドバイスを貰って文面を考えていたら日付が変わってしまうかもしれない。そもそもこの時間では、とう子はもう寝ているかもしれない。
「はぁ」
一人ため息をついて、半ばヤケになりながらもう一度携帯電話に文字を打ち込む。
『岸本です。今日はありがとう。ビターチョコ、美味しかったです。実はあの後バイトに行ったんですが、その近くで不審者が現れたそうです。アーケード街の脇道です。近くには、寄らない方がいいと思います』
送信ボタンを押そうとして、躊躇って、時間を見て、また押そうとして、再度躊躇って。最後に、どうにでもなってしまえと、無駄に力を入れて送信ボタンを押した。
夏独特の虫の鳴き声、扇風機の作動音、階下から聞こえる小さな生活音。そういったものが、どういった訳か今はとてもクリアに聞こえる。
返事って、どれくらいで返ってきたっけ。もしかしたらもう寝ているだろうか、だとしたら返ってくるのは明日だ、安心した。いや、そもそも返ってくるのか、いや返ってくるだろう、相手はあの木島だ。……等々、そんな事を考えていると、不意に携帯電話が振動する。随分長い時間に感じられたのだが、実際にはメールを送ってから一分も経っていなかった。
恐る恐るメールを開く。勿論相手は木島だった。
『メールだと、ものすごい敬語なんですね笑』
一行目の文面を見て、顔が熱くなるのを感じる。さっきから感じていた違和感はこれか。仕事でもないのにメールだけ敬語というのも、確かにおかしな話だ。しかし指摘されるまで気付かないとか、さすがにどうなんだ。
『どういたしまして! 気に入ってもらえて何よりです♪ 不審者の件、了解です。近くでバイトされているという事で、岸本さんも気をつけて下さいね。それにしても今日は楽しかったです! とう子ちゃんと仲良いんですね笑。お二人のやりとりを見ていて、少し和んでしまいました笑。今日は本当に有難うございました!おやすみなさい♪ 』
そのメールには絵文字がふんだんに使われていて、とても女の子らしいものだった。こんな綺羅びやかなメールを受け取ったのは人生で初めてだ。……ふと、自分がとてつもなく浮かれている事に気付く。
それにしても、これはおやすみと返すべきなのか。キリよく会話が終わっているし、返す必要はないのか。そんな事を、何分間も大真面目に考えていた。
自分の顔をいじってみる。やっぱり、あまり表情に変化はないようだ。けれど恐らく。もしこの顔が動いたのなら、きっとだらしなくニヤけていたに違いない。