第二章
またあの夢を見る。微笑み合う少女たち。二つの血まみれの死体。以前一度見た幻影達は、その輪郭をよりはっきりとさせていた。以前は死体の正体がわからなかったが、今はわかる。一人は、歩道橋を歩いていた彼女で間違いなかった。
どうしてそんな夢を、何故俺が見るのか。理由はわからない。
彼女が死んでいるかどうかも、今はわからない。そこに責任があるのかも。けれどその夢に、あの結末に、ただただ嫌悪感を覚えている自分がいた。
人が死んだ。自分がその死までの道筋に、干渉出来たかどうかはわからない。けれど只々、嫌だ、と思ったのだ。
もうあんな経験は沢山だったのだ。顔を知っている人間が、たとえそれが赤の他人だったとしても、死んで居なくなってしまうというのは。
彼女がまだ生きているかどうかはわからない。生きていたとして、あの結末に辿り着くのかどうかもわからない。けれどもし助けられるというのなら、俺は助けるべきなんじゃないだろうか。
唐突に、酷い頭痛で目が覚める。
枕元に置いてあった携帯を手に取り、時間を確認する。時刻は午前四時半。睡眠が足りていない、という訳ではなさそうだ。昨日はどうにも考え疲れてしまって、姉と夕食を摂った後少ししてすぐに寝てしまった。
頭痛の原因なんて分かりきっている。あの夢は、以前よりも現実感を増していた。そして、死体の一つが彼女である事もわかった。それ以外、以前と何が変わったかと問われれば、あまり上手く答える事は出来ない。以前はボヤケていた輪郭が広がっただとか、細部がはっきり見て取れるようになったとか。確かに言える事はそれ位で、後は何というか、只々現実感が増した、としか言いようがない。
それらは錯覚で、あの事件を目にしたのが原因なのか。頭では否定しつつも、あの女生徒の死に責任を感じているからなのか。
「…………」
また繰り返してしまった。昨日嫌という程考えて、無駄な行為だと戒めていたというのに。何にせよやめだ。部屋で考え込んでいても答えなんて出る事はない。
ベッドから出てカーテンを開けると、まだ外は暗闇に包まれていた。日が昇るまで、あともう少し時間はかかるだろう。
距離は徒歩で十五分程。そこに出向いて何か進展があるかどうかはわからないが、俺はいてもたっても居られなかった。
この街には一つ、大きな川がある。県をまたいで海まで続く、太い川だ。この街の住人ならば、一度はこの河川敷を訪れた事があるだろう。女性徒――播磨美里の遺体は、そんな人通りの少ないとはいい難い場所で見つかったらしい。
事件現場らしき場所を探そうと辺りを見渡す。するとそれはすぐに見つかった。
広い河川敷の一部に、黄色いテープが張られていた。テレビドラマで目にするような、現場を保全する為の仕切り。それが随分広範囲に張られている。四百平方メートルぐらいは確保されているんじゃないだろうか。
現場の保全が解かれていないという事は、まだ何か警察は調べたい事があるという事だ。犯人の手掛かり、凶器など、まだ見つかっていないのだろう。もしくは、被害者の持ち物の一部が見当たらないか。
仕切られた場所の中心。そこを、あまり気は進まないが凝視してみる。数秒経って、馬鹿な事をしたと、小さくため息をついた。
事件現場を見ていれば、何か超常的な幻視でもするのではと期待したのだが、そうそう旨い話はないようだ。創作物であればここで物語は進展するだろうに、現実というのは良くも悪くも堅実であるらしい。当たり前の話だが、播磨美里が歩道橋の少女であるかどうかもわからなかった。
何にせよ、この場所で得られる事はもう無さそうだ。さて、どうしたものか。これ以上出来る事は、もうあまり残されていないような気がする。そう。それは例えば――。
「……はぁ」
あまり気は進まないが。少なくとも、話は聞いてくれるだろう。
家に戻り玄関を開けると、微かに朝餉の匂いらしきものが漂ってくる。もう姉は起きているらしい。時刻はまだ六時前だ。こんな時間には起きていて、朝食を作り出勤する。そして帰ってくるのは俺より遅いという、頭の上がらない存在だ。勿論、昨日のあれは例外である。
「あれ。あんた起きてたの。何だか、珍しい事が続くわねぇ」
リビングに入ると、お玉を手にしている姉は目を丸くして驚く。そこまで驚かなくてもとも思うのだが、寝坊常習犯なのは事実なので仕方がない。
「ああ、昨日は早く寝たから」
どうやら姉は俺が出かけていた事に気付いていなかったらしい。それならそれで好都合が良い。あれこれ追求されても面倒だ。
「ちょっと待ってて。まだ朝ごはん出来てないんだわ」
そう言い残し、きびきびとした足取りでキッチンへと戻っていく。時刻はまだ午前六時。登校時間まではまだ大分時間がある。家人がせっせと家事をこなしているというのに、何もしないというのも変な話だ。何より手持ち無沙汰でリビングにいるというのは居心地も悪い。
「何か手伝おうか?」
姉はキッチンから顔だけ出して、再度目を丸くした。なんだ。そんなにおかしな事だろうか。朝食の手伝いだなんて…………そう言えば、最近はほとんどしてなかったかもしれない。
「……随分殊勝な心がけだこと。こんな時間に起きてて、朝食の手伝いまで申し出るなんて。何、人生を変える出来事でもあった? あったなら、割と気になる事だから手伝いつつお姉ちゃんに話しなさい」
珍獣でも見るような目でこちらをチラチラと覗いつつ、小皿の上の味噌汁らしきものを啜るという、器用な事をしている。何だか釈然としないものを感じるが、今回の件に限っては姉に否はない。これ以上話が広がらないよう、適当に言い繕って畳んでしまおう。
「いや、別にそんな大層な事は何も。ほぼほぼいつも通りの、つまらない平凡な人生ですよ」
無論、実際には気がかりな事はある。けれど姉には言わない事にした。多分この人にそんな話をしても、心配をかけてしまうだけだと思ったのだ。あんな非現実的な話をして、唯一の家族に無用な心配をかけさせたくはない。
「そうかいそうかい、果たして姉としてそれは喜ぶべき事なのかねぇ。そろそろ恋愛話の一つでも聞いておきたいよお姉ちゃんは。……あー、何? 余計なお世話? ……はいはい。じゃあ、お皿を出してもらおうかな。大皿一つと小皿を四つ。勿論お茶碗とお椀もね」
燦々と輝く太陽はどこへやら、昨日の天気とは打って変わって、空模様は灰色一色だった。
雨こそ振らないが、今日は一日、太陽が顔を見せる事はないらしい。
日が出ていないせいか、昨日よりはいくらか気温が下がっている。だが暑くない訳でもなかった。湿度が高いせいか、粘着くようなジメジメとした空気にはいつも以上に不快感を覚える。何故日本の夏というのはこうなのか。全くの余談ではあるが、何でもこの湿気のせいか、湿度の高い日本よりも、カラッと乾いた空気の中東の方がいくらか過ごしやすいという人もいるらしい。この国の暑さは、主にこの湿気が原因なのだそうだ。
通勤、通学途中であろう人々の顔も、どこか憂鬱そうだった。まるでそれは、昨日の彼女のように。
歩道橋の前までやってきた。けれど彼女の姿はない。当然だろう。昨日二度も目にした事自体、どこか可笑しかったのだ。もし今日も見かけたとしたら、それはもはやただ事ではない。何か不思議な力が働いていると言ってもいい。勿論それが何なのかは、皆目検討がつかないのだが。
しかし、今日は現れなかった。端から異質な力など働いていないのか。それともそういった働き方なのか。はたまた、昨日死んだのはやはり彼女で、もうこの世にはいないのか。
十分程立ち止まっていたが、やはり彼女は現れない。そろそろ道行く人々の視線が辛くなってきた。仏頂面で立ち尽くす高校生と言うのは、そんなにもおかしいだろうか。まあ、おかしいだろう。ガードレールに腰をかけてひたすらに歩道橋を眺めているというのは、間違いなく奇行の類いだ。
結局あの時のように、夢を思い出す事もなかった。本格的に手詰まりだ。気は進まない。けれど仕方ない。行動を起こすと決めたのだ。やれる事は、やっておくとしよう。
その日の昼休み。授業が終わってすぐに席を立ち、斜め前方にある人物の席へと向かった。
「話したい事がある。今が無理なら、放課後でもいい」
席に歩み寄りながら話しかけると、その人物――中島とう子はゆっくり振り返り、そして目を丸くした。この友人にしては大変珍しい反応だった。というか、こんな顔をした幼馴染を見るのは、もしかしたら初めてではないだろうか。
「珍しい」
よっぽど俺の行動に驚いたらしい。目を丸くした後、その態度を更に強調するようにそう口にして、珍獣でも見るような目で、まじまじとこちらを見ていた。それから何か思案したような仕草をした後、カバンから弁当らしき小袋を取り出し、席を立つ。そして何人かのクラスメイトに声をかけ始めた。恐らく、昼御飯を一緒に食べる予定だったのだろう。
「どうしても、というからと言って断ってきた」
ニヤけ面でそんな事を言いつつ、とう子は戻ってくる。こいつは人の話を聞いていたのだろうか。
「無理なら放課後でいいって、言ったよな」
不満を隠す事もなく、出来る限りの抗議をしてみた。けれどとう子はさらに目を細めて、こちらをあざ笑うように口元を釣り上げるのだった。
「そうだったか。すまん、聴き逃した」
小柄な友人は小さく笑いながら謝罪する。謝る気があるのなら、何故こいつは笑っているのだろうか。まあ、わざとだからだろうな。ちくしょう。
「相変わらず何を考えているんだかわからない奴」
「何か言ったか」
せめてもの反撃のつもりでそんな事を言ったが、とう子は涼しい顔で聞き流す。どうやらこいつの耳は自分に都合の良い様に出来ているらしい。成る程、こんな性格になってしまうのも納得だ。
「それで話っていうのは、人前でしていい話? それとも駄目な話? 」
得意げな表情は変わらぬまま、とう子はそんな質問を投げかけてくる。何故そんな事を聞いてくるのか少し不可解だったが、こちらから話を切り出さなくて済むのは都合が良い。何せ、俺から言おうとすると上手く言えるか怪しかったからだ。
「どちらかと言うと、駄目なやつ」
そう言った瞬間、とう子の相手を挑発するような笑顔が、一瞬だけ揺らいだ。けれどそれは本当に一瞬で、またこちらの神経を逆撫でするのだった。
「そう……か。なら、屋上にでも行こう。日も出ていないし、そこまで暑くもないだろう」
そして勝手に場所を指定すると、そのままこちらの返事を待つ事なく、てくてくと歩き出してしまう。
どこか腑に落ちないが、前を向いたまま振り返りそうにないとう子の後ろ姿を見て、諦めて後を着いていくことにした。
とう子の言う通り、屋上に出てもさほど暑さは感じられなかった。どうやら、朝よりもいくらか気温が下がったらしい。粘着く湿気も、心無しか緩和されているような気がする。
とう子は塔屋のすぐ傍の地面にハンカチを敷いて、そこに所謂女の子座りというやつをした。
この友人、男口調男勝りの性格なのだが、一方で仕草や行動などはどういったわけか他の女子と同じ、いや、比較する相手と状況によってはそれ以上に女性らしいものなのだった。
「少しだけ、蒸すな」
ワイシャツの胸元に手をかけて、ぱたぱたと空気を送り込むように動かす。胸元の、日に焼けた首よりも少しだけ白い肌が、一瞬だけ見えてしまう。すかさず目を逸らした。そんな光景を見られでもしたら恰好の弄りネタにされそうなものだが、幸いな事に気付かれなかったらしい。
俺はこいつを女とは認めていないが、やっぱりどう足掻いても女なのだ。その事実だけは、硬い意思を持とうとも覆す事は出来ない。
「それで、人前で話せない話って何だ? まさか、この私に愛の告白とか? 」
言って、ケラケラと笑う。その問いは心の中を見透かされたようで少しどきりとしたが、すぐに冷静になる。一体何を言っているんだこいつは。夏に不調をきたすのは、どうやら俺だけではないらしい。
「馬鹿言うな。あ、予め言っておくけど間違ってもさっきの友達にそんな事言うなよ。お前はホラのつもりだったとしても、変な噂が立つかもしれない」
「そこまで馬鹿じゃない。男女の色恋沙汰の噂なんて、どれも碌なもんじゃないしな。そんな事はしないよ」
それを聞いて安心するのだが、やっぱり今一こいつの考えている事がわからない。じゃあ先程の、そういった事を匂わすような教室での発言は何だと言うのか。本人には明確な線引があるのかもしれないが、周りも同じ感覚だとでも思っているのだろうか。
「じゃあ一体、何だっていうんだ。昼休みに声をかけてくるだなんて、何年ぶりだ?」
悶々と考え込む俺を置いてけぼりに、とう子はなどと続けて、何年ぶりなのか、真面目に思い出している様子だった。確かに、こうやって俺から話しかけたのは随分久しぶりだったかもしれない。
「先に言っておく。結構、ふざけていて、不真面目な話だ」
それを聞いたとう子は訝しむように眉を寄せて、
「そりゃまた、どういった話なんだ」
そう、真剣に聞き返してくる。相談するだけでも珍しい、しかもその上そんな内容。この状況が珍妙過ぎるからだろうか。とう子は真面目に取り合ってくれている。思っていた通り、馬鹿にされるような事はなさそうだ。この先も、そのままでいてくれるといいが。
「かいつまんで、言うぞ。疑問があったら聞いてくれ」
そうして、俺は先日見た夢、歩道橋の彼女、昨日見つかった遺体、それが彼女なのではないか、次第に鮮明になる夢、実はこれは正夢なのではないか。時系列順に、ただただあるがままをとう子に伝えた。
「…………」
とう子は全て聞き終えると、顎に手を当てて考え込んでしまった。固唾を呑んで返事を待っていると、二、三分程経って、とう子は顔を上げた。そして。
「本気か? 」
苦笑いしつつ、そう言うのだった。
「ああ、馬鹿な話だよな。今すぐ忘れてくれ」
ああなんで俺は、こいつなら馬鹿にする事もなく話を聞いてくれると思ったのだろーか。タイムスリップでもして、今朝の俺を「考え直せ」と殴り飛ばしてしまいたい気分だ。
「あ、いや、すまん。つい口が滑った。信じてない訳じゃない。お前が、そんな冗談言う訳ないしな」
慌てて手を合わせて、とう子は大げさに頭を下げた。少しわだかまりは残るが、とう子は今、信じてない訳じゃないと言った。……なら続けよう。話を切り上げるのは、また小馬鹿にされてからでいい。第一こんな話、こいつでもないとまともに取り合ってくれないだろうし。
「悪かったって、そう睨むな。じゃあ質問なんだが。まず、その夢はどこかで見た光景じゃないのか? 本当に夢だったか? 夢だとしたらどこか変わった夢だったか? 」
誤魔化すように、とう子は矢継ぎ早に、いくつも質問を投げかけてくる。まだ釈然としないものを感じつつも、俺は正直に答える事にした。
「現実で見た事は一度もないよ。第一、そんな所見たとしたら一世一代のトラウマものだろ」
「はは、違いない」
そこで笑うのは、人としてどうなのだろう。
「まあ、変わった夢ではあった、かな。少なくとも普段見る夢とは明らかに違う。何ていうか、変な話なんだけど。輪郭がボヤケているのに、妙にリアルというか」
「その辺りの所は、少し分かりづらいな」
「そう言われても、これ以上上手く言語化出来ない」
「ん、ならこれ以上突き詰めても得るものはなさそうだな」
そこまで話して、とう子は弁当袋に手をかける。昼休みは残り四十分程。このまま話していたら食べている時間がなくなってしまうかもしれない。俺もとう子に倣って弁当箱を取り出した。
「悪いが、その夢については力になれそうにない。多分、お前と同じ結論だ。断定は出来ないけれど、仮定は立てられる。それはまさしく正夢というやつで、言い方を変えれば予知夢というやつなんじゃないか。まあ、結果を見てみない事には、どうとも言えないんだが」
恐らくとう子の言う結果というのは、その殺害現場が現実のものになった時の事をさしている。
「つまり、結局何のこっちゃわからないと」
「そう言ってるだろ。私は別にそういったオカルト方面の知識に詳しい訳じゃないんだぞ。出来るのはお前の話を聞いて、そこにいち一般人の意見を言うだけ。不満があるなら、ほら、専門家にでも頼めばいい」
イタコとか、などと言って弁当の中身をぱくつく。確かにそれはその通りだ。けどイタコは違うと思う。
「ただ」
とう子は訳ありげに一度言葉を切る。そして弁当から目を離し、また真顔になってこちらを向いた。
「歩道橋の彼女は、多分知ってる。殺された彼女も、まあ知り合いと言えば知り合いだ」
そして、何かとてつもない事を言うのだった。
「は?え、知ってる? それってどういう事だ? 」
間抜けな声を出して詰め寄ると、とう子は一瞬ニヤついて、「おっと不謹慎」と言ってすぐに真顔に戻った。
「あんまり面白い反応をするな、私は真面目に生きたいんだ」
そんな事を糞真面目に言って、また弁当に手を付けるとう子。
「どうもこうもない。何も、学生のコミュニティは学校だけじゃないだろう。播磨美里に関しては友達という訳じゃないが、二人共私と同じ塾に通っている」
言われて、その存在に思い当たる。この街には一つ、大きな進学塾がある。そこでとう子と彼女達が知り合っていたとしても、別段不思議ではない。
「まず歩道橋の彼女。ポニーテールの、細身で少し背の高い、男子なら誰もが振り返るような可愛い子だろう。それは多分、木島ちゃんだ。彼女は本当に可愛いからな。数回話した程度だが、感じも良い。正直好きだ」
こちらを見る事もなく、弁当と向き合いながら大真面目にそんな事を言う。未だに、この友人が気に入った女子生徒をちゃん付けで呼ぶ事に対して、違和感を感じる。
「という訳で、昨日見つかったのは歩道橋の彼女ではない。良かったな少年」
そこでもニヤけ面を披露するとう子。からかわれるのは普段からなので別にいいが、いや、よくはないのだが。真面目に生きるんじゃなかったのかお前。
「播磨美里は、あまり話した事はないな。たまに挨拶する程度だ。塾内での彼女を見る限りは、敵を作るような子には見えなかったから、正直昨日のニュースには驚いた」
ぶつぶつと、下を向いて一人考え込みながらとう子は言う。その反応からして、本当に播磨美里はそういった人間だったのだろう。敵を作るような人間でないのなら、一体彼女は誰に殺されたのか。そんな疑問は残るが。
「確認なんだが」
唐突にとう子は顔を上げず、視線だけこちらに向ける。
「その夢の中の殺人事件と、播磨美里の事件は、別物なのか? 」
その質問の意図は、すぐにはわからなかった。けれど少しして、何となく把握する。つまりとう子は、夢で死んでいたのは木島という女性徒ではなく、播磨美里だったのではないかという確認をしているのだろう。そうだったとすれば、播磨美里の事件を最後に、俺はあの夢の事について悩むような事もなくなる。しかし。
「違う、と思う。背景は河川敷じゃなかったはずだ。暗くて詳しい場所はわからないけど、どこかのアーケード街だった」
あの夢の中には、人工物しか見当たらなかった。生い茂った草も、整地された土の地面も、緩やかに流れる川面も、どこにもありはしなかった。西ケ谷高校の女生徒達は、暗い街角で、硬いコンクリートの上で、目を見開いて絶命していた。
「ふーん」
とう子は興味がなさそうにそう言った後、数分程黙って考え込んでしまう。ふととう子の弁当箱を見ると、中身は随分減っていた。
「わかっているとは思うけど」
そして、唐突に口を開く。何かその切り出し方は、嫌な予感がした。
「私にも、岸本にわかる以上の事はわからないぞ。彼女達二人の素性は別として。というかだな、はっきり言わせてもらうぞ。お前、私がこう答える事わかってただろう。私は無責任な事は言わない。現実主義の、卑怯者なんだ」
言われて、心が揺れる。そうだった、ろうか。いてもたってもいられず、自分一人では進展も見込めず。ただただ、とう子に話を聞いて欲しかった。……確かにその結果が、予想出来なかった訳ではなかった。
目の前にいるのは答えを用意した神様ではないのだ。こんな事、分かりきっていたのに。どうして俺はとう子に話そうだなんて思ったのか。
「……どうしたら、いいと思う」
無意識に、そんな言葉が口を出た。目の前で無責任な事は言えないと言った人間に対して、やるせなさを愚痴るように、そんな疑問を口にした。
「逆に聞くぞ。お前はどうしたいんだ。さっきも言ったように不可解な夢には私はお手上げだ。なら、もう私に出来る事なんてほとんどない」
分かりきった回答が返ってくる。とう子は神ではない。地頭の良い奴だから問題を投げかければ大抵は答えが返ってくるが、無論全ての答えは返ってこない。今回の事は返ってこない類のものであるのは、わかりきっている事だった。
それでもとう子はこの世で一番頼れる人間だ。そんな友人に、きっと俺は泣きつきたくなってしまったのだ。
「どうしたいか……」
口にして、もう一度頭の中で、その意味を咀嚼するように反芻する。そうしている内に動揺していた心が、少しずつ落ち着いていく。そうだ。どうしたいかは、もうとっくに決まっている。
「馬鹿みたいな話だけど」
一度言葉を区切ってとう子の様子を覗う。茶化すような事もなく、真剣な顔のままじっとこちらを見ていた。その様子に自分でもどうかと思う程安堵して、俺は馬鹿みたいな話を続けた。
「もし。仮にこれが正夢になるのなら、その結末を避けたい。それだけは、今確かに言える事だ」
はっきり言うと、真顔だった友人は途端にくっと声を出して笑うのだった。
「起こるかどうかもわからない、不確定な殺人事件を?」
その様子に不満がない訳ではない。しかし「どうやって? 」と意地の悪い事を言わない辺り、とう子はまだ加減している。
「無茶苦茶言ってるって事は、さすがにわかってるよな」
じっと顔を見て、無言で頷く。すると笑顔のまま、しかし大きく眉を顰めて困ったような顔をする。
「……仮にその殺人事件が現実のものになったとして。岸本が行動しなかったからと言って、お前は悪くないよ。そんなのは、普通の人間の領分じゃないんだ。そんなものをお前に見せた、意地の悪い神様を呪うしかない」
珍しく穏やかな口調で、友人は諭すように言った。俺が行動を起こさなかったとして。それがどういったものかは、勿論おいといて。そこに責任は無いと、とう子は断言した。
それはそうなのかもしれない。不確かな出来事にかまけていられる程、人間という生き物には余裕も暇もない。俺達は目の前の現実にいつも精一杯だ。正夢かもしれない、で行動する人間は、滅多にいないだろう。
「俺には、そうは思えないんだ」
けれどそれでも、見てみぬふりをしていい理由になるとは、思えなかったのだ。
「……行動を起こしたとして、お前は間抜けな醜態を晒すかもしれない。夢で起きた殺人事件を未然に防ぎたいだなんて、周りからしたら狂言以外の何物でもない。……お前は、人とのトラブルに巻き込まれやすい質だ。出来れば、私としてはそんな事してほしくはない」
それを言われてしまうと、少し弱ってしまう。……とう子はずっと変わらない。いつも男口調で、俺よりも男らしい性格で、頼りになって、最後には助けてくれる。いつも、俺の事を考えてくれている。
「上手く立ち回るつもりだけど、お前には心配かけるかもしれない。でもそれで何も起きないんだったら、安い代償だと思う」
それでも、例えあの結末が現実にならなかったとしても。俺は動くべきだと思うのだ。
「……途端に吹っ切れやがって。全く、恰好つけてんじゃねーよ。漫画の主人公気取りか」
あーあ、とため息をついて弁当箱を閉じようとする。気付けば、とう子の弁当箱は空になっていた。
「まあお前は、他の奴よりも人の死に敏感だからな。そういった、どこかの誰かの死がチラついて、気になるんだろう」
うちの家庭事情を知っている幼馴染には、何もかもお見通しだったらしい。
「わかったよ、好きにしろ。私も出来るだけ、協力してやる。その夢を信じ切った訳じゃないが、私だって木島ちゃんには生きていて欲しいしな」
もう一度ため息をつきながら、とう子は弁当箱を袋にしまう。愚痴愚痴と文句を言いつつも、最後には手を差し伸べてくれる。やっぱり中島とう子は、中島とう子なのだった。
「で。上手く立ち回るっていうのは、どういった風に」
ほっとしたのも束の間、痛い所を突かれる。……困った。実は何も考えていなかったりする。
「……まあ、十中八九デマカセだろうなとは思ったが。お前な、そんなんで大丈夫なのかホント」
呆れたように言って肩を小突いてくる。相変わらず、痛みはない。
「これから考える、ってんであれば私から一つ提案だ」
しかし不満げだったとう子の顔は、唐突に今日一番の不穏な笑顔になる。嫌な予感が、目の前の笑顔には詰め込まれていた。正体はわからないし、それは不可視なものであるというのに、確実に、その毒素はとう子の顔から漏れ出していた。
「私にも他の方法は思いつかなしな。いっその事、件の彼女に会いに行くとしよう」
一体こいつは何を言っているんだ。困ったものだ。まあどうせ、いつものちょっとした冗談だろう。つい三時間程前までは、そう思っていた。
「そう、木島ちゃんの番号。知ってる?さすが、愛してるぜホント」
少し離れた場所で、とう子が友人である女生徒に抱きつき、百合百合しい空間を構築している。
「いや、トントン拍子に話が進むと中々爽快だな」
なぁ?と同意を求められたが、俺の気分は芳しくないのであった。
「なあ。本当に会うのか」
気乗りしない声で言うと、小柄な友人はジト目で睨みつけてくる。
「はぁ?お前な、状況わかってるのか?」
何か暴力を振るわれそうな気がしたので、手を当てずっぽうに前に出す。ぱしんと軽い音がした。右の手のひらに、とう子の正拳突きが突き刺さる。勿論痛みはない。
「もう他にやれる事なんて、ないだろうがっ。今目の前にある手掛かりは、彼女だけだろっ」
ぱしん、ぱしんと。何度も拳を突き出しながら、これ以上の我慢はならんと詰め寄られる。
確かに、とう子の言う通りではある。俺の馬鹿げた、ともすれば妄言ともとれる言動に付き合ってもらってもいる。けれどやっぱり、面識の無い女子に会うのは気が引けてしまうのだ。
「電話番号は手に入れた。さて、どう理由をでっち上げたものか。ああ、こうしよう!」
目を輝かせながら何やら画策しているとう子。不安だ。このまま突っ走らせたままにしておくのは、とても良くない気がする。
「ちょっと待て。なんて声をかけるつもりだ」
「私ながら良いアイデアだ。これ以上不審じゃない嘘なんてないぞ、きっと」
クククと不気味に笑いながら、そのまま携帯電話を取り出し、画面をタッチし始める。こちらの事は無視して、強行するつもりらしい。
「まさかとは思うけど。俺が彼女に気があるとか、そんな事を言うつもりじゃないだろうな」
返事はなかった。しかし、とう子の携帯電話を持つ右手の小指。それが微かにピクリと動いたのを、俺は見逃さなかった。
「あ、おい! 何するんだ! 」
とう子の小さな手から携帯電話を取り上げて画面を確認する。危なかった。まだアドレ帳の画面だった。
「それはこっちのセリフだバカ。お前俺の人生を何だと思ってる」
携帯電話を取り返そうと動き回るとう子を躱しつつ、これでもかという程の低い声で言う。
「別におかしな話じゃないだろ! 木島ちゃんみたいな美人に気がある男子学生なんて !あれだけの美人だ、きっと腐る程言い寄られてるだろうから、お前なんてその辺の小石程度にしか思わねーよ! 」
全くその通りなのだろうが、ここまでストレートに言われると少しショックを受ける。
「いや、それはそれでどうなんだ。もし腐る程言い寄られてるんだとしたら、今回だって断られるんじゃないのか。真面目な子なんだろ」
「それはほら、私の話術でころっと。割とどうとでもなる」
とう子はその結果を信じて疑わない。そして恐らく、それは真実だ。こいつの人生、イージーモードにも程がある。
「という訳で、返せ」
ぶん、と大きく手を振りかぶって携帯電話を取ろうとする。油断も隙もあったもんじゃない。手が届く寸前に、頭の上に携帯電話を掲げる。
「おいこら、さっさとその手を下ろせ」
とう子は小刻みにジャンプして携帯電話を奪い取ろうとする。しかしそれは無駄な足掻きだった。身長差は二十センチメートル以上あり、ひ弱な腕力に比例してとう子のジャンプ力は下の下である。本人は全力で跳んでいるのだろうが、足元を見ると縄跳びでもしているのではと疑う程浮いていなかった。
「絶対にゴメンだ。……埒が明かないし、いい加減疲れただろう。落とし所を探るべきだと思うんだけど」
それを聞くと、とう子はようやく縄跳びをやめた。口はキツく一文字に結ばれていて、鼻でしている呼吸は少し荒い。目つきはこれ以上ない位に悪かった。
「妥協案だぁ? なら、さっさとお前のアイデアを出せよ」
そんなものあるまいと、息を切らしながらニヤつくとう子。少したじろぐが、とある事を思い出す。持つべきものは、姉であった。