第一章
妙な夢を見た気がする。内容は全く覚えていない。
静かな風の音と、何かの微かな作動音。目を覚ましている時は気にならない程の小さな音が、今は酷く煩わしい。生来朝は弱い。本当、誰かあの機械を止めてくれ。そんな後先を考えない、浅はかな考えがつい出てきてしまう。……脳のパフォーマンスが著しく落ちる朝なので、安直な思考に陥ってしまうのはいくらか仕方がない。仮に何か非科学的な力が働いたとして、その謎の力があの機械を止めてしまったとしても、俺は結局別の要因で目を覚ましてしまうというのに。
「…………」
それだけは避けたい。勿論俺には空調機のリモコンを遠隔操作するような超能力は備わってはいないし、残念ながらそういった怪奇現象や超常現象に遭遇した試しもない。なので室内の温度が我慢ならない程に上がる事は、決して有り得ないのである。
少しだけ目を開けて枕元のデジタル時計を確認する。数字を見てため息をつきたくなる。この瞬間が本当に嫌いだ。猶予なんてねーよと、小さく無機質な機械は現実を突き付けてくる。まあ、何にせよだ。時間的にも、二度寝をする事は叶いそうにない。最も恐ろしい、第三の敵がそろそろやってくる。
とんとんと、誰かが階段を上がってくる音。心なしか足音が大きく、その心中を如実に表しているように思えて、朝から胃が痛い。
布団を出来る限り丁寧にたたむ。空調機のリモコンを手にとって設定温度を二十五度から二十七度へ。目を何度か擦って数回瞬き。そしてそのまま済ました顔でドアへと向かう。
扉の前までやってきてドアノブに手をかけようとした瞬間、扉が勢い良く開く。次いで、手、つま先にそれなりに鋭い痛みが走り、後ろによろめいてしまう。
「七時半には降りてきなさいって、言ってるでしょうが! 」
ツリ目の女が怒鳴り込んで来る。それは果たして必要なのか、必要だとしたら何なのか、武器なのか。片手には大きなフライパンが握られていた。
「……って、何してるの」
唖然としてしまう。今この女は、手とつま先を押さえて蹲っている弟に向かって、心底意味がわからないと疑問符を投げかけている。信じられない。極めて鈍感なのか、それともただの馬鹿力なのか、自分のしでかした事をわかっていないなんてどうかしている。
「…………?何よ?」
ドアと、手と、つま先。最後にツリ目の女――――姉を指さす。そこまでしてようやく、彼女はばつの悪い顔になってくれる。
「え、ぶつかった……? ごめん、怪我してない……? 」
形勢が逆転して、したり顔をしようと思ったらこれである。予想外に心配されてしまって今度はこちらのばつが悪い。思えば、姉は幼い頃から誰かの怪我や体調不良には敏感だった。少なからずこちらにも落ち度はある訳で、大丈夫である事をアピールする為に立ち上がる。
「まだ少し痺れてるけど平気だよ。次からはもう少し優しく開けてくれ。あと、おはよう」
姉はわたわたした態度を一変させ、ほっと息をついて苦笑いした。姉である岸本茜はこの通り、不器用だが真っ直ぐな人間なのだ。
「ん、おはよう。いや、ごめんごめん。昨日も降りて来なかったからつい力が入っちゃったみたいでさ」
そう言われてしまうと分が悪い。というかほとんど俺が悪い。自覚はあるし反省はしているものの、ややこしくなる前にこの話は切り上げるとしよう。
「今日の朝食は何?」
などと口にして、首を傾げてしまう。ドラマ等、創作物であれば何の違和感もない台詞が、何故か自分が言うと酷く気持ちが悪い。それは目の前の姉も同じようで、口を半開きにして面白い顔をしていた。
「えっと、本当に大丈夫?何か、すごい不気味なんだけど」
おおよそ同じ感想を抱いていたようだが、些かその言い回しにはショックを受ける。
「大体同じ事は思っていたようで結構。……自分で言っておいて何だけど。さすがに不気味って言葉選びはどうかと思う」
じーっと抗議のつもりで視線を送っていると、本日二度目のばつの悪そうな顔。
「いや、ごめん。つい正直な感想が出ちゃった」
この人、謝る気はあるのだろうか。
「あ、いや悪気はないんだって。だって普段そんな事聞かないじゃない? あ、今日は納豆にじゃがいもの味噌汁、だし巻き卵に漬けマグロ。あと申し訳程度の野菜成分である、ほうれん草のおひたし」
誤魔化すように、姉は豪勢なメニューで捲し立てる。それはもう不器用な笑顔で。最後に、好きでしょ納豆、と付け加えて。
「好きだけど」
上手く丸め込まれたような気がしないでもないが、元を正せば妙に話を脱線させたのは俺だ。で、あるからして、色々と精神的ダメージは受けているわけだが、うだうだと文句を言う権利はない。
「じゃ、下に行って食べましょう。私は食べたらすぐ出るから、いつも通り皿洗い、その他片付けお願いね。あ、あとカーテンぐらい開けなさい」
光の差し込まない窓を指差して、姉は一足先に部屋を出て行く。その姿を横目で追いつつ、窓へと向かった。
カーテンを開けると強い光が差し込み、一瞬目が眩む。所謂気持ちの良い朝というやつなのだろうが、俺にはいまいちそれがわからない。これは物心ついた頃からなので、そういう性分なのだろう。
窓から離れて部屋を出ようとする。ドアノブに手をかける直前、妙な夢の事が頭をちらついた。鮮明であった筈のそれは、しかしまるで思い出せない。歯に挟まって取り出せない異物のように、意識の中に見え隠れしては気分を害す。もやもやとして気持ちが悪い。まあなんだ。思い出せないのなら、さっさと忘れてしまうとしよう。
夏という季節はあまり好きではない。というか、はっきり言うと嫌いだ。強い日差しに高い気温、ねばつくような湿気にはどういう理屈でそうなるんだと文句を言いたくなる。例によって、本日の不快指数もこれでもかという程高かった。本当、毎日更新しているんじゃないかと疑ってしまう。実際には昨日より気温は低いのだが、体感している身からしたら知ったこっちゃない。
ふと、何か小さな鳴き声が聞こえて、地面に目を向ける。そこには一匹の蝉がいた。ぴくりとも動かない状態で、微かに残っているであろう生命力を絞って小さく鳴き声を上げている。――吐き気を催す。昔からこうなのだ。俺は生き物の死を連想すると、途端に気分が悪くなってしまう。
夏には、良い思い出もない。父が事故で死んだのも、母が病気で息を引き取ったのも、どういったわけか、茹だるような暑さの日だった。
父の時は唐突だった。車での事故だったらしい。まだ幼かった子供は、父親の死を聞いても目を丸くするだけだった。恐らく、文字通り死というものがよくわかっていなかったのだ。無理もないと思う。まだあの時は小学校にすら通ってなかったのだから。
三日程経っても、父は一向に帰って来ない。夜まで玄関扉の前で待っていても、誰も帰って来る事はない。首を傾げて、傾げ続けて。また三日程経ってようやく、小さな子供は人の死というものを理解して、姉と同じように正しく泣いたのだ。
母の時は、いくらか猶予があった。病が見つかった時にはもう手遅れだったが、まだ数ヶ月の時間が残されていた。長くはない時間ではあったが、すぐに過ぎてしまう程のものでもなかった。
それが父に比べて幸運だったかというと、俺にとってはそうではなかったように思う。
まだ母は死なない。それ自体は喜ばしい事だ。まだ幾らか一緒にいられて、父のようにふっと居なくなってしまう事はない。
けれど近い未来、母は必ず死ぬのだ。当時の医学では手の打ちようがない病で、死に至る。猶予が残されていようと、その先には確実な死が在った。
時間は残されている。まだ傍に居てくれる。けれどそれが恵まれているとは、自分本意な俺には到底思えなかった。
父と同じように、いずれ母も家から居なくなる。死の期限が迫る度に、母の死を幻視する。死ぬのは母なのに、辛いのは母さんなのに。まだガキだった俺には、それが耐えられなかった。
塞ぎ込んでいく親不孝者とは違って、姉は前向きに動き出していた。元々気丈な性格だった姉は、きっと覚悟を決めたのだと思う。母が入院した後、決まっていた大学への進学を辞退した。その数日後には、今の職場から内定を貰った。今思えば、凄まじい行動力だったと思う。子供から大人への階段を、姉は一足飛びで通過していったのだ。
一方で、姉の心に欠片も揺らぎがなかったかと言えば、そうではないように思う。
「家を引き払ってウチに来い」と言ってくれた叔父の誘いを丁重に断った。現実的に考えれば姉弟二人での生活には苦しいものがあっただろう。けれど姉は頑なにこの家から出ようとしなかった。きっと、これは直接聞いた訳ではないのだが。姉は姉でこの家に、両親に、そう行動させる程の未練があったのだと思う。
『私はここに住み続ける。あんたは、どうする? 』
きっとした目つきで、姉は言った。いつもの気丈な態度、相手が些か物怖じしてしまう程の、率直な物言い。けれどその顔は何故か、今にも泣き出してしまいそうに、見えたのだ。答えなんてほとんど決まっていたけれど、その顔を見て、姉への返答はより強固なものになった。
不思議なもので、酷く塞ぎ込んでいたというのに、時間の経過と共に心の傷は癒えていく。姉とは喧嘩も散々したし、ぎこちないながらもお互いに助け合った。両親の事を思い出して泣く事もあれば、馬鹿みたいに笑い合っていた事もあった。今の生活は姉の精一杯の頑張りと、俺のちっぽけな助力の上に成り立っている。今は、まあ二人でそれなりに楽しくやっているという事だ。
唐突に空から強い日差しが差し込んで、視界が一瞬真っ白になる。
茹だるような暑さに、つい昔の事を思い出してしまった。本当に夏というのは嫌いだ。人の死も、出来ればもう二度と見たくない。
暗い考えを振り払うように、少しだけ顔を上げてみる。そんな事で気が紛れるとは思えなかったが、意外な事に、その暗いイメージは一瞬で消え去った。
暗雲を一息で吹き払う程の強烈な印象。記憶の更新。それを成したのは、制服を着た一人の少女だった。
制服には見覚えがある。同じ市内にある学校のものだ。その光景は普段から目にする。
では何故そんな日常の光景に心を洗われたのか。はっきりと言える理由はない。というより心当たりがない。普段通りの日常、別段珍しくもない他校の少女。その光景がここまで衝撃的だったのは、一体何故なのか。
かろうじて浮かんでくる心当たりと言えば、少女が美人である事。恐らく同世代の男子であれば、彼女と街中ですれ違った際、振り返りたくなる衝動に駆られるのではないだろうか。姉以外の異性にはほぼほぼ縁がない男から見ても、彼女は魅力的だ。
しかしそれだけが理由ではないように、思う。というかそうなのだとしたら、女性に縁がない故に偶然目に入った美人な彼女につい惹かれてしまったという、何だか口外し難い理由になる。それはそれで健全な男子高校生として真っ当だと思うのだが、認めるのはやぶさかである。
けれど彼女に対して特別なものを感じるのは、そういった、異性への関心とは別の所。いつだったのか、どこだったのか。はっきりとは思い出せない。けれど確かに、俺は彼女を見た事がある。
「……だから何だって言うんだ」
一人落ち着いた結論に、何だそりゃ、とごちる。見た事があるって、そりゃそうだろう。同じ市内の人間なのだ。この街に住んで十六年。顔を合わせる機会なんて幾らでもあるだろうに。
気付けば彼女の姿はない。こんな事をどれだけ考え込んでいたというのか。馬鹿馬鹿しい。呆れてため息が出てしまう。
意味もなく天を仰ぐ。真夏の日光は容赦なく眼球をじりじりと焼いてくる。すぐに目を開けていられなくなって、無意味な行動をとった事にまたため息をついた。
きっと何もかもこの暑さのせいだ。猛暑というのは人のあらゆる機能に負荷をかけ、あまつさえ異常をもきたす。だから何もかんもこの気象のせいなのだ。きっと。
何度でも言ってやる。本当に、夏は嫌いだ。
人間誰しも、一度は自分の立ち位置というものを考えるのではないだろうか。よっぽどおおらかで他人の目を気にしないような人物であるのならともかくとして、大抵の人間は客観的な自分の評価というものを考える筈だ。外聞、体裁。前述したように例外はあるだろうが、そういったものを気にし、考え、その上で自分という人間はどう立ち回るか、どう行動するかを決める。中には繊細過ぎるが故にそんな形のないものに囚われ、自分というものを無くしてしまう者もいる。
冷静に自分を分析した場合、俺は前者でも後者でもない。特定の事を除いて、普通の、つまらない、可もなく不可もない人物像。よって、友達があまりいないからといって極端に精神的なダメージを受ける事はない。かといってその事実を直視する事も出来ないのだが。
何故友人が少ないのか。恐らく原因は件の特定の事。どうにも自分の受け答えは機械的、なのだそうだ。友人曰く、初めて会った時ロボットと話しているようだった、と。もっとわかりやすく言えば、顔に感情が出ない。自分ではそんなつもりはないのだが、何故か感情の変化が乏しいらしい。
その謎の持病は、過去に何度か小さいトラブルを招いた。どれも友人の助けが入り事無きを得たのだが、迷惑はかかるし自分ではどうしようもないしでそれなりにストレスを感じていた。
治せるものなら治してしまいたい。そう言うと、信頼出来る友人達も賛成し、さあ表情を作る練習をしようという事になった。なんともまあ、言葉にしてしまうと随分おかしな話だ。
『冗談でしょ』
二時間後。友人の一人は頭を抱えてそう言い、それが失言であった事に気付いてすぐに謝罪した。俺も頭を抱えたい気分だったのだが、それよりも表情筋の使い過ぎによる痛みの方が気にかかってしまった。彼ら曰く、二時間の訓練によってある程度進歩はしたらしい。けれど皆一様に揃って
『今までのままの方がいい』
と言うのだった。訳がわからないと首を傾げても良かったのだが、生憎そこまで察しが悪い訳ではない。落胆する俺に、彼らは一生をかけてフォローをすると頭を下げるのだった。なんて素晴らしい友人達だろうとその時は思ったのだが、その場のノリだった気がしないでもない。
実際彼ら三人の内二人は別の高校に進学した訳で、わずか三年で約束は反故にされてしまった事になる。無論、そんな重過ぎる約束に期待などこれっぽっちもしてなかったので、何とも思ってはいないのだが。
「おはよう」
一方で、律儀に同じ高校に進学したのが、席に着いた瞬間どこか勝ち誇った笑顔で挨拶してくる、目の前の生徒だった。いやまあ、約束を守った訳ではなく、単に家が近かったからなのだが。
「おう」
小柄な体に、くりくりとした大きな目。付き合いはそろそろ十年に到達するだろうか。
「おう、とはなんだ。十年来の友人だからって挨拶を蔑ろにしていい訳じゃないぞ。ちゃんと挨拶をしろ。毎朝あか姉にもそんなぞんざいな挨拶をしてるのか」
もう十年経っていたらしい。相変わらず細かい奴。姉には絞られかねないのできっちり挨拶をしている事も、近所の幼馴染には平然と見抜かれていた。
「はいはい、おはようおはよう。七面倒臭い奴だな」
ひらひらと手を振りながら正直な感想を述べると、ぽかっと。頭をぐーで殴られた。痛みはまるでない。
「……憎たらしい口を利かれたからって暴力に訴えかけるのは良くないんじゃないか、委員長」
言われた委員長はと言うと、悪びれた様子もなくふんぞり返っている。その小柄な体と童顔も相まって、どこか生意気な小学生を連想させる。
「別にいいだろう。前に私のは蚊に刺されるよりダメージがないって言ってただろ。ならこれは暴力の内に入らない。これは暴力ではないが、一種の訴えなんだ。あか姉にそんな口を利けば同じ事をされるだろ?お前は今それだけの事をしたんだぞって、教えてやったんだ」
次から次へと、それっぽい屁理屈をのたまう。確かに羽虫でもぶつかったのかというくらいの衝撃であったし、通勤電車の中で苦い顔をしているであろう姉にそんな口を利けば、渾身の力で引っ叩かれた後、晩飯を抜かれる。
「納得したか? 」
小さなクラス委員長はというと、何故か不敵な笑みを浮かべている。無茶苦茶な事は言っているが、何も言い返せない。この友人には身長はもう随分差をつけたというのに、口では一向に勝てそうにない。
「じゃあな、そういう事で」
そう言って、小柄な友人は規則ギリギリの丈のスカートを翻し、満足げに自分の席へと戻っていく。そういう事って、どういう事だ。また私の勝ちとでも言いたいのか。
小柄な委員長の名前は中島とう子。俺には姉以外縁深い異性の知り合いなどいない。決して、俺はあれを女だとは認めない。
幼い頃からの男口調に、可愛い気のない態度。真実として、俺は姉以外の異性に縁などない。そうだとしたら女性の知り合い0という悲しい事実に直面する訳なのだが、あれを女と認めるよりかはいくらかましだ。
もっとも、正義感の塊のようなとう子の口八丁には随分助けられた訳で、感謝はしきれない程にしてる。面と向かって礼を言うのはどうにも気恥ずかしくて、きちんと感謝の念を伝えた事はない。いつも素っ気なく礼を言って、とう子は不満そうにする事もなく、得意気に笑うのだ。
席に座っているとう子を見る。すると向こうもこちらを見ていた。とう子はまた得意げに笑って、机の上を指差して何かジェスチャーをするような動きをする。どうやら、HRが始まるから携帯電話をしまえ、という事らしい。釈然としないものを感じながらも、時間を確認する。確かに、そろそろざわついている教室が静かになる頃だ。
流し目で笑っているとう子に、余計なお世話だと手を振っておく。すると彼女はまた得意げに笑って前を向くのだった。当分この立場は逆転しそうにないが、いつか必ず見返してやる。
本日の学校生活も何の問題もなく、何の面白みもなく、それはもうこれ以上ない位つつがなく終わった。まあ、友達の少ない高校生の一日なんてこんなものだ。つまらない日常に変化と刺激を求めるような若者ならば飽いてしまうのだろうが、幸いな事に俺は心底つまらない人間だ。キャンパスに少しずつ絵の具を塗り足していくような日々に、何の不満もありはしない。
「帰り道、気をつけろよ。最近は危ないらしいからな」
教室を出ようとした瞬間、背後からそんな声が聞こえる。女の、男口調。誰の声であるかなんて言うまでもない。しかし、危ないとはどういう事か。何か通り魔的な事件でも起きたのだろうか。
振り返って詳しく聞こうとして、やめた。とう子はもう他の友人と談笑していて、とても入っていけるような雰囲気ではない。全く、社交的な奴め。まあ、そういった話を一日の終りになって初めて聞く辺り、そこまで身近な話でもないのかもしれない。
帰って携帯電話でも使って、調べるとしよう。人類の進歩は目覚ましく、これ一台で大抵の事は知れてしまえるようになった。他に手近な情報源で、テレビでもつければそれらしいニュースは見つかるのだろうが、生憎うちのテレビは二日前にお釈迦になった。理由は知らない。ただ姉が酔って帰った翌日の出来事だった。事情を尋ねても頑なに口を割らず、ただ「ごめん」と言うだけ。主に姉の収入で生活している身としては、訝る気持ちはあれど責める権利はないので、特に何も言わなかった。
自然と足が速くなる。今日はバイトもない。真っ直ぐ家に帰るだけだ。家に着いたら通り魔事件を調べる前に、洗濯物を取り込まないといけない。
いつもの道を歩いて、帰路につく。少しして、そこへやってきた。
いつも通りの帰り道。普段と変わらない光景。俺はそこで、彼女を見た。正体不明の印象深さを持つ他校の少女。果たして、俺は何故あそこまで彼女に関心をもったのだろうか。
意味もなく、彼女を見かけた場所に目を向けた。車通りが多い訳でもないのに、何故か作られた歩道橋。そこを、彼女は長い髪をなびかせ歩いていた。
「あ」
つい、間抜けな声が出てしまう。でも無理もないと思う。どういった偶然か。今朝と同じように、彼女は歩道橋の上を歩いていた。
朝とは逆の方向に、表情はいくらか暗く。前と同じように俺は彼女を不躾に見上げて――――何か、酷く不吉な光景を思い出した。
それは、今朝見た夢だった。いくつかの不明瞭な画像。そのうちの二つが、忘れていた光景が、唐突に蘇る。
一つは、夕方の教室で微笑み合う二人の少女。一人は目の前を歩いている少女だ。その光景には不穏な気配など欠片も感じられない。むしろこれ以上ないくらいに和やかなものだった。
不吉なのはもう一つの方。それは血溜まりに横たわる、二人の少女。
暗がりで場所はよくわからないが、恐らくアーケード街のどこか。幻影の中で横たわっている少女達は、現実で目の前にいる少女と同じ制服を着ている。流れている血の量は吐き気を催す程で、匂いなんて感じない筈なのに、異臭が漂ってくる錯覚に襲われる。白い顔は血まみれで、瞳孔の開いた目だけが異様に映えていた。状況から見て、恐らく少女達の心臓はもう止まっている。そう。その幻は、殺人事件の現場そのものだった。
酷く気分の悪くなる夢。俺は今朝、確かにこの夢を見た。不明瞭で、けれどどこか現実感のある夢。
それらは不思議なものだったが、ただの夢だ。いつも見る無意味な夢と同じで、取るに足らない幻想だ。
「……馬鹿馬鹿しい」
だというのに、何故こんなにも後ろ髪を引かれるのか。理解出来ない。しかし理由は何となくわかる。それは直感的なもので、これまた馬鹿馬鹿しい。これはただの夢ではないという、何か確信めいた感覚。……訳がわからない。これが第六感というやつなのだろうか。
「…………」
無益な考えを中断して少女の方を見る。暗い顔をしていた彼女はもういない。
額に浮いた汗を手の甲で拭って、止まっていた足を動かす。妙にリアルだろうが、不可思議な直感が働こうが関係はない。あれはただの夢だ。あんな非現実的な事、過去に起きた事も、これから先起きる事もない。
家の前に着くと、何か違和感を覚える。いつもは枯れ落ちた葉っぱなどが散らばっている家の前が、何だか妙に綺麗だった。それとベランダに干してあった洗濯物が片っ端から無くなっている。心当たりはすぐにつく。珍しいが、今までもなかった事ではない。試しに郵便ポストに手を突っ込んでみると、やっぱり空だった。
鍵を開けて玄関扉を開ける。すると案の定、玄関には普段この時間にはない靴があった。黒のシンプルな、ビジネスパンプスだ。
何も聞いていなかったはずなんだけどなと、首を傾げつつ廊下を歩いてリビングに向かう。リビングからはやっぱり人の気配がして、ついでに何かがさがさと物音がする。
リビングに入ると、しかしその姿は見当たらない。……いや、いた。見慣れない黒い機械の影から下半身が生えている。その下半身はもぞもぞと動いていて、恐らく黒い機械の向こうで何事かと格闘しているのだろう。
「ただいま。何それ、もう買ったの? 」
冷蔵庫に向かいながらそう聞くと、下半身はびくっと動いた後、ゆっくりと後退する。そして黒い機械――――見慣れないテレビの影から、スーツを着た姉が姿を現すのだった。
「ん、もう帰る時間か。おかえり。いや、テレビのない生活って、思った以上に苦痛でねぇ。あんたもそう思うでしょ? 」
どうだろう。苦痛という訳でもないのだが、確かにテレビ音がない居間というのは些か寂しくはある。もっとも、リビングにいる間は大体姉が何か喋っているので、飯時も暇はしないのだが。
コップを二つ出して、麦茶を注ぐ。片方に口をつけぐびぐびと飲みながら、新しいテレビの方へ向かう。
「ん、よい心がけだ。ありがとう」
偉そうに礼を言って、姉は麦茶を受け取る。
「それで、新しいテレビはどんな具合? 」
ピカピカのテレビをまじまじと見つめる。新品を前にする、というのはいくつになっても心が躍る。以前のもそこそこ大きかったが、今回のはそれよりも少し大きい。反省からか、少し奮発したのだろうか。せっかくなので今度レンタルビデオ店で映画でも借りてこよう。人死にの出ないポップなアクション映画がいい。ミステリーものは当分見る事はないだろう。
「お願い」
新しいテレビはどれ程の物なのかを尋ねたというのに、何故かお願いが返ってくる。それも頭を下げて。どういう事かと首を傾げかけて、ああそういう事かと納得する。
「いいけど。いい加減、これくらい出来るようになった方がいい」
てっきり失念していたがそうだった。家事、仕事、人間関係。基本的に能力の高い我が姉なのだが、どういったわけか昔から驚く程の機械音痴なのだった。それも化石レベルの音痴っぷりだ。自虐で言ったつもりがまさかそんな馬鹿なと冗談ととられ、最終的に苦笑いをされるというのは、果たして笑い話になるのだろうか。に、してもだ。本当に、いい加減これ位は出来るようになってもらいたい。コードを繋げるだけなのにそれすらも出来ないという。
「面目ない」
手を合わせて頭を下げる姉に、いつもの威厳はこれっぽっちもない。……一体どういった突然変異でそこだけ劣ってしまったのか。人類皆平等、天は二物を与えずとまでいかなくとも、何だかんだ神様は色々と考えてるのかもしれない。
「一応、後学の為に見ておく? 」
あまり期待は出来ないが、今後の事を考えればそうした方がいい。こんな姉でもいつかはどこかに嫁ぐのだ。もっとも、嫁入り先でテレビを繋ぐ事があるか、仮にそんな事があったとして出来なくとも果たして問題はあるのか、疑問ではあるのだが。
「ん……一応」
真剣な表情で返答して、ずいとこちらに寄ってくる。顔はじっとテレビの背面に向けられていてぴくりとも動かない。少し暑苦しいが、我慢する。向上心の塊のような人間だ。あんな聞き方をすれば、自然とこうなる。
改めてテレビの背面を観察して、さてどれだけつながってるのかと確認する。どういう事だろう。繋ぐコードは三本程の筈なのに、一本たりとも繋がっていない。
「何か、間違えたら壊しちゃいそうでさ」
黙っている俺の心中を察したのか、そんな言い訳を始める。何故そこまで繊細になるのか俺にはてんで理解出来ないのだが、姉は冗談で言ってる訳ではない。
「同じ形のを繋げばいいだけなのに……」
惜しむらくは、今朝その繊細さを発揮して欲しかった。事故なので仕方ない事なのだが、足の指にはまだ微かに鈍痛が残っている。
床に膝をついてコードを繋いでいく。なんて事はない。ものの数十秒で接続は完了した。
「出来た」
「はや」
勿論早くはない。これが並だという感覚を、姉にはわかってもらった方がいいのだろうか。いや、やめよう。何だか無駄に時間を浪費する気がする。
「電源点けてみて」
「あいよ」
姉は調子よく返事をして、テレビの電源を付ける。数秒して、ニュースの音声らしきものが聞こえてくる。
「さすが我が弟」
満足気に何か言っていたが、あえて返事はしなかった。
よっこらせと立ち上がり、さて新しいテレビの映り具合はどんなものかと、正面へ移動する。
「――――で、遺体が発見されました」
画面の中では、アナウンサーが何か物騒な事を言っていた。
「これって、ここの近くじゃない」
確かに姉の言う通り、遺体が発見された場所はうちからも近い。この家から少し離れた場所にあるとう子の家からであれば、徒歩数分程で着く場所だった。
「学生証などから、遺体は西ケ谷高校二年生、播磨里美さんと見られ、死因は何者かに首を切りつけられた事による失血死だとの事です。警察では、殺人事件として捜査を進める方針です」
西ケ谷高校。その高校は、同じ市内の学校だ。その高校は、彼女の学校だ。
「どんな時代でも、どんな場所でも、こういう事件って起きるもんなのねぇ」
姉は深刻な表情をしていた。当然か。自分が住んでいる街で、高校生が殺されたのだ。それが人間として、真っ当な反応だろう。
けれど俺は、姉と違った反応をせざるを得なかった。勿論姉と同じで、凄惨な事件にショックは受けている。しかしそれとは別の所。別の事柄が、気になって仕方がない。
それは例えば、死んだのは歩道橋を歩いていた彼女だったのかとか。
それは例えば、あの夢は幻ではなく現実だったのかとか。
それは例えば、あの時彼女を追って何かしら行動を起こしていれば、こうはならなかったのではないかとか。
頭はぐるぐると回って、しかしその考えは取り留めもない。疑問はわき続け、そこから生じる不安は消える事はなく、少しずつ大きくなっていく。
「……ちょっと、どうしたの? 黙り込んじゃって。……もしかして知り合いだった? 」
一人黙って考え込んでいると、姉が心配して声をかけてきた。……今考えても仕方のない事だ。
「いや。多分、知らない」
それに例え死んだのが彼女だったとしても、赤の他人だ。人並みの哀れみは覚えるが、それ以上気にかける道理はない。
そう思うと同時に、俺の中では一つの疑問が湧くのだった。
播磨美里という女性徒はもう死んでしまった。けれど、どうだろう。もし俺があの夢を現実と捉えていたなら。現実として受け入れ、未然にこの事件を防ごうと何かしらの形で働きかけていたら。その結果、彼女が助かっていたとしたら。果たしてそこに、責任はないと言えるのだろうか。
そこまで考えるが、それが現実的ではない事に気付く。仮に行動を起こした所で、高校生一人に何が出来たというのか。通報しようにも、人が死ぬ夢を見ました、じゃ取り合ってくれる筈もない。……結末は、きっと変わらなかった。
「……ねぇ、大丈夫? 」
姉の、二度目の心配する声で我に返る。姉は深刻そうな表情でこちらを見ていた。今は、考えるのはよそう。どのみち、考えた所で結論の出る事ではない。
「ああ、ごめん。少し、ぼうっとしてた」
穏やかに言ったつもりだが、上手く言えたかはわからない。それ程に、俺の心はざわついていた。
「ふうん……最近変に暑いから、夏バテとか気をつけなさいよ?……さて。無事テレビも設置出来た事だし、私はそろそろ夕飯を作ろうと思うんだけど、手伝ってくれない? 」
ニッコリと笑いながらされるその提案には、勿論拒否権はない。