お姉ちゃんと呼んでほしい
誰もが沈黙していた。
父も母も使用人たちも、その場に居た全員が何を言うことも出来ずに黙していて、歓迎している様子の欠片もないその空気に、目の前の少女もまた何も言わなかった。
子どもながらに、彼等にとっては自分は邪魔者であるということを理解していたのだろう。抱えるほどに大きな兎のぬいぐるみを両腕に、少女は所在なさ気に立ち尽くしていた。
父の行動はあまりにも勝手だった。
わたしは母のことが大好きで、浮気は男の甲斐性というし愛人の一人や二人いてもおかしくない人であることは理解していたのだけれど、唐突に愛人との間に生まれた娘を連れてくるなんて、旦那としてどうなのだろうかと思った。
わたしは正直、少女に対して良い感情を持ってはいなかった。
母親に先立たれ、誰も引き取り手が居なかったのだという可哀想な子だと聞かされてはいたけれど、同じく子どもであるわたしにとって彼女は母親を傷つける嫌なものであるように捉えていた。
だけど。
けれどこれは、少し違うように感じる。
わたしの母は当然だとしても、父は、使用人たちは、少しくらいは歓迎する姿勢を向けたって良いと思う。
だって彼女はわたしたちの家族になるんでしょう? 仲良くなるとかそういうものは置いておいても、身内として、一員として受け入れるのでしょう?
使用人はわたしたちの一族に仕えることが仕事のはずだ。なのに何で一歩も動こうとせずに、彼女に冷たい視線を送るのだろう。侮蔑したような目を向けるのだろう。
父よ、彼女はあなたのせいで産まれて、受け入れることになったあなたの子どもでしょう? あなたの血が流れた、あなたの娘でしょう?
なんで。なんで、なんで、どうして?
誰も彼女を助けようとしない。
誰も彼女に味方しない。
誰も彼女を受け入れようとしない。
……そんなの、おかしいよ。
「はじめまして、詩織ちゃん」
彼女に向かって足を踏み出したことに母が目を見開き、わたしがそう言って彼女に微笑んだのを、信じられないというように父と使用人が見た。
御樹本家の本家筋である我が家には、わたし以外の子どもはいない。このまま行けばわたしが一族を継いで当主になるのだろう、そのせいかわたしに掛けられる期待は相当なものだ。わたしはその期待には応えられないというのに、こうして挙動の一つ一つが監視される。
次期当主として相応しい行動を、と告げられたのは、彼女に関わるなと言外に含まれていたに違いない。それに逆らうわたしが珍しいこともあって、彼等は驚いたのだろう。
彼女は話しかけたわたしのことをじっと見つめて、「いいの?」と微かに呟いた。それに笑みを深めて、わたしは首を傾ける。
「何が? わたしはわたしの妹に話しかけているだけよ?」
何が咎められるのかわからない、というように告げれば、一瞬少女は呆気に取られたように数回瞬きををして、ほんの小さく微笑んだ。
「わたしは和泉。お姉ちゃん、って呼んでね」
昔から、私は既視感を感じることが多かった。
知り得ない情報であるはずなのに、知っているような気がすることがあって、一部の景色にもどこか見覚えがあるような気がした。
小中高一貫の学園に入学して、友人や知り合いが増えたけれど、ふとしたときに幼さの消えた成長した姿の彼らが脳裏に浮かぶこともあって、どうにも自分は気がおかしいのではないだろうかと首をひねった。
彼女に出会ったのは、私がまだ小等部低学年であった八歳の時。
一つ歳下の詩織は私よりずっと幼く見えて、けれど感情を殺したように無表情だった。
そんな所も、きっと母の気に入らない所だったのだろう。けれどそれは決して感情が無いとか、そういうわけではなくて、ただただ詩織は感情表現が苦手なだけだった。
沈黙が嫌で、私から話しかけたあの日。ぎこちなくも薄っすらと微笑んだ彼女に、父が一番驚いたらしい。父の前では一度も表情を変えたことが無いという詩織は、きっと不器用な父に似ているのだろう。
そして私といえば、動揺した。
はじめて見たような気がしない妹の微かな笑顔。今まで感じていた既視感。それらが繋がって、私を悩ませてきた妙な感覚の原因に気づいてしまった。
私には前世があった。
実際は誰にだって前世があって、思い出しているのかそうでないかの違いなのかもしれないが、取り敢えず私には、前世というものの記憶があった。
前世の私は三十代にも突入せずに無くなった、極普通のフリーターであった。
時間を取られる就職をせず、ある程度時間の融通がきくバイトをして、実家から出ることもなく趣味に没頭していた女。
結婚適齢期も過ぎて親からは結婚をせっつかれていはいたが、乙女ゲームという二次元の男性を理想としていた典型的なダメ女が結婚出来るはずもなく、そのまま売れ残る予定であった所を事故に遭い、こうして転生をした次第である。
前世を思い出したからどう、というわけでもないのだが、思い出して私は愕然とした。
この世界は、私がやっていた乙女ゲームの世界であった。
本来は疎まれて育つ筈であった私の腹違いの妹は、その乙女ゲームでは敵役でありライバルキャラでもある悪役令嬢だったのである。
御樹本詩織。
愛人との間に生まれた子であったがために疎まれて育ち、婚約者に執着する悪役令嬢。どの登場場面でも表情が変わらないため冷酷だと言われていたが、彼女との友情ルートに突入すると不遇な背景と感情表現の不器用さが明かされる少女。
友情ルートを攻略し終えた暁には、不器用ながらも微笑む彼女のイラストがあって、同性の母性までをも貫いたなかなかの強キャラ。
たらり、と冷や汗が流れるような感覚があった。
このままでは、詩織は父の手によって攻略対象との婚約を結ばされるのである。それどころか婚約破棄まで起こってしまう。
私のせいで多少は家族仲が良好になったとはいえ、それが一体どこまでゲームに影響を及ぼしてくれるだろうか。
ヒロイン次第で運命が振り回されてしまう私の可哀想な妹。
今は力を貯めるべきだ、と私は判断した。
家の中での力、人に及ぼす力、学園での力。どんな理不尽が詩織を襲っても私が守ってあげられるような大きな何か。
私の、可愛いかわいい妹のために。私は使える時間を全て注いで尽力しよう。
それがきっと彼女の、ひいては家族の幸せに繋がるように。
「――――いず、みちゃん…?」
「心配しないで、詩織」
表情こそ動かないけれど、頬を伝う涙を手で拭ってやりながら私は目を細めた。
信じられない、というように状況が理解できていないらしい詩織は、ここにいるのが本当に私であると理解するなり、拭った後からぽろぽろ、ぽろぽろと止めどなく涙を流す。
「ごめっ…ごめんなさい、いずみちゃん……わたし、耀様に嫌われちゃっ…」
父が詩織に結ばせた婚約は、家の繋がりによって会社の支援をしてもらう為であった。
御樹本家よりも格が上であった櫛名田家との繋がり。けれどそこの次期当主である耀がゲームのヒロインである少女に惚れたことで、全ては狂った。
「……良いのよ」
未だに私を姉だとは呼んでくれない妹に内心苦笑しつつ、私は彼女を抱きしめて頭を撫でる。
彼女は頑張った。
初めて父が自分に役目を求めてくれたのだと、期待に応えられるように努力して、ここまでやってきた。それは誰にも否定出来ないし、させるつもりもない。
「大丈夫、櫛名田家との婚約は予め破棄する予定だったのだから」
「……え?」
その為に、ここまで力を貯めてきた。
学園での繋がりを強固なものとし、櫛名田家以外の名家との繋がりだって作ってきたのである。
我が一族だって、決して格下の家ではない。伊達に歴史を刻んできたわけではないのだ。そこまでやっていて、小娘一人の失敗によって家が揺らぐなんてことはあり得ない。
そんなことよりも私は、詩織があのバカ息子に恋心を抱いていなかった事のほうが意外であるくらいだ。ゲームではそうであったというのにあっさりとしているのは、やはり家庭状況が悪いとはいえない程度に収まっているからなのだろうか。
「お姉ちゃんを舐めたらダメなのよ?」
家族は最終的に全てを受け入れるものであるらしい。
兄や姉というものは、妹や弟の前を歩み、道を作ってあげるものらしい。
前世には弟も妹もない、一人っ子であった私にとって、詩織は初めての妹だ。可愛い妹の為であるならば、少しくらいやり過ぎな程に私は行動するくせが出来てしまった。ただでさえ感情の希薄な妹だ。涙を流す姿なんて、私だって滅多に見たことがない。
……そのせいだろうか、詩織をこうして泣かせた彼等を、私は簡単に許せそうにない。
「何にも心配いらないからね、詩織」
「……いずみちゃん…?」
どこか不安そうに瞳を揺らす彼女に微笑みかけながらまた涙を拭ってあげて、涙がおさまったのを確認してから手を繋いで引いてやる。
私より歩幅の小さい詩織に合わせて歩みを進めていると、いつまでも時間が掛かりそうな気がして一人苦笑した。
急に笑い出した私を不思議そうに見上げる彼女に気づいて、何でもないと告げながらも、ふと私は詩織に言う。
「詩織はどうやっても、私をお姉ちゃんて呼んでくれないわね」
何度も言ってるのに、と少し不機嫌そうにそう告げれば、どことなく焦っているような気配をさせて、恥ずかしそうに開いている方の手で口元を隠した。
薄っすらと、頬が赤く色づいているようにも見えて、思わず足を止める。
辿々しい口調ながらも彼女は言った。
「い、ずみちゃんは……えっと、その……おに、ぃちゃん…だ、から」
お姉ちゃんなんて言えないよ、と顔を真っ赤にして詩織は告げる。
いずみちゃんは格好良いから、お姉ちゃんじゃなくてやっぱりお兄ちゃん。だなんて言っていることは不思議な価値観ではあるが、詩織の言う通り生物学上的には確かに私は兄であるのだから、彼女が拘ることもまぁ、仕方のない事だと思う。
「お兄ちゃん……」
呼び慣れない言い方で私を呼んだ詩織に「なに?」と聞き返せば、嬉しそうに彼女は私の腕に抱きついた。幼いころと比べて、行動で感情を表現するようになったように思う妹は、今日もまた可愛いものだ。
本当はお姉ちゃんと呼んでほしい私ではあるが、まぁ、詩織が兄と呼びたいならば受け入れるほかない。
「…わたしね、お兄ちゃん大好きだよ」
「ふふっ、ありがとう詩織。私も詩織が大好きよ」
――――そして、そんな妹を傷つけた奴等には自分の選択を悔いてもらわないと、ね。
おねぇなシスコン(外では猫かぶっている)と不器用なブラコン(若干危なげ)のはなし、でした。
語り手おねぇだって気づいていました?
……文章力無さ過ぎて気づきましたよね、ごめんなさい。
一応語り手は、元女であった影響でそうなっているという設定です。
恋愛対象? 前世と同じですよ?
仄かに妹から香ってくる甘い香り?
…………妹の初恋は叶わないと思います。