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ひなびたこの町の唯一の観光資源は、透明度の高いうつくしい海に、粒子のこまかい白い砂浜。夏の間だけ、県内外からたくさんの海水浴客が訪れる。
また、この浜はウミガメの産卵場所でもある。マルちゃんのようにカメの研究や保護活動をしているという人も、結構来るのだ。って、マルちゃんは「なんちゃって」だけど。
おかげでシーズン中は汐見亭も大繁盛。あたしとカリンはくるくると働いた。暑さと忙しさで目がまわりそう。あたしはそれでも慣れてるからいいけど、カリンに仕事を覚えさせるのは本当に大変だった。飲みこみはいいんだけど、なんせ生まれたばっかりだから、知らないことが多すぎるんだ。定食どころか、みそ汁もごはんも初めて目にするんだもん。あまりの世間知らずっぷりに、あたしは、カリンは両親の仕事の都合で海外暮らしが長かったから日本の文化に疎いと説明した。言葉がなんとなくたどたどしいのもそれで納得してもらった。って、英語をしゃべってみてって言われたらおしまいなんだけどね。
カリンは毎日、隼人に会いたい隼人に会いたいと、あたしにせつなげに訴える。
当の隼人は時々、店にふらっと現れる。隼人の顔を見たとたんカリンの顔は日が差したみたいにぱあっと輝くんだ。ちょっとだけ、舌打ちしたい気分。
うちに来た隼人と一緒に何をするかっていうと、もちろん勉強。一応、受験生だし。
準備中の時間、店のテーブルでふたり、問題集をにらむ。そのあいだ、カリンが隼人にゴロゴロあまえるので、ちっとも集中できない。ときどき隼人はカリンの胸元をちらちら見るもんだから、そのたびにあたしは、いちいち奴のすねを蹴りあげた。
そんなある日、マルちゃんに海水浴に誘われた。なんて能天気な未来人なんだ、って思う。
「この時代の人間はずいぶん開放的だのう」
水着すがたの男女を目をほそめて見つめながら、おっさんくさく言い放つマルちゃん。ビーチパラソルの下、海水浴なのに紺色の甚平を着ている。彼の時代(二一〇〇年代だっけ?)ではみんな海水浴なんてしないのかな。海、汚染されてるとか? 埋め立てられてビーチがない、とかかな。それはわからないけど、少なくとも甚平は存在しないんだろうな。いや、あるのかな。今だって、むかしの着物や浴衣はすたれずにあるわけだし。
そんなことを考えながらかき氷をつつく。浜辺で食べるかき氷っておいしい。ブルーハワイのシロップが、きらきら青くて、きれい。
砂浜を歩く若い男子の群れがちらちらとカリンに視線を送っている。波打ち際ではしゃぐ白い妖精、カリン。カリンの水着は近所のショッピングセンターで激安でゲットした、シンプルな白のパレオつきのビキニ。露出の高い恰好なのに、相変わらず、隼人にべったり。
「きゃーっ。こわいいーっ。隼人―っ」
浮き輪をつけてぬるい波にもまれただけなのに、カリンは怖がって大声をあげる。隼人はきょろきょろとあたりを見回し、口に人差し指をあてて「しーっ」とカリンに言い聞かせている。たしかに、もしクラスメイトに見つかったら何を言われるかわからないよね。ただでさえカリンは目立つのに。
マルちゃんは焼きそばやかき氷を食べながら、あたしたちのことを見つめていた。時折、遠くを見つめて何かじっと考え込んでいる。ちょっと気になったけど、あたしは自分のことに必死でそれどころじゃない。水着の上に丈が長めのTシャツを着て、こまめに日焼けどめを塗り直し、焼けないように、目立たないように縮こまっていた。ほんとはパラソルの下に入りたいけど、得体のしれない甚平野郎とあいあい傘だなんて……、それこそクラスメイトに見つかりでもしたら、二学期から学校に行けないよ。
ほんとはあたしも。隼人のところに行きたい。小さい頃みたいに、一緒に波をかぶって遊びたい。
三年生になって急に背がのびた隼人のからだは、こんがり引き締まっている。もう引退したけど、陸上部で鍛えていたし。カリンとふたりでいるところは遠目からでも絵になる。
だけど。あたしは自分に言い聞かせる。カリンは隼人の理想の具現化なわけだけど、本気で好きなわけじゃない。この前のメッセージって、そういうことだよね? でも、それってちょっとふしぎ。好みのタイプが実際に現れても好きにならないものなのかな。それとも、隼人の心はすでに、少しずつカリンのほうへ傾いているのかな……。
「オトメゴコロは複雑ですなあ」
歯に青のりをつけたマルちゃんに言われて、あたしはむすっとふくれた。
波打ち際で、「おーい」とカリンが手を振っているのが視界に入る。カリンはまっすぐに、あたしのところへ走って来た。
「なずなっ」
はあはあと息を切らしたカリンの長い髪が濡れて、白いからだに貼りついている。カリンは、夏の太陽みたいにきらっきらの笑顔をあたしに向けた。
「これ、なずなにあげる。キレイでしょ?」
あたしの手のひらに握らされたそれは、ちいさな白い巻貝。
「ほんとに、あたしに? ありがとう」
思いがけす、こんな可愛いプレゼントをもらって。なんだか、……うれしい。
カリンは照れくさそうにわらって、なずなもおいで、とあたしの手をひいた。
「でも」
「たのしいよ! 一緒に遊ぼうよ!」
マルちゃんは「言っておいで」と笑って、あたしの背中を押した。だけどその目はわらっていない。ふうん、と意味深に漏らしたのが聞こえた。
つぎの日。
真っ白だったカリンの肌も、強い日差しをあびて赤くなった。背中には水着のあと。カリンは面白そうに、めくれた皮をむいている。
「ねえなずな。どうして肌がこんなふうになるの?」
「お日様のせいだよ。日焼けしたの」
カリンは首をかしげた。きれいな顔にクエスチョンマークがうかんでいる。こんなとき、あたしはカリンが生まれてきたふしぎを思う。彼女は未来のハイテクたまごから生まれたバイオロイドだけど、あたしたちとなにひとつ変わらない。
「ねえ、きょうはこの髪型がいい」
カリンは、やおらあたしの棚からファッション誌を取り出して、ヘア・アレンジ特集のページを開いた。
あたしは毎日カリンの髪を結ってあげている。長い髪は仕事中じゃまだし、不衛生だから。はいはいと軽くいなして、カリンの、やわらかくつややかな髪に櫛を通す。その間、カリンはうっとりと手鏡を見つめている。
「引っぱらないで。痛いよ」
「カリンが動くからでしょ? もうすぐだからじっとしてて」
たばねた髪を引っ張り上げると、左耳で何かがひかった。真珠のような、光沢のあるまるいピアス。
「どうしたの、これ」
ピアスを指でつつくと、カリンは、なんでもないの、なずなのお母さんがくれたの、と言った。どこかよそよそしいような、あわてた口ぶり。
お母さんがくれた? 穴はいつ開けたの? 奇妙に感じたけど、触れてほしくなさそうな気配を感じたから、それ以上追及するのをやめた。
「はい、できあがり」
結い上げた髪にひらひらのシュシュを巻きつけてやると、カリンは、わあっと声をあげた。ひまわみたいな笑顔がはじける。
「ありがとう、なずな! はやく隼人に見せたいな!」
あたしに抱きついて、ほっぺにくちびるを押し当ててきた。思いのほかやわらかな感触に、どぎまぎしてしまう。
「ちょっ、カリン! それ、あたしにはしていいけど、隼人にはダメだからね! 法律違反でおまわりさんに捕まるんだから!」
「やだー、なずな、赤くなってる!」
あたしを指差してけらけら笑うカリン。まったく、天真爛漫っていうか、屈託がないっていうか。
そんな風に日々は流れ、あっという間に七月が去った。
八月の最初の日の夜。隼人がごはんを食べにきて、あたしとカリンは早めに店をあがった。
三人で浜を歩く。夏の夜は明るくて、でも海は闇を飲みこんだように暗く、空にはあまたの星が散っていた。規則的に繰り返す波の音にまじって、どこか遠くでロケット花火が弾ける音が響いている。
「じゃんっ。俺も花火買ってきたしー」
隼人が得意げにスーパーのビニール袋をかかげてみせた。カリンは、きゃあっと歓声をあげ、隼人に抱きついた。まったく、すぐに抱きつくの、どうにかしてほしい。
「で、花火ってなに?」
首をかしげるカリン。
隼人はげらげらとわらって、こうするんだよ、とチャッカマンで花火に火をつける。とたんにしゅるるると音をたてて白い火花が噴き出した。カリンは言葉をうしなって魅入っている。
「火傷しないように気をつけて」
あたしはカリンに花火を持たせて、自分の花火の火をうつした。
「すごいっ。熱いっ。キレイだけどちょっと怖いよ」
きゃあきゃあはしゃぐカリン。潮のにおいと火薬のにおいと煙にまかれて、目をしばたかせながら夢中で花火を燃やした。くるくると隼人が火をまわして、その残像が闇のなかにいつまでも浮かんでいる。
「今月、花火大会があるんだよ。もっともっと大きい花火。空いっぱいに、大きな大きな花が咲くんだよ」
教えてあげたら、カリンは目を丸くした。どんなものを想像してるんだろう。
ことしの花火大会は八月二十八日。カリンが未来に帰るのはいつだろう。花火、見せてあげられるだろうか。
花火が尽きたら、湿った砂で城をつくる。カリンがいつになく真剣な目で砂を盛り固めていく。小さな頃に帰ったみたい。というか、カリンって、「小さい子」そのものだ。
「すげー集中力。っつーか、こども?」
おもむろに隼人が言った。その大きな手が砂で汚れている。あたしと同じこと考えてたみたい。
「カリンってさ。俺のこと好きになるようにプログラムされてるって言うけど、なんか、あの甘えかたって。ちっちゃい子どもが、親にまとわりつくみたいな感じじゃね?」
「……そっかな」
「ま。俺にはそんな記憶ねーからわかんないけど」
口の端をちょっとだけ上げて、自嘲気味に、笑む。いつも隼人は、そんなふうに笑ってみせる。
言わないで。そんなこと、言わないで。
「それとも世間の恋人同士って、みんなあんな感じなんかな?」
空気を変えたかったのか、いやにからりとした調子で隼人が言う。
「そんなの知らないよ」
ふいっと、顔をそらした。そりゃそーだよな、と隼人は笑う。
「経験ねーもんな。おたがい」
むかしよりずいぶん低くなった、その声に。なんだかどきどきしちゃって、あたしはひたすらに、足もとの砂をいじっていた。
夜の浜風があたしたちを揺らして、通り抜けて行く。
隼人はそのままごろりと仰向けになった。背中砂だらけになるよって注意すると、べつにいいよと隼人は答える。まだどきどきは続いていたけど、やっぱり耐えきれなくって隼人のことを見た。
綺麗な、目。隼人の目も大きくて、カリンみたいな、アーモンドのかたちをしている。吸い込まれるみたいに、まっすぐに、星の貼りついた夜空を見つめてる。きっと夜空の向こうにあるもの――とっくに遠ざかってしまった過去、両親と過ごしたわずかばかりの日々を、見つめているんだ。幼すぎて、きっと隼人の記憶の中にも存在しない、失われてしまった日々。
一度だけ、隼人に母親から手紙がきたことがある。四年生の夏。
隼人は封筒に書かれていた住所だけを頼りにお母さんをたずねて行こうとした。おばあちゃんはそれを許さなかった。だから隼人はひとりで、交通費も自分のお年玉から用意して、こっそり家を飛び出したんだ。
そして。――そして、その日の夜、隼人は帰ってきた。自分の家に帰らず、うちのお店でごはんを食べた。あたしに、おみやげ、とガラス風鈴をくれた。
「おかあさんに、会えたの……?」
あたしの問いに、隼人は首を横に振った。それ以上あたしは何も聞けなかった。
やがておばあちゃんが隼人を迎えにきて。おばあちゃんは泣きながら隼人をぶった。おばあちゃんは、お母さんから時々届いていた手紙を、こっそり捨てていたらしい。ずいぶんあとになって隼人から聞いた。
「すごい星だね」
カリンのつぶやきが耳にとどいて、あたしは現実に引き戻される。カリンはもう砂遊びには飽きたみたいで、あたしの隣におとなしく体育すわりしている。
「ねえ、あたしって、どこから来たのかな」
つぶやいたカリンの、澄んだ瞳に星くずが映って、またたいている。
「なずなにはお父さんとお母さん、いるでしょ。なずなはお母さんから生まれたでしょ。でもあたしにはいない。じゃあ、何から生まれたの?」
あたしと隼人は顔を見合わせた。
「俺にもいないぜ、両親」
隼人の皮肉めいた笑み。まただ。またいつもの強がり。
あたしはかかえた両膝の下で、湿った砂を、ぎゅっ、とつかんだ。
「空からだよ」
気づいたら、あたしはそんなことを口走っていた。。
「みんな、空から来たの。テレビで見たんだ。地球上の生命の素は、宇宙から降ってきた隕石、流れ星だって説があるの」
漆黒の夜空を見上げる。飲みこまれそうに遠く、広い宇宙。見つめていたら、自分がいまどこにいるのか、わからなくなる。
「じゃあ、あの星のどれかがお母さんで、みんな、きょうだいだね」
カリンはそう言ってあたしの手をとった。反対の手は隼人へ。そして、
「隼人となずなも」
あたしたちふたりの手をむりやりつなげる。
「恥ずかしいって。隼人と手、つなぐのなんて、保育園のとき以来だし」
あたたかくて大きな手のひらの感触。とくとくと自分の心臓が鳴る音がきこえる。顔が熱い。隼人はあたしから目をそらして何も言わない。だけど、つないだ手は離さなかった。
真夜中にふと目がさめる。月あかりが窓から入り込んでいた。ひどく蒸し暑い。
ふととなりの布団を見ると、カリンがいない。トイレかな? 水を飲みに階下に行ったのかな? とねぼけた頭で考えて、ふたたび横になろうとしたとき、とびらの向こうから、ぼそぼそと話し声がきこえてきた。
「わかんない。それ、どういうこと?……いやだよ。もうやめて。はなしかけてこないで……」
カリンの声? 誰と話してるの? 電話? そんなもの持ってないよね。じゃあ一体――
まぶたが重く、目をあけていられない。あたしはふたたび、眠りの世界へと落ちていった。
ふたたび目をさますと朝で、カリンはちゃんと隣の布団ですこやかな寝息をたてていた。
蝉の声がきこえる。ゆうべのあれは、きっと夢だったんだと思う。
だけど、この日から、カリンの様子がおかしくなった。ぼうっして、店の仕事も、ミスがふえた。勉強しにきた隼人をせつなげに見つめて、しきりにため息をつく。いつものようにべたべたとくっつかない。
「どしたの? カリン。へんだよ。まるで恋わずらいみたい」
冗談めかしてカリンのほおをひとさし指でつつくと、思いがけず真剣なまなざしで見つめ返された。
「なずな。なずなは、恋って、したことある?」
「……え?」
「おしえて。恋って、なに? ほんものの恋って、なに?」