2
「なずなの部屋、ひさしぶり。前来たの、五年生のときだったかなあ」
隼人はあたしの部屋をぐるりと見回し、小学校入学のときに買ってもらった、年季のはいった学習机に目をとめた。
「うっわ、なつかし。このシール、むかし俺が貼ったんだよなー」
「もう。やめてよ。あたし一応女子なんだし、部屋のもの、じろじろ見ないでよね」
「ってか、超ちらかってるじゃん。色気ゼロ。野郎の部屋と変わんねーよ」
「ふたりとも、今そんなこと言ってる場合じゃないだろう?」
あたしたちの間に割って入ったマルちゃんが、冷静に諌めた。
……確かに。そんな呑気なやりとりの間にも、タマゴはどっくんどっくん大きくなってて、もうすでに小型犬くらいの大きさにまで成長している。
「うーむ。思ったより成長ペースが速いな。これはもう、孵化は止められないな」
ぶつぶつつぶやくカメ研のマルちゃん。勢いで、このひとまで部屋にあげてしまった。得体のしれないあやしい大人だけど、ふたりきりってわけじゃないし、大丈夫だろう。
「恐竜の卵とかだったらいいのになあ」
冗談めかして言いながら、隼人がタマゴに手をのばして、触れた。
その途端、タマゴがぽわわん、とピンク色にひかった。ものすごい勢いでふくらんでいく。
「ちょっ、なにこれこわい」
「だめだよハヤトくん。君が触れたら……」
ぐんぐんぐんぐん大きくなって、こども、四・五歳くらいの――大きさになって、ぴたりと成長が止まった。あたしはぐっと息をのんだ。
タマゴの表面、ちょうどてっぺんのとんがりの部分が、ぴりりとひび割れる。亀裂はだんだん大きくなり、ついに、全体が割れた。割れ目から、ドライアイスのような湯気が噴き出してたちこめる。白い煙の中から、何か肌色のものが、ぬっ、と突き出た。
足だ。にんげんの、足だ。あたしは無意識に、となりにいる隼人のTシャツの裾をつかんでいた。かちかちと歯がなる。あたし、震えている。隼人は身じろぎもせずに、タマゴと、その中からあらわれた何かを見つめている。
やがて、霧が晴れるように湯気が消えた。と、そこにいたのは。
「隼人っ。み、みみみ、みちゃダメっ!」
とっさに隼人の両目を手のひらで覆う。
「おわっ。何だよいきなりっ!」
あたしの手をはがそうとする隼人。そうはさせない。これを見せたら、やばい!
ひざをかかえてうずくまる、全裸の女のひと。
そう。タマゴからうまれたのは、大人のオンナだった。濡れそぼった長い髪が、つややかな肌に張りついている。一点のしみもなく、水滴をまるくはじいて、みずみずしくかがやく肌。透きとおるように白い。しっとりと群れたくちびるは、どきっとするくらい赤い。女は閉じていた目をあけた。ぱっちりと大きなふたえのアーモンド・アイが、長いまつ毛にふちどられている。超絶美人。
女はすっと立ち上がった。一糸まとわぬ姿だ。推定Eカップのたわわな胸は、そのボリュームにもかかわらず重力に反してつんと上を向いている。折れそうに細い腰、丸くてきゅっとあがったかたちのいいおしり、すらりと長い脚。ありえない。
ぼうっと見惚れていたら、隼人が首をふってあたしの手をふりはらった。
「だめえっ! 見ないでっ!」
叫んだけど、遅かった。隼人は真っ赤になって石みたいに硬直している。
「あなたが、ハヤト……?」
女がしゃべった。やわらかなソプラノ・ボイス。コクンコクンとロボットみたいにぎこちなくうなずく隼人。
「ハヤト。よろしく。きょうからわたしは、あなたの、ツマです」
にっこりほほえんで、いきなり、隼人に抱きついた。もちろん全裸のままで。
あたしは絶句した。どういうこと? この女、いったい何をしてるの?
ぶるんぶるんの大きな両胸に顔をはさまれて、隼人は苦しそうにもがいている。あたしはわれにかえった。
「ちょっと離れなさいよ! 窒息しちゃうじゃない!」
あわてて女をひきはがすと、隼人はそのまま仰向けにひっくり返ってしまった。
「あれー。ハヤトくん鼻血出てるよ。ま、十五歳のコドモにこれはきっついよね。刺激強すぎ」
マルちゃんが呑気に言いはなつ。あたしはぶち切れてマルちゃんの襟首をつかんだ。
「ちょっとこれどーいうコトよ?」
「待って待って暴力反対。もう、孵化したもんはしょうがないんだし、開き直って次の手を考えなきゃ」
「次の手って、ちゃんとあたしたちに説明してくれるんでしょうね? なんなのこのタマゴ。この女。妻って、妻って……」
「落ち着いて。その前に、まず、ハヤトくんと『この女』をどうにかしないとね」
大の字にひっくりかえってのびている隼人の頭を、タマゴからうまれた女が撫でている。
血管、キレそう。
あたしはとりあえず女を風呂場に連れて行ってシャワーを浴びせた。タマゴの内容物でべとべと濡れていたからだ。女は浴槽とかタイル張りの床とかをめずらしそうに眺めていた。シャワーの使い方も知らないみたいだから、あたしが洗ってあげた。むかし飼ってた犬のロクをなんとなく思い出した。
とりあえずあたしのTシャツを着せたけど、胸のところがぱっつんぱっつんで、おへそが見えてる。ジーンズは入ったけど丈がみじかい。むかつく。下着は、新品があったからそれをはかせて、ブラは、どうせあたしのじゃ小さいだろうから、あとで考えることにする。
女はあたしにされるがままだった。オトナの女、って出てきたときは思ったけど、ちょっと落ち着いて見ると、もっと若くて、十八、十九くらいかなって感じ。それでもあたしよりは全然オトナなわけで、身長もあたしより高い(たぶん百六十五くらい?)し、そんなひとが、無防備におとなしくあたしに手をひかれてる。妙な状況。
二階のあたしの部屋に戻ると、マルちゃんが隼人の顔をうちわであおいでいた。鼻にティッシュで詰め物をされて、痛々しいような、滑稽なような。
「やあやあ。おかえり。うん、なかなか似合うじゃない」
「マルちゃん」
「きみも偉いね。自分の彼氏にいきなり全裸で迫った女を、ちゃんと世話して」
「彼氏じゃないし」
ぷいっと、そっぽを向いた。え、そうなの? とマルちゃんは頓狂な声をあげる。
「あたし、汐見なずな、って言います。隼人と同じ、十五歳。中学三年生」
「うん」
「マルちゃん、あなたは一体何者ですか?」
マルちゃんはにこやかな表情をくずさない。だけど、その裏で、いろんな考えをめぐらせているにちがいない。
「あ、隼人くん、気がついた」
隼人がむくっとからだを起こした。
「大丈夫? 水、飲む?」
「うん。みず、ほしい」
答えたのは隼人じゃなくて、女のほうだった。あたしの服のすそをひっぱっている。とろんとまぶたが落ちて、なんだか、とっても眠そう。
そのまま崩れ落ちるように女は眠りに落ちた。戸惑いながらも、とりあえず布団を敷く。マルちゃんが女を運んで横たえた。
窓から風が吹きこんで、ちりん、と風鈴が鳴った。夏だけじゃなくて、一年中つるしっぱなしの風鈴。むかし隼人がくれた。四年生の夏休みにひとり旅したときのおみやげに。旅から帰ったばかりの隼人の顔は、いまでも胸のなかにある。ちょっぴりたくましくなって、だけどちょっとだけさびしさも浮かんだ、複雑な笑顔。
隼人が、はじめて、わかれたお母さんをたずねて行った旅だった。
「このひと、優奈カリンに似てるな」
つめたい麦茶を飲みほした隼人がつぶやく。すっかり落ち着きを取り戻したみたい。四年生の隼人の顔と、今の隼人の顔がかさなって、ひとつになる。
「でも、優奈カリンの何倍もキレイじゃない?」
あたしもつとめて冷静にふるまうことにする。
優奈カリン。隼人の好みのタイプ、だっけ。ま、似ていると言えなくはないけど……。たしかに優奈カリンは美人だけど、もっと親しみやすいっていうか、こんなに完璧な美貌はもっていない。そう、タマゴからうまれた女の美しさは、どこか人間離れしているんだ。
「なるほど。隼人くんは、ユウナカリンとやらのファンなのか。それで、型番E‐30201はユウナカリンに似た姿をしている、と。それにしても隼人くん、こんなに胸の大きな女性が好みとは。ぼくとは趣味が合いそうにないなあ」
つめたい麦茶を、ずず、とすするマルちゃん。あたしは身を乗り出した。
「型番? イーのなんちゃら、って……」
「2105年、フロッキンシュピール社製。商品名『オンリーラバー・エッグ』、略してオンラバ。愛玩用バイオロイド製造キットだ」
マルちゃんが真顔で発する聞きなれない単語のかずかず。鼓膜まで到達したものの、うまく脳が処理できない。
「商品のキャッチ・コピーは、『あなただけの理想の恋人、うまれます』。購入され、スタンバイ状態になったタマゴは、はじめて見た人間の潜在意識をさぐり、理想の恋人像のデータを取得する。そのデータをもとにタマゴの内部で組織が形作られ、理想通りのバイオロイドが出てくる、というわけだ。しかもこのバイオロイドは、データを提供した人間の従順な恋人となるよう、プログラムされている」
「ああああの、よくわかんないんだけど……、要するにこれ、未来のハイテク人形、ってこと?」
バイオロイドとかプログラムとか言われてもよくわかんないけど、愛玩、ってのはペットや人形につかう言葉だし、要するに恋人ごっこに使うロボットってことかな、って思ったんだ。人形というにはなまなましすぎるけど。
「人形、ねえ。ま、そうだな。趣味の悪い人形だ」
くくっ、と自嘲気味にマルちゃんがわらう。
「このひと、今、ぐーすか寝てるけど、これって充電してんの? ってか、動力は電気?」
隼人が聞いた。マルちゃんは両手をあげて首を横に振った。
「きみたちは、これがロボットだと勘違いしているようだね。違うよ。これはバイオロイド。きみたちと同じように、呼吸をして、食物から栄養を得る。排泄もする。生きているんだ。違うのは、発生のしかたと、行動の大部分がプログラムで制約されているということ。老化のスピードが恐ろしく遅いこと。それから、生殖行為は可能だが、生殖能力は削除されていること」
あたしはごくんとつばを飲みこんだ。
「生きてる……。クローンとか、ああいうのと同じ?」
「同じではないけど、ロボットよりは近いかな。きみたちの時代の技術で一番近いのは、あえて言うなら、クローンやデザイナーズ・ベビーにあたるかな。まあそれでも全然違うけどね」
麦茶の氷が解けて、からん、と鳴った。ぶるりと寒気がして、あたしは思わずむき出しの腕をさすった。肌が粟立ってる。真夏なのに。
「愛玩用って言ってたよね。に、人間、を、そんなことのために、好き勝手につくっても、い、いいの?」
歯がかちかちと鳴ってうまくしゃべれない。おそろしい。おぞましい。あたしの中の何かが、非常ベルを鳴らしてる。隼人は真っ青になって、膝の上でこぶしをぎゅっと握っている。マルちゃんはそんなあたしたちを見て、ふっ、と、やわらかな笑みをもらした。
「きみたちの感性はまっとうだとぼくば思う。ぼくの時代の人間の大部分も、同感だろう。ただ、気づくのが遅すぎた。2107年に、高度な知性を持ったバイオロイドの人権が認められ、あたらしい法律ができた。それにより、『オンラバ』は回収されることとなった。孵化したバイオロイドはプログラムを解除され、持ち主から解放される。孵化していないものは処理をほどこし、処分されることとなった。手放そうとしない持ち主には厳しいペナルティが課された。疑似とはいえ、恋人と引き離されるという状況なわけで、かずかずの悲劇も起きた。それでも回収作業は進み、のこるはE‐30201のみとなった。ぼくは2120年より、さいごの『オンラバ』を回収しに来た。カメ研のマルちゃんというのは、仮のすがただ」
「いや、カメ研が仮だってことは最初からわかってたけどね。まさか未来人だなんて……。てか、未来人って、みんな、そんな古臭いカッコしてんの?」
いやみっぽく隼人が言った。半信半疑なんだと思う。あたしだって、こんな無茶苦茶な話、はいそうですかって鵜呑みにはできない。ていうかほとんど意味がわからない。
マルちゃんはふしぎそうに自分の髪を撫でた。
「古くさい? 2000年代初頭の日本の流行も言語も風俗も文化もばっちり押さえているつもりだが、これで」
マルちゃんは首をひねって、右手のひとさし指にはめたリングを見やった。
「なにそれ。ちがう年代の人間になりきるためのデータがはいってんの?」
「ま、そんなとこ。おかしいなあ、エラーかなあ。ほんとにぼくのファッションはおかしい?」
「たぶん、二十年くらいずれてる、かな……?」
遠慮がちに言ってみた。隼人が、ぷっ、と噴き出す。それであたしも力が抜けた。
「お金とか、どうしてるの?」
「そんなものは何とでもなる」
平然と言い放つマルちゃん。
「偽造かな」
「いや、高度な催眠術でだましてるんじゃ?」
なんて、あたしたちはひそひそ話した。
タマゴからうまれた美女は、あいかわらず、すうすうと気持ちのいい寝息をたてている。
うまれてきたものはしょうがない。ただ、この先、あたしたちはどうすればいいんだろう?
孵化したばかりだし、これから彼女はまる一日は眠り続けるだろう、とマルちゃんは言う。美女が眠っている間に、対策を講じることになった。マルちゃんがいますぐに未来に連れ帰ってくれればいいんだけど、諸事情があってそれはできないらしい。その「諸事情」というのも説明してくれなきゃ納得できないし、そのほかにも疑問はたくさんある。はじめてタマゴを見たのはあたしなのに、なんで隼人のデータがインプットされたのか、とか、どうして未来から、2013年にタマゴがやってきたのか、とか。
マルちゃんは明日以降また説明する、と言った。いっぺんに何もかも話しても混乱するだけだろうから、と。たしかに、今の時点であたしはすでに混乱している。
マルちゃんはなぎさ荘という民宿に二か月前から滞在しているらしい。素泊まりオーケー、激安だけどやる気のない民宿だ。対外的にはウミガメの産卵を見に来たということになってるから、くれぐれも正体を漏らすことのないよう、と念を押された。心配無用。ばらしたところでだれも信じない。
帰り際。あたしは大事なことを思い出して、玄関でふたりを引き止めた。
「名前。あのひとの。どうしよう。呼び名がないと不便だよ」
「優奈カリンに似てるから、カリンでいいじゃん?」
隼人が投げやりに言った。ぐったりと疲れたようすだった。そんな安直な、と思ったけど、ほかにいい名前も浮かばない。カリンね、とあたしはちいさく反芻する。
部屋にもどる。相変わらずカリンは眠り続けている。肌掛けから、すらりと長い二本の足がにょっきりはみ出しているのが見えて、しぜんとため息がもれた。
隼人の潜在意識にある、理想の恋人像が、これなんだ。女子とか、つきあうとか、どーでもいいって言ってるくせに、実際は、おそろしく理想が高かっただけってオチね。
窓の外から、夏の明るい夕暮れが入り込んでくる。オレンジ色のやわらかいひかりがあたしとカリンを照らす。
ちりんと風鈴が鳴った。かかえた両膝にあごをのせて、朝顔が描かれたガラス風鈴が風になびくのを見つめて、それから視線を落とす。そこにあるのは、太い足。あたしの足。肌は浅黒い。気をつけていても、海辺の町は日差しが強くて、どうしても日焼けしてしまうんだ。
からだも、隼人は健康的ってなぐさめてくれたけど、ぽっちゃりしてるわりに胸は小さい、めりはりのない幼児体型。つい昨日までは胸なんて大きくなくていい、むしろ大きいのは恥ずかしいなんて思ってたけど、カリンを目の前にすると、あたしのは貧弱で男子から見ると魅力ゼロなんだなって痛感する。
顔も、親戚や馴染み客のおじちゃんは「愛嬌がある」って言ってくれるけど、はっきりいってぱっとしない。目はふたえだけどとろんと眠そうだし、鼻はひくいし、丸顔だし。四つ年上のお姉ちゃんのことは、みんな「器量よし」ってほめるけど、あたしは「愛嬌」だけ。
隼人にも、むかしから、お姉ちゃんとあたしは姉妹なのに全然ちがうってからかわれていた。お姉ちゃんが県外の大学に行くことになって家を出て、あたし、少し、ほっとしたんだ。もう比べられることはないんだって思ったから。なのに。
なずなー、と階下から呼ぶ声がした。どうせ、店が混んできたから手伝えっていうんだろう。ちらりとカリンを横眼で見やる。よく眠ってるし、大丈夫だろう。とりあえず、家族にばれないようにごまかさなくちゃいけない。
あたしは静かに、カリンの眠る部屋をあとにした。