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2013年の設定です。
防砂林をつっきって浜へ出る。七月の陽光を跳ねかえして、ぎらぎらとかがやく海。つんのめりそうになりながら、あたしは全速力で砂浜を駆ける。熱い砂に足をとられる。それでも走る。走る。
ざあん。ざああん。波が寄せる音だけがここにある。
あたしは波打ち際に仁王立ちした。なまあたたかい海風が吹いて、セーラー服のえりがひるがえった。
今あたしは、すっごくむかついてる。これ以上ないくらいむかついてる。こんな気持ちのときは、そう。水平線に向かって叫ぶしかない。
すう、っと、胸いっぱいにしょっぱい潮風を吸い込む。
「ばっ……」
叫びかけたあたしの視界に、きらりとひかる何かがはいりこんだ。寄せてはかえす波に、何かがもまれて、打ち上げられようとしている。近づいて、そっとひろいあげる。
「……なにこれ。たまご?」
手のひらにすっぽりおさまる、半透明の物体。かたちや大きさは鶏卵そのもの。ただ、色や材質が異様だ。うす青くて、表面はすりガラスみたいにくもっている。でも、ガラスのように硬くはなくて、シリコンみたいな弾力がある。そして、ほんのりとあたたかい。ときどき、ランプのように、ふわんとひかる。
「なずな―。何してんだー?」
聞きなれた声が飛んできて、あたしは、とっさにそれをスカートのポケットに入れた。振り返ると、クラスメイトの沢木隼人が、監視台のそばに立ってるのが見えた。あたしはどなった。
「なによ隼人。じゃましないでよ」
「じゃま、って。おまえ、もしかして、バカヤローとかさけぶ気だった?」
悪いか。あたしが目をそらしてしらばっくれると、隼人はぶっと噴き出した。からだをふたつに折って、わらう。おなかをかかえて、ひいひい、とひきつったようにわらい続ける。あたしはやや憮然として、隼人のところまでもどった。
「……そんなにおかしい? てか、あんたこそ、何しにきたの」
「おまえんちでメシ食ってたら、おばちゃんが、なずながまだ帰ってきてないから探して来て、って。そのへんうろうろしてたら、おまえが、すげー勢いで走ってくのがみえた」
あたしの家でメシ食ってたっていっても、べつに隼人は親戚でも兄弟でもなんでもない。あたしの家が定食屋で、しかも隼人んちは近所だから、常連ってだけ。
隼人は目じりにうかんだ涙をぬぐった。長くてごつい指だ。首とか腕とかひざとか、いつのまにか隼人はごつくなった。背だって高いし。ふとした瞬間に、そんなことを、あたしは思う。
「で、なにがバカヤローなわけ」
お昼のピーク時をすぎた『汐見亭』は、かなりすいている。こぢんまりした庶民的な店で、広いとはいえない店内には、テーブル席がふたつ、カウンター席がよっつ。奥に、ささやかながらお座敷もある。
って、自分ちの店なんだけど。
あたしと隼人は奥のテーブル席を陣取っている。
「ま、ちょっといろいろ、ね」
カウンターでもそもそからあげ定食をたべている若い男のひとが、あたしたちをじろっと見た。誰だろう。もっさりした長髪に黒縁めがね。このあたりじゃ見かけない顔だ。
お母さんが、まかない飯ののこりを出してくれる。隼人にはかき氷。
「ごめんね隼人くん、手間とらせて。うちのバカ娘がいつまでも外ほっつき歩いて。終業式が終わったら早く帰って手伝えって言ってたのに」
「なんで今日から手伝わなきゃいけないの? どうせ明日からこき使うんでしょ。あたし、いちおう、受験生なのに」
「どうせ勉強なんかしないくせに。あんたいつも、橘高なんて楽勝とか言ってるじゃない」
「ま、そうだけどさ」
うちの中学の生徒のほとんどは橘高に行く。市町村合併でおなじ市になるまえは、隣町だった地区にある高校だ。なぜみんな橘に行くのかって、こたえは簡単。ほかに選択肢がないから。その橘高だって毎年定員割れで、そろそろ統合されてなくなりかねない。
口うるさいお母さんをしっしっと手で追い払い、あたしはまかない飯をがっついた。むしゃくしゃがおさまらない。海で叫べなかったせいだ。
「すげー食いっぷり。また太るぞ?」
隼人のことばにあたしは箸をとめた。
「また太る、って。あたし、やっぱ、太ってる?」
「え。なにそのマジな顔。えーと、太ってるっていうか、ぽっちゃり? みたいな……」
たじろいだ隼人は視線を宙に泳がせた。鼻の奥に熱いものがせりあがってくる。
「う。う。あたし、デブなんだ。太ってるんだあー」
「えっ? ていうか泣く? そんなに傷ついた? てかなにその幼児みたいな泣き方」
あわてふためく隼人。
ことのあらましは、こうだ。
今日の放課後、忘れ物に気づいて教室まで戻ったら、中から何やら下品な笑い声が聞こえて、あたしはこっそり聞き耳をたてた。どうやら数人の男子が、クラスの女子の品定めをしているようだった。そして、聞いてしまった。
「汐見なずなはナイわ、もちょっと痩せてたら考えるけど」
低い笑いが起こって、あたしは卒倒しそうになった。
「くやしい。くやしい。くやしいいい! あいつら一体何様のつもり?」
「落ち着け。大丈夫だ。なずなは、その、いたって健康的な体型だ」
「フォローになってない!」
カウンターの若い男が、こっちを見て、こほんと咳払いする。あたしはじゃっかん声のトーンを落とした。隼人が、あたしを見てにんまりわらう。
隼人の目の前の、いちごシロップのかかったちいさな雪山。銀のスプーンがそれをくずす。隼人の前髪がゆれる。目にかかりそうなくらい伸びてる前髪。おしゃれで伸ばしてるんじゃない、たんに無精なだけ。
……切れば。だれにも聞こえないくらい、ちいさくつぶやく。
「ね、隼人もやっぱり、細い女の子がいいの?」
ぽつりとはなった言葉に、隼人が顔をあげてゆっくりと首を横にふる。無言でスプーンを置くと、両手でボールを挟みこむようなかたちをつくった。
「おれはね、ぼん、きゅっ、ぼん、のムチムチ・ナイスバディが好き。たとえば、グラドルの優奈カリンとか、最強」
もしやその両手でかたちづくってるのは、理想のおっぱい? 信じらんない。
隼人って、普段は女子には興味ないっていうスタンスとってて、一部の女子からクールとか思われてるけど、全然ちがう。みんなだまされてる。
「ばか。ヘンタイ。スケベ。サイテー」
テーブルの下で隼人のすねを思いっきり蹴ろうとした。と、そのとき。
どくん。ふともものあたりで、何かが動いた。なまあたたかい感触。なにこれ。チカン? まさか、それはありえない。
――そうだ、あれ……。あたしは、浜でひろったへんてこなタマゴのことを思い出した。慌ててポケットから取り出す。たしかに、これ、熱をもってる。
どくん。どくん。タマゴは心臓みたいに拍動している。あたしが見つけたときより、ひとまわりほど大きくなってる。
「なずな、それ、何だ? なんか光ってないか?」
「さっき、浜でひろったんだけど……きゃっ」
タマゴはいきなり、つよい光をはなった。その青いひかりは、まっすぐに、隼人の顔にむかって伸びる。まるでレーザー光線だ。
――サワキハヤト。ジュウゴサイ。データシュトクチュウ。データ、シュトクチュウ……
「ちょ。なにこれ。俺の名前、言ったよな。怖いんだけどっ!」
あまりのことにことばも出ない。
がたん、と大きな音をたてて、カウンター席にいた男の人が立ち上がった。
「はやくそれを投げろっ! 窓の外にだ!」
怒鳴り声が飛んでくる。びっくりして、からだが固まって動かない。
――データ、シュトク、カンリョウ。シュトク、カンリョウ。
タマゴはオウムのように「シュトクカンリョウ」を繰り返して、やがて、静かになった。
カウンターの男がタマゴをひったくる。
「ああ。だめだ。手遅れだ……」
片手で顔をおおって、天井をあおぐ男。隼人はぽかんと口をあけて男を見ている。あたしは、ただぼうぜんとするばかりだった。
混乱のあとに降りた妙な沈黙をやぶったのは、我にかえった隼人の冷静なひとことだった。
「……てか、アナタ、だれですか」
差し出された名刺には、「南野大学ウミガメ研究サークル 丸山アオノ」とあった。
「マルちゃんと呼んでかまわない」
と、黒縁のめがねを押し上げながら言う。
「え? 大学生? 大学生っすか」
隼人が名刺と男を交互に見比べながらしきりに繰り返す。男は古臭い黒縁めがねに大きな鼻、肩まである黒髪の長髪を、平安時代の女のひとみたいにセンターわけしてる。お母さんが見てる、昔のドラマの再放送に、こんな髪型の俳優が出てる。このひと、まさに、むかしの俳優が鼻メガネかけて変装してる図そのものって感じ。あやしい。それに。
「大学生って、ふつう、名刺なんて持ち歩かないよね?」
「持ち歩くやつもいるんじゃね? 知らねーけど。このサークルの代表とかなんじゃねーの、このひと」
隼人とひそひそ話していると、男は地獄耳なのか、「えっ、そうなの?」と口をはさんできた。
「そうなの? って。ていうか、ウミガメ研究会とやらの活動で必要だからつくってるんじゃないんですか?」
「え? いやまあ、それはそうなんだけど……」
ますますあやしい。ギワクたっぷりの目でにらみあげると、男は、
「いや、ぼくは大学を休学して、ずっと日本各地を放浪してウミガメを追いかけてるんだよ……。だから、ちょっと世間知らずっていうか……、友達もいないしね、ははは……」
と言った。ひたいに汗が浮かんでいる。なんだかちぐはぐなやりとりだと思う。
「ま、あなたが何者なのかはひとまず置いといて」
隼人がタマゴを指差した。
「これ、いったい、何すか?」
マルちゃんと名乗った男は、ぐっと言葉につまった。ややあって、
「だから、ウミガメの卵だよ」
「信じませんって」
間髪いれず返す隼人。マルちゃんはふう、と息をついた。
「本当のことを語ったところで、きみたちは信じないだろう。ぼくをいかれた男だと思うのがオチだ」
いや、もうすでに、充分いかれた男だと思ってるんだけど。
「ただひとつ言えるのは、これは、非常にやっかいなものだということ。しかも、キミ、ハヤトくん、の情報を取り込んでしまっている。こいつが孵化したら面倒なことになる。適切に処理するから、ぼくに渡して、このことは忘れたほうがいい」
めがねの奥の目は真剣だった。冗談言ってるわけではなさそう。あたしは聞いた。
「孵化、って。この中から、何かが生まれるってこと?」
まさか鶏でも、ましてやウミガメのはずがない。何が生まれるんだろう。それに、隼人のデータって。いやな予感がする。
マルちゃんが口をひらく。
「それは――」
「ハイ、そこまで」
真後ろから声がしてふりかえると、お母さんがこのうえなくにこやかな顔で立っていた。この、顔。キレる寸前の表情だ。
「なずな。さっきからギャーギャーうるさい。いつまでも店でくっちゃべってないでよそへ行きな。あ、お客さんはごゆっくりどうぞ」
マルちゃんにむかって猫なで声でほほえむ。だけど、目はわらってない。マルちゃんはすごすごと会計をすませにレジへ向かった。あたしはテーブルのうえの食器を片づけはじめた。隼人も手伝ってくれる。
と、置物みたいにおとなしかったタマゴが、がたたんと揺れて、いきなりふくらんだ。そして、みるみるうちにダチョウの卵くらいの大きさになった。
あたしと隼人は、息をのんで、顔をみあわせた。