【5】元の世界へ帰ることを決めました
ヴィルトと別れた私は、ヤイチさんとお酒を飲んでいた。
私の時代の日本について話しながら、元の世界に戻る決意をしたことを、私はヤイチさんに打ち明けた。
「本当にそれでいいのですか? 一度戻れば、ここにくることはおそらくもうできませんよ? ヴィルトを悲しませることになります」
「ヴィルトは好きを勘違いしてるだけなんです。一番側にいた異性だから、恋愛の好きだと思っただけ。きっと私がいなくなれば、それに気づきます。それにいいところのお嬢様を娶るほうが、ヴィルトには幸せですし。何も持たない、同じ時を過ごせない私といても不幸になるだけです」
私の話に、ヤイチさんは苦い顔をしていたけれど、そうですかと一言呟いた。
「……昔、私もあなたと同じような決断をしたことがあります。自分といても彼女が不幸になるだけだと身を引いて、恋心を隠して。私の場合は、元の世界に戻らず、彼女の作った国を見守ることにしましたが、その決断が正しかったのかと今でも悩みます」
ヤイチさんは、ずっと昔から王に仕える騎士だった。
この国の歴史に、一人だけ女王がいたことを私は知っていた。
ヤイチさんのいう彼女とは、その女王様のことなのかもしれないと思う。
「あの時、彼女の手をとっていれば、今こんなに苦しくなかったんじゃないか。あの決断は、本当に彼女のためだったのか。彼女が本当に望んでいたのは……」
ヤイチさんは、あの時彼女と一緒にいる未来を選べなかった自分を、責めているように見えた。
「決めるのはあなたです。悔いが残らない方を選んでください」
ヤイチさんは、そう言って微笑んだ。
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今日がこの世界最後の日だと思うと、名残惜しくてさらにお酒が進んだ。
お酒は20歳になってから。
見た目は18歳だが、私は三十路を越えているから大丈夫だ。
それはそれで悲しくなるから追求しないことにするけれど。
飲みすぎたせいで、最後にはヤイチさんに色々喋ってしまった気がする。
この世界にきたきっかけとか、言わなくてもいいことまでつい口にしてしまった。
ヤイチさんもまた聞き上手なのだ。
――いい月夜だ。
この世界にお別れを告げる場所は、すでに決めていた。
屋敷で一番高い塔の最上階に登る。
ここは私がこの世界に来た時に、落ちてきた場所。
ヴィルトに初めて出会った場所でもある。
ここからは、街が見渡せた。
よくヴィルトが隠れていた屋敷の庭に、ヴィルトを探すため何度も訪れた下町。
森に囲まれた湖に目をやったところで、私はポケットに手を入れた。
そこから取り出したのは、指輪。
私の8回目の誕生日……実際にはこの世界にきて8年経った日に、あの湖で13歳のヴィルトから貰ったものだ。
湖には花が咲き乱れ、水面はキラキラとして。
とても幻想的だったのを覚えている。
この世界のものは全て置いていこうと思ったのに、これだけはつい持ってきてしまった。
ヴィルトは、玩具ではあったけれど指輪を買って、私にプレゼントしてくれたのだ。
玩具でも、ヴィルトは本気だ。
それがわかったから、私は受け取れなかった。
指輪は、将来の結婚相手にあげるものだ。
だから私がもらうわけにはいかないと、説得もしたのだけれど。
「ミサキと結婚するつもりだから大丈夫。俺はミサキを大切にする」
曇りのない眼差しで、ヴィルトはそう言い放った。
5つも、本来はもっと年下の13歳の子に――不覚にもときめきそうになった。
「駄目だよヴィルト。こういうのは、好きな人からしか受け取っちゃだめなの」
「俺はこんなにミサキが好きなのに、ミサキは俺が好きじゃないのかよ」
「好きだけど、そういう好きじゃないの」
どうしたらいいのか、私は困り果てた。
「ミサキが受け取ってくれないなら、こんな指輪なんていらない!」
それでもやっぱり受け取れないと拒み続けたら、ヴィルトはこの指輪を湖に捨ててしまった。
その日から、こっそりと毎日通って。
どうにか私は、あの指輪を見つけていた。
ヴィルトに連れられて湖へ行った日には、綺麗な花が一面に咲いていたのに、次に行ったときに見ることはできなかった。
後で湖の近くの人に聞いたら、あの花が咲くのは1年に1度だったらしい。
タイミングを見計らって、ヴィルトは私を連れて行ってくれたんだろう。
私がそういうのを好きだと知ってるからか、元々ロマンチストなのか。
わからないけれど、その気持ちがとても嬉しかったのを覚えている。
返すことも、捨てることもできなかった指輪。
ここから投げてしまおうかとも思ったけれど、結局できなくて、ポケットにまたしまいこんだ。
懐中時計を取り出し、鎖をとる。
最後にもう一度ヴィルトの顔が見たいと思ったけれど、会えば決心が鈍るのはわかっていた。
だから、それはやめて覚悟を決める。
懐中時計を飲み込めば、元の世界へ帰れる。
飲み込めるサイズには思えなかったけれど、口に入れることは簡単そうだった。
「元の世界に帰るつもりか?」
懐中時計が唇に触れた瞬間、背後から冷ややかな声がして、振り返るとヴィルトがいた。
急いで時計を飲み込もうとしたところで、手首を強くつかまれ、時計を奪われてしまう。
「約束したよな。王の騎士になったら、結婚するって。あれは、もう俺の側からどこにもいかないって、決めてくれたわけじゃなかったんだ?」
怒ってるはずなのに、ヴィルトはいつものように癇癪を起こさない。
こんな風に静かに言葉を紡ぐのが、余計に怖かった。
「ここを離れてた間、ミサキが浮気しないか、元の世界へ帰るんじゃないかって、気が気じゃなかった。でも、俺はミサキを信じたんだ。帰ってきて、ミサキが迎えてくれて――凄く嬉しかったんだぜ?」
ヴィルトの瞳の奥に、暗い炎が灯っていた。
見つめられるとぞわぞわとして、囁く声は低く、腹の底まで響くようだった。
「……離して」
そういうと、あっさりとヴィルトは私の手を離してくれたけれど、時計は返してくれなかった。
時計を手で弄び、下へと降りていく階段を塞ぐような位置に立つ。
「昔、夜に抜け出して、ここにミサキを連れてきたことがあったよな。ミサキに流れ星を見せたかったんだけど、いつも昼にしか来ないから、塔に入ったら暗くて怖くて。俺泣きそうだったけど、ミサキが一緒にいてくれたから屋上まで上れた」
共通の思い出を口にするヴィルトなのに、そこにいるのはヴィルトじゃないようだ。
感情の見えない声。
どこか熱っぽくて狂気じみた瞳には、私だけが映っていた。
知ってるヴィルトが消えてしまったみたいで、怖くなる。
「屋上に上ってさ、ミサキは流れ星に夢中になってたけど。俺はここだけ世界から切り取られたみたいに感じてたんだ。このまま、ミサキをここに閉じ込められたらいいのにって願った」
ヴィルトは残酷に笑う。
こんな風にヴィルトは笑う子じゃなかったのに。
ヴィルトが、懐中時計を自らの口元に持っていく。
「やめて!」
「やめない。結婚して側にいてくれるって言ったから王の騎士にまでなったのに、約束破ったのはミサキだろ」
私の制止も聞かず、ごくりと喉を鳴らして、ヴィルトは時計を飲み込んでしまった。
「案外簡単に飲み込めたな。これ、本当に時計か? まぁいいや」
呆然としていると、ヴィルトに担がれる。
「やだやだ、離してよ!」
「俺から逃げるやつのいう事なんて聞かねぇ。もう、我慢も容赦もしないから」
塔を下りて無理やり連れて行かれた先は、ヴィルトの部屋だった。
ベッドに投げ出され、部屋に鍵をかけられる。
シャツの襟元を片手で解きながら、ヴィルトはベッドに上ってきた。
「ちょ、ちょっと落ち着いて。何する気?」
「何って、ナニだけど。本当は結婚してからのつもりだったけど、約束先に破ったのそっちだから。子供ができれば、逃げ出そうなんて考えないだろ?」
身の危険を感じて後ずされば、アゴを押さえれれてキスをされた。
子供が戯れにするのとは、違うキス。
情熱的で、全てを奪われてしまいそうな性急なものだった。
こんなに求められていたなんて、知らなかった。
何もかもをぶつけてくるような、激しい口づけにクラクラする。
無理やりされそうになっているのに、嬉しいとどこかで思っている自分がいるのに気づいて。
そこまできてようやく私は、弟とかではなく、ヴィルトが本当に好きなのだと実感してしまった。
頭がぼーっとしていく。
それに、なんだろうこの感じ。
唇を通じて、甘くて苦い熱が私の中に入ってくる。
耳元で時計の音がして、チクタクチクタクと巻き戻る。
口付けが深くなるたびに、この世界にいることで忘れていた、懐かしい胸の痛みが戻ってきて。
私の服をはだけさせた、ヴィルトの手が止まった。
「なんで、時計がここにあるんだよ……!」
ヴィルトの声に視線を下げれば、私の胸の位置に時計が出現していた。
私の体が輪郭をなくしていく。
あぁ帰るんだ、とわかった。
抱きしめてくるヴィルトの熱が、遠のく。
――最後に見たのが泣き顔なんて嫌だな。
伸ばした手は、ヴィルトの顔に触れることなくすり抜けた。
意識が遠のく瞬間。
今更後悔しても遅いのに、ずっとヴィルトの側にいたかったなと思った。
3/13 微修正しました。
★2016/10/2 読みやすいよう、校正しました。