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第六話 ~ 一発目の銃撃

 夏海にとって彼の周りで繰り返されるやり取りなどどうでも良かった。

 労働に労働を重ねて学費を捻出する。そして、我が子に将来の為と勉強を強いた結果、子供に嫌われる。夏海にはそんな局面に自分が関わることすらなかったのだ。「食べさせてあげているのに」という愚痴を投げつけられたこともなく、嫌悪どころかそんな状況に陥った際の心境すら想像できなかった。

 それよりも、彼女の意識は自分の声すら届かない空間に紛れ込んだ恋人の方へ向いていた。隆哉は何故自らの意思でこんな場所に足を踏み入れたのだ?

 誰も説明などしてくれない。

 夏海は目を堅く閉じ、頭を振った。埋まりもしない空白の手前で右往左往する気持ちは振り切れず、逆に身体に廻った酔いが纏わりついて意識を錆び付かせようとしていた。彼女の身体は更に左へと傾いだ。


 その瞬間だった。


 重い窓がいきなり押し開けられ、罵声が冷め切ったリビングの中に飛び込んできた。

 「何考えてんだテメーは?」

 目を見張る間にも克巳が深く突き刺さるような靴音を立ててフロアを汚していった。彼が右手を強く引っ張ると、夜闇の中から腕を掴まれた恭子が這い出てきた。泥酔している彼女はフロアに倒れる前に、ソファーの角に頭を打ち付けた。

 不快な音が波紋を広げるように響き渡り、彼女はフロアに横倒しになり、仰向けに転がった。うめき声と共に恭子は折り曲げた腕を木張りの板の上に泳がせて動かなくなった。

 その姿を見ていた二人に悪寒が走った時、恭子はケラケラと笑い出した。克巳は舌打ちして恭子の左腕を掴んだ。

 「起きろ!」

 「いたぁい~!」

 恭子は克巳の手から逃れようとした。そして彼は酔い潰れかかっている彼女を引き起こそうと腕を強く引っ張った。その反動で恭子の腕が捕縛しようと試みる貧弱な握力から滑り落ち、彼女の身体は再びフロアに沈んだ。

 くぐもった笑い声が絨毯に染み渡った。

 克巳は苛立ちを押さえられず、背中を不規則に揺らす恭子に罵声を浴びせた。

 「いちいち邪魔すんな!しつけぇんだよテメーは!」

 画面に視線を戻していた夏海は苛立たしげに醜態を演じる端役達の方へ振り返った。

 「喧嘩なら自分ん家でやって!集中できないじゃない!」

 憤然とした面持ちで克巳は一歩引いた。

 その間にも恭子は青白い光を放つテレビを見上げると、四足でにじり寄った。動き出した拍子に、彼女の脚が触れた空のボトルが絨毯の上に半円を描いた。そしてその傍に脱げかけていた片端のヒールが落ちた。

 夏海はうんざりした顔で立ちあがった。恭子の両肩に手を掛け、引きとめようとするが、彼女は夏海の手をも掻い潜り、円卓の光景を笑顔で指差し笑い声を上げた。

 「何これ?こんなくっだらないものであの子の気ぃ引きたかったの?」

 自分の台詞が余程可笑しかったのか、恭子はフロアに這ったまま腹を抱えた。

 「お前なぁ…」

 克巳は結論に辿り着きそうのない口論を始めそうな口調で歩み寄った。夏海はその行く手に立ちふさがった。しかし、彼女は今や只の障害物でしかなく、彼は夏海をゆっくりだが有無を言わさぬ力で押し退けた。

 「ちょっと…」

 夏海が振り返った先には抵抗する恭子の両腕を捕まえて離そうとしない克巳の姿があった。諦めにも似た感情は彼女の全身からその周りを取り囲む時間までも縛り付けた。更なる暴挙に出ようとする克巳の背中まであと数歩という距離だった。手を伸ばすその先をスローモーションがかかった空気が阻む。

 不意に克巳の手が夏海の目の前に振りほどかれた。

 恭子は渾身の力で自分の自由を奪う克巳の手を振り払っていた。倒れたワインボトルが小さく身震いする。身体が物理的な束縛から開放されるや否や、赤いドレスの女は縋るようにテレビへ手を掛けた。

 『…同じ家に暮らしているのにすれ違ってばっかりでねぇ』

  体勢を整え直した克巳は次の行動に出ようとしたが、不意に立ち止った。


 『気がついたら見たこともないような他人みたいな子になっちゃって…』


 夏海は画面に映る婦人を見た。その婦人の顔の前を隣の男性の手が遮った。掌からはみ出した銀色の身体が斜光を受けて無気味に光っていた。そこに鶴嘴を連想させるものが緩慢な動きで身を持ち上げたかと思うと、一気にその先を振り下ろした。

 鈍く、詰まった音が再び響き、緊張を解く吐息が漏れた。

 揺れていたワインボトルが沈黙した。

 三人は一様に押し黙ったままだった。夏海は自分の足が震えていることに今更ながら気づいた。緊迫した表情、フェアゲーム、聞き覚えのない金属音、画面を通して伝えられるバラバラになっていたものが頭の中で数珠繋ぎになって一つのストーリーを象っていこうとしていた。

 時間を隔てたその空間に隆哉は逃げる気配すら見せずにただ佇んでいた。手を伸ばせば届いてしまいそうな距離に彼は居た。だが、数え切れない時間を共に過ごしてきた相手との間を遮る壁は薄いながらに強固だった。

 「何だよこれ?」

 克巳の震える声を最後に豪奢なリビングは再現されている過去の物音に侵食されていた。

 「母さん?」

 恭子がそう呟きながらテレビの筐体に爪を立てた。降り乱れた彼女の髪の奥に顔を出す婦人はリボルバーを手にしていた。その様を目の当たりにした夏海は目を大きく見開いて口に手を添えた。虚無感を引っ提げた恐怖を飲み込もうとしたその手の方が使い物にならない程震えていた。

 『ねぇ』

 第二幕の幕開けを阻んだのは対面に座っていた少女だった。頬杖をついた少女は言葉を継いだ。

 『なんで娘に何も言わなかったの?言わなきゃ分かんなくない?』

 そんな疑問を投げつける少女を睨みつけたのは隆哉だけだった。その他の視線は全て婦人に向けられ縛り付けられた。

 笑っていた。

 婦人の顔に浮かんだ微笑は若い頃の器量の良さが窺えるものだった。

 『時間…』

 『はぁ?』

 『時間がないの』

 苛立ちの篭った吐息が漏れた。少女は腕を背凭れに回して言葉を投げ打った。

 『言ってる意味が全然分かんないんだけど?』

 周りを挟む男達が威嚇するような目つきで身体を少女の方に向けた。

 

 轟音はその瞬間を待ち構えていた。

 

 振り向いた先に待ち構えていたのは夏海がその一生の中で遭遇することが無い筈の現実だった。

 角度は違えど、彼らは婦人が背中を背凭れに打ちつけ、身体の全運動を停止させる様をまざまざと見せつけられた。瞳に虚無が広がり、かつて女性であったその死体は円卓に大きな振動を与え、そして斜め方向にずるずると滑り、横倒しに画面下へと消えていった。身体の各部が床にくぐもった音を立てたが、それに反応を示す者は居なかった。

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