第四話 ~ DVD
階段を降りたところで、急いで外に出ようとしている顔も知らない青年を捕まえた。
「ねぇ、何があったの?」
「花火ですよ、花火。どこか近くでそんな音がしたって皆騒いでますよ」
そう言って、青年は玄関から外へ飛び出していった。そして彼女はグラスがフロアの上に破片となって飛散する音と甲高いはしゃぎ声に、リビングへと駆けた。
走り込んだリビングにはカーテンの裾を断続的に捲る夜風が忍び込んでいた。
テーブルの上には取皿やグラスが散らばっていて、窓側に据えてあるソファーの横には空になったワインボトルが並べられ、その一つが横倒しになって転がっていた。グラスが割れた音を確かに聞いたのだが、それらしいものは床のどこにも見当たらなかった。
夏海はテーブルやその周りを覗き込んでみたが、口紅のついたグラスや果物の種が転がっている皿にそう長くは顔を近づけていられなかった。そんな彼女の背中に再び女性の笑い声が飛んできた。招いた客に置いてきぼりにされた誕生日の花役は思わず後ろへ振り返った。
リビングから見える廊下には人影もそして気配もなかった。揺れるカーテンから外の物音が舞い込んできていたがそれはソファーの裏面に吸い込まれてリビング中央まで届くことはなかった。それよりも夏海は厚い棚戸が細長い口を開いていることに注意を奪われていた。
照明の光はそれなりの雰囲気を出す為に弱められていた。リビングはそう言った意味でパーティーが始まった時からどことなく薄暗い印象を与えるように演出していたのだった。
その薄暗いリビングに白い光が差し込んでいた。
夏海は辺りを見回した。そしてその光の正体が何であるか、ようやく理解した。自分でも何故そこまで時間がかかってしまったのか笑ってしまうくらいに。
テレビが点いていた。
そしてテレビすぐ下に閉まってあるのはDVDデッキだった。そのデッキからはライトグリーンの電子蛍光板の光が見えている。誰かがそのコンパクトディスクに収められた動画を再生したことは明らかだった。
背中に悪寒が走る。
そして、彼女の視線が泳ぎ着いたコーヒーテーブルの上には白いプラスチック製のCDケースが転がっていた。夏海は驚愕に塗りつぶされた顔を上げた。
広い画面の向こう側にはもう一つの居間が広がっていた。その空間も同じく夜の暗がりが辺りに立ちこめていた。シャンデリアに照らされるダイニングテーブルを正面に据え、その後ろに誰のものとも見分けがつかない絵画が掲げられていた。白い壁は乳白色に染まり角に影のグラデーションを落としていた。
夏海はテレビの画面に手を添えてその映像を見つめた。
動きというものが全くない風景だった。向かい側のリビングで目を引くものといえば、テーブル奥手に席を取った老人だけだった。テーブルを見つめたまま息をつく度に微かながら禿げ上がった頭が微かに揺れた。その空間を彩るものは絵画以外に何もなく、老人の顔からは表情が抜け落ちていた。
夏海はテレビから手を離すと、温かい色が折り重なった絨毯の上に腰を下ろした。
色々と見る位置を変えてその変化のない映像を眺めてみるものの、そこには映像の存在意義を無視したような死んだ時間がただ横たわるばかりだった。
鎖骨の付け根の辺りが軋んだ。
夏海は肩を旋回させ身体を少し解した。痛みが和らぎ、ふっと息をついた時、カーテンが舞う開け放しの窓から女性の笑い声が聞こえ、その後を怒鳴り声が追った。
彼女の注意が窓に逸れた瞬間を狙って、部屋を取り囲むように設置されたスピーカーから心臓を直撃するような空気音が放たれた。思わず顔を下げ、両手を耳の近くに上げたまま夏海はその音がスピーカーから放たれるスリッパを突っ掛けた足音であることに夏海は気づいた。
鼓動が加速していた。
彼女は音量も確かめず、ビデオを再生したまま外に飛び出した人間のことがひどく恨めしく思った。そんなリビングに取り残された立った一人の観客が心の準備を整えようとする間にも、過去に繰り広げられたドラマは幕開けを迎えようとしていた。
黒い影が圧縮ガラスの反対側に広がるリビングの景色を遮ったかと思うと、スリムな体格の身体が老人の隣に立った。それと同時に黒いタートルネックのセーターを着た男性がその反対側の席に腰を下ろした。短髪の青年は、夏海が顔を確認する前に、手前に突っ立っている人物の陰にその姿を隠してしまった。
夏海は左の方へ身体全体を傾けた。
見えないと分かっていてもその顔だけは確かめたかった。
その黒い人影が椅子を引いた。それに応じるかのようにもう二組の足音が響いて、その上に明るい声が覆い被さってきた。
『どこのお宅も一緒なんですね。年頃の娘ってホントお金がかかって』
画面左側にもう一つの影が差し、その合間に花柄の刺繍が施されている黒いスーツの上着が見え隠れした。円卓の全席が埋まろうとしていた。
恰幅のいい身体が背凭れを軋ませ、黒のストライプスーツの袖を照明の下に晒した。斜め後ろからでも老いにつれてふくよかになったことが分かる顎の周りと白いものが混じる鬢が露わになっていた。その左隣に精一杯のおしゃれをしてきたであろう、中年の婦人が椅子に腰を落ち着けさせていた。
画面右側を覆っていた人影は最後に腰を椅子に預けた。紺色のブレザーを羽織った女の子だった。椅子に身体を落ち着ける間に左の胸に校章が縫い付けられて、その下に白いセーターが見えた。
家族にしか見えなかった。そしてその中央に席を取った青年は長男というべき存在であった。
そして夏海の瞳は焦点を絞り、腰を台座に落ち着ける青年の顔をつぶさに追った。
見覚えのある顔だった。
顔が火照っているのが自分でも分かる。リビングに誰も居ないことがせめてもの救いだった。その安堵が侮辱されたという思いと怒りを腹の底から引きずり出してきた。
「どういうこと?」
声に出して問うが、その詰問は時間を隔てた場所に居る恋人に聞こえる筈がなかった。