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第二話 ~ 裏口に訪れた客

 キッチンには人っ子一人居なかった。

 ケータリング業者には仕出しと回収だけをお願いして後のことはこちらの方で取り仕切る手はずだった。だが、台所周りの世話をする手伝いが風邪をこじらせて今日に限って休んでしまっていた。

 誕生日の主役。

 その派手やかな一時を演じる傍らで夏海は台所と会場代わりのリビングを何度も往復する羽目になってしまった。お手伝いの一人はコートや履物を預かる係で手一杯になっていた。そして、食事や飲み物のことを頼める友人は夏海にとって一人も居なかった。

 夏海は右肩を軽くさすった。

 遠くに聞こえる声の片隅に自分が立てる物音が寂しく耳に響いた。寒さがじわりと肌に染みた。カクテルグラスをテーブルに置き、夏海は果物籠の隣に据えてあるワインラックに歩み寄った。

 ふと、視線が入口傍の電話機に飛んだ。しかし、機械はただ押し黙っているばかりだった。

 その視線上には封を切られたボトルが置いてあった。生まれた年に造られたキャバネィだった。それを今夜は箱ごと開けていた。指先が一瞬戸惑った。だが、彼女の右手は果物籠脇のラックの方へ伸びていた。

 キッチンフロアの中央に据え付けられているキャビネットに新しいボトルを置くと、夏海は引出しからボトルオープナーを取り出した。カバーを取り、らせん状に尖る切っ先をコルクに当てた。

 掌が取手の部分で滑り、耳障りな音を立てる。

 夏海は手を休め、軽く息をついた。コルクを抜いた時の軽い空気音よりも、鼓膜を絞りちぎってしまいそうな音だけがいつまでも神経の深いところに爪を立てる。普段、父親がワインの扱いを自分で仕切ってしまっている為、自分でこういう作業をすることに慣れていなかった。

 そのままボトルから手を放そうとした瞬間、笑い声が束になって廊下を転がった。振り向いた廊下の先には静寂が流れ込んできていた。鬱積した気持ちのかけらが胸元をせりあがっていった。

 夏海は顔を顰めながら力を込め直した。

 耳障りな音が再び鳴り響く。

 片頬が見る間に引き攣る。ボトルの周りには赤ワインが数滴、ボトルの口から滴り落ちていた。だが、その鋭く刻まれた頬の皺が緩むのにさほど時間はかからなかった。夏海は見開いた両目を肩越しに、裏手のドアへゆっくりと向けていった。

 何か物音が聞こえた。

 それは掠れて、それでいてその存在感を空間全部に侵食させていく嫌な音だった。白で統一されたキッチンコンパートメントを見回し、夏海は身体を裏手戸の方へ向けた。はめ込まれた窓ガラスには光が反射し、その奥には漆黒の闇が張り付いていた。夏海は一歩、前へ足を出した。

 ドアまで後数歩といったところで片方にアンクレットを光らせる細い両足は動きを止めた。瞬時訪れた沈黙は氷のように冷たかった。ドアに再び音が走った。明らかにそれがノック音だということに気づくまで、一体どのくらいの時間が経ったのだろう?夏海は壁にかけられた時計を見上げた。

 時計の針は二十一時を指していた。

 夏海はドアを見つめた。こんな時間にわざわざ裏口へ回ってくる客など思いつきもしなかった。が、思考が一つの思いつきの糸を手繰り寄せ、夏海は思わずドアへ駆け寄った。

 ガラスの向こうにはコートで覆われた肩が光の下緩やかな輪郭線を描いていた。ロックノブを捻り、ドアを開けて彼女はその間に身体を滑り込ませた。

 「隆哉!」

 隠そうともしなかった笑顔には少女の頃のような輝きがあった。しかし、その笑みは勝手口の電燈に照らされたベージュ色のコートを羽織った女性を目にした瞬間、掻き消えた。

 外に立つ女性は一歩だけ後ずさりした。すんでのところで強張りそうになった口元が再び華のある笑みを零した。

 夏海は咳払いをして、眉をひそめた。

 「どちら様でしょうか?」

 夏海は冷たい口調で言葉を相手に投げつけた。羞恥心が頬の下で燻っている。だが、相手は笑顔を湛えたままであった。

 「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだけど、表にいる人に『通してもらえないか?』って訊いたら『裏口に回ってくれ』って言われちゃって」

 夏海は相手を頭からつま先まで見つめ直した。黒髪ならばその美しさが生えると思われる、目鼻立ちのすっきりした顔が対面にはあった。だが、デザインよりも実用性が露わになっているコートの下にはハイネックの白いセーター、そして、バーバリーチェックのスカートが覗いていた。そこから下には黒いストッキング、ブランドすら分からない安そうなヒールが晒されていた。

 服装は文字通り門前払いにされる対象そのものであった。夏海は知らない内に顔を顰めていた。

 「ここへ?」

 「ええ、実は根岸君に頼まれごとをされまして、それで来ました」

 ロングドレスに身を包んだ今宵の主役は改めて相手の顔を確認した。身なりは明らかにパーティーに来たという感じではない。だが、人目を引く器量の良さだった。夏海ははっとして辺りを見回すと声を潜めて話しかけた。

 「立ち話もなんですから、どうぞお入りください」

 夏海はドアをゆっくり開いた。内側に引っ込むと、名前さえ名乗っていないその女性は軽くお辞儀をして、土間に立った。

 夏海は後ろを顧みて、一瞬顔を強張らせた。土間にはドアを開ける時に蹴飛ばしてしまった突っ掛けが無様に転がっていた。夏海は両手を組み、厳しい表情を向けた。

 「お名前、お聞きしていませんでしたね」

 不意を付かれた表情が飛び出てきた。

 「ごめんなさい、気づかなくって。中山っていいます」

 「で、ご用件は?」

 センターキャビネットの上に吊り下げられたワイングラスに手をかけながら夏海は質問を投げつけた。応答はすぐに返ってはこなかった。夏海は相手を見つめ、真顔のまま首を傾げて見せた。相手は愛想の良い笑顔を装った。

 「根岸君に頼まれたものを渡しに来ました」

 グラスを反転させたまま手が止まった。

 「頼まれたもの?」

 「そう、おつかいです」

 夏海の眉が皺を寄せた。が、相手は手にしていたバッグに視線を落としていた。取り出したものは、コンパクトディスクを包む白いカバーケースだった。中山と名乗った女性は手にしたものを軽く振ってみせた。得意げな表情はあたかも自分が話の主導権を握っているといわんばかりだった。

 夏海はグラスを置き、再び手を組んだ。親指が逆手の人差し指を忙しく撫でた。

 「どういったものなんですか?」

 「さぁ?彼のメモには何も書かれてなかったけど」

 「観てないんですか?」

 相手は微笑んだ。

 「プライバシーくらい私だって尊重しますよ」

 言葉が見つからない。

 沈黙が辺りの温度を一気に引きずり下げた。夏海は裏口近くのコンパートメントの端を一瞥した。中山は口元を引き締めると、CDケースをセンターコンパートメントの上に置いた。

 「じゃ、用件はそれだけだから、これで失礼します」

 中山はドアノブに手をかけた。夏海ははっとして相手を見つめた。声が出たらしかった。相手はドアを少し開いたところで振り返った。

 「あの、隆哉…その、根岸君はここに来るとは言ってませんでしたか?」

 相手は困ったような笑顔を顕わにした。

 「どうも急用ができたみたいで、それで私が代わりにここへ来たという次第なんです」

 「急用?そんなこと一言も…」

 「連絡…無かったんですか?」

 夏海は首を振った。相手は肩を少し下げて溜息をついた。

 「多分、本当に急ぎの用事だったんだと思いますよ。私にも理由は教えてくれなかったし」

 「そうですか…」

 夏海はそう呟いて顔を逸らした。その表情は落胆に曇っていた。相手はその顔を覗き込んだ。

 「だから、せめてプレゼントだけは渡しておきたかったんじゃないかしら?」

 その言葉に夏海は顔を上げた。対面には優しい笑顔があった。

 「誕生日の為に何かをわざわざ仕上げるのってそう簡単なことじゃないんですよ?」

 「…失礼ですけど、根岸君とはどういう関係で?」

 相手は笑い声を上げていた。

 「単純な先輩後輩の関係ですよ。ただ、根岸君には色々助けてもらっているんで、今日くらい恩返ししておこうと思っただけなんです」

 「そうですか。ありがとうございます」

 「いえ」

 そう言って相手は口を噤んだ。夏海は頭を下げたまま流れる沈黙が気になって顔を上げた。前に立っている女性は肩に預けたバッグのストラップに手を掛けたまま微笑んでいた。

 「あの、何か?」

 「いえ、ちょっと不思議に思っただけです」

 「何かおかしな点でもありましたか?」

 「ううん、そうじゃないんです。ただ、似てるなって思っただけです」

 「似てる?」

 「その礼儀正しさですよ」

 夏海は不意を突かれたように硬直した。

 「徳ってやつですか?大切な場面で決して礼を損じない。そんなところが凄く似てる」

 「そう…なんですか?」

 「自分で気づかないことって周りから見ればすぐ分かることなんですよ」

 「はぁ」

 「やだ、私ったら色々喋りまくっちゃって。邪魔しちゃってごめんなさい。これで失礼しますね」

 裏口から突然訪れた女性はもう一度笑顔を振りまくとドアを開き、一礼して外の闇へ消えていった。

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