第一話 ~ 誕生日パーティー
十二月も下旬に差し掛かったこの夜、大きな邸宅があちらこちらにひしめく住宅街の一角では賑やかな声が外に漏れていた。
門には二人の若い青年が屯っていて足を運んでくるドレス姿の女性やスーツ姿の男性と談笑している。年頃からすれば二十歳を越えた大学生かと思われる。その二人が訪れる客から名刺くらいのサイズに収まっているカードを受け取り、内容を確認していた。
その二人にチェックされ、問題ないと判断された男女のみが門をくぐっていく。カジュアルな服装の男女は誰かれ構わず門前払いにされていた。肩を落とす若者を尻目に煌びやかな衣装を纏った女性が嘲るような笑い声を上げて邸宅へと歩み入れた。
中に通された若い男女が玄関のドアを介して出入りしていた。
その邸宅と呼ぶにふさわしい家に入ると、重みのある収納棚の造りをした靴箱があり、その上には大ぶりの造花を活けた花瓶が置かれていた。玄関先で黒いワンピースを着たボブカットの女性がにこやかに上着を預かってくれている。その彼女に通されると、豪奢な家具が周りをぐるりと取り囲む広々としたリビングルームが待ち構えていた。
その広い空間にはFonogenicoの軽快なピアノソロから始まるジャズチックなポップスを詰め込んだ『リズム』が程良い音量で流れていた。
オーディオ機器を格納した棚の近くにノートパソコンを置いた男性が顔を上げた。目の前には長髪をカールさせた女性がそのスレンダーな身体をしなやかに躍動させていた。腿の辺りが露わになったミニスカートドレスを纏った女性は声を出さずに、「朝も昼も夜も無く胸打つリズム舞って」と、歌いあげる。軽い手拍子を交えて更に踊り続ける女性を前にノートパソコンを操る男性は軽く身体でリズムを取りながら次のセレクションを選んでいった。
そしてその広いリビングには正装した若い男女がそれぞれグラスを片手にして話に花を咲かせていた。
部屋隅の方にオードブルを構えるダイニングテーブル付近ではカクテルグラスを片手に長身の青年が煌びやかな衣装に身を包んだ女性二人を相手に談笑していた。その男はリビングに姿を現した今夜の主役、仁科夏海の姿を見つけるとテーブルからひらりと身を翻した。
「夏海さん、どこ行ってたんです?主役が舞台を離れちゃダメじゃないですかぁ?」
淡い水色のアイシャドウをシャンデリアの斜光に反射させ、夏海は冷めた視線を相手に投げつけた。
細い身体に備えつけられた丸みを綺麗な線で整えているタイトなロングドレスは黒い生地に同じ色のスパンコールが散りばめられていた。部屋中央に下げられたシャンデリアから降り注ぐ光が反射して夏海は主役に相応しい煌びやかな光に覆われていた。
その女性が片手を腰に当て対面の青年を冷やかな眼差しで見つめ返しているのだった。
「相変わらず楽しそうにやってるじゃない。あたしにおべっか使ってる場合なの?」
夏海は驚いた顔で仰け反る男の脇を通り過ぎ、ダイニングテーブルの方に足を向けた。リビングは二回目のギターソロが奏でる甘く、そしてどことなく寂しげなマイナートーンに包まれていた。男は尚もしつこく夏海の斜め後ろから彼女の顔を覗き込むように身を近づけた。
「せっかくの誕生日に何つんけんしてんすか?美人が台無しですよ?」
夏海は立ち止まると、向き直って作り笑いを見せた。
「その『美人』っていう部分だけは礼を言っておくわね」
「すんません、言い方が拙かったっすね。でも、苛ついてないですか?」
「別に苛ついてるわけじゃないわ。これでも周りに気を使っているのよ。そう見えない?」
背中の開いたドレスから透き通るように白い背中の肌を彼に見せ、パーティーの主催者はテーブルの方に歩み寄った。先程の女性二人が夏海に乾いた会釈を送る。夏海はミントの香りが立つジンベースのカルーソーに満たされたカクテルグラスを持ち直し、手を差し伸べた。
「今日は来てもらってありがとう。克巳君のお友達?」
二人は戸惑った笑みを浮かべ頷いた。一人が恐る恐る夏海の手を握った。そこに三枝克巳が急くようにして女性達の間を割った。
「こっち貴子さん。そしてこっちが祥子さん」
刹那、沈黙が通り過ぎた。女性二人はお互いの顔を見合わせ、そして克己を責めるような眼差しで見つめた。克己は思わず口に手を当てていた。その脇で唖然とした表情を慌てて消し、夏海は片方の女性に微笑み、「楽しんでいってくださいね」と言い残し、その場を離れた。
皮張りのソファーと豪奢なコーヒーテーブルはテラスへと続く窓に灯りを点すシャンデリアの光に濡れていた。L字型のソファーは壁二面を囲む書籍棚が重厚な雰囲気を醸し出していた。普段はソファーの隣に置かれたキャビネットにオードブルを構えたのも効を奏した。予想していた通りに招かれた客は思い思いの場所に陣取って輪を作り、軽食をつまんだりしながら広い空間を行き来している。そして彼らは賑やかに酒と談話を楽しんでいた。
見覚えのある女性が身体を夏海の方へ向けると、開いた掌を顔の近くに持ってきて振って見せた。大学のゼミで良く見かける育ちの良さそうな女性だった。夏海は笑顔を纏い直し、グラスを掲げてその女性の元に歩み寄ると二、三言葉を交わした。そして、笑顔でその場を離れた彼女の足取りが急に鈍った。
目の前には掲げたワイングラスに引っ張られるようにして歩く遠野恭子が居た。笑顔を作る頬の筋肉まで弛緩していて、グラスのふち一杯まで赤ワインが放物線を描いていた。
「なっちゃん、どこ行ってたのぉ?」
呂律が回っていない。
そのねばついた声に夏海の顔を顰めた。主役の反応に気づくことなく、恭子はバランスを崩して夏海に寄りかかった。一瞬身体を後ろに下げたのが幸いして、斜めに傾いたワイングラスはすんでのところでちょっと値の張るマーロットを零すことなく夏海が纏っている黒いドレスの目の前で静止した。
夏海の肩に崩れた髪を預けたまま恭子は線の緩んだ顔を絡ませるように近づけた。
「元気?」
息が詰まるような酒気を帯びた吐息を吹き付けられて、夏海は眉間にしわを寄せた。そして、酒癖の悪い友人の肩を軽く押した。歩き出そうとする夏海の前に恭子はふらつく足取りで一回転して夏海の斜め前に赤いドレスの裾をひらつかせた。脇を締めてグラスをゆらゆらさせると、また笑った。
「また怒ったふりしてぇ」
言い終わるが早いか、恭子はグラスを口元まで持っていった。が、グラスの縁が新たな口紅の跡をつける前に夏海はグラスを取り上げた。恭子が不満いっぱいの声を上げたが、夏海はその声に耳を貸そうともしなかった。彼女はそのまま緩やかな身体の曲線を波打たせるように歩き出し、二人のやり取りを心配そうな面持ちで見つめていた年下の男性にグラスを差し出した。
「預かっといて」
呆気に取られていた恭子は納得がいかないといった顔で両足を踏ん張った。
「ひど~い、まだ酔ってないのにぃ~」
グラスを胸元に預けて夏海は振り返った。しっかり立っているつもりなのだろうが、恭子の足元はおぼつかない状態だった。大声を上げただけで綺麗に染められた茶色の髪が鎖骨の張り出したところで左右に揺れていた。夏海はそ知らぬ顔で首を傾げて見せた。
「少し座って休んだらどう?新しいボトル開けてくるから」
恭子はソファーでじゃれあう男友達を見て人差し指を唇に添えると、「早くしてね」と言残し、ソファーの周りに集まる女性達の間に割り込んでいった。
長い吐息を漏らし、夏海は談笑しつづけるゲスト達の顔を見回した。
真っ先に招待状を送った相手はまだ姿を現していないようだった。門番をしている後輩達にもその相手だけはドレスコードをチェックせずに通すよう口酸っぱく言い含めて置いた。準備は万全だった。
招待状にも自分の気持ちをしたためた手紙を添えて置いた。
来て欲しい。会いたい。顔が見たい。
望んでいることはたったそれだけだった。だが、ほくろの数まで当てられるくらい見染めた顔は窓の近くのソファーにもAV機器を収納している棚の周りにも見当たらなかった。
彼女は廊下へと続くドアに視線を投げた。
心の中で数を数えてみるが、痩せたあの身体が煌びやかなドレス達の合間を縫ってリビングに踊り出てくることはなかった。主役はカクテルグラスを両手で支え、項垂れた。踵が板張りのフロアの上に重い音を一つ立てた。ウッドベースソロにのせてボーカルの声が跳ね、会話が重なり合う中、その足音はひっそりと消えていった。