waiver the invitation ~ 序章
朝夕の気温が肌に冷たく感じられるようになる季節がまた巡って来た。
十時を回った頃、ベッドルームはカーテンの隙間から差し込む暖かな光に反して、ひんやりとした空気に包まれていた。部屋の一面に添って置かれたベッドの上で赤い水玉模様に覆われた布団カバーが盛り上がった。イケアで良く目にするタイプのカバーだった。その寝具に包まれているこの部屋の住人が寝返りを打った。窓の外で雀が囀る声がくぐもって聞こえた。
何の変哲もない休日。
惰眠を貪る遅い朝の一幕であった。そういう時に限って必ず何かが邪魔をするのはある意味パターンといっても良かった。
布団に埋もれた耳元に大きく鳴り響くチャイム音が聞こえた。布団が枕の方へ引き寄せられてその音を遮断しようとした。しかし、その大きなチャイム音は再びベッドルームを突き抜けてきた。
暫しの間を置いて憤然とした声がベッドから聞こえた。それを窘めるようにもう一度チャイム音が飛び込んできた。布団がいきなり跳ね除けられた。
「はいはい、今行きます!」
一回りサイズの大きいロングスリーブシャツにスウェットパンツを履いた女性が苛立ちを露わにした足音と共にベッドルームを横切って行った。茶色に染められた長髪は寝癖でボサボサになっていた。それにも構わず女性はユニットバスの前を通り過ぎ、玄関のロックを外した。
思いドアを勢いよく開けようとしたが、チェーンロックの鎖が張り、ドアは動きを止めた。女性は舌打ちした。昨日帰ってきてチェーンロックまで掛けた記憶が全くなかった。
「中山さんですか?」
ドアの隙間から緑色のキャップを被った青年の顔が現れた。胸元には黄色い下地に母子の猫が描かれたロゴがプリントされていた。中山と呼ばれた女性はまだ完全に開いていない目で相手を睨みつけた。
「はい、そうですけど?」
「お届けものです」
「お届けもの?」
女性は首を傾げた。全く思い当たる節が無い。だが、彼女はふっと我に返って一言謝りを入れると一旦ドアを閉めてチェーンロックを外した。再びドアを開け、半開きの状態で身体の上半身を外に出した。ユニフォーム姿の青年は届け物の伝票に視線を落としていた。
「根岸様からのお届けものです」
「根岸…?」
女性は再び首を傾げた。パッと思い当たるのは後輩の名だったが、こうやって突然届け物を送りつけられる経緯が全く分からない。配達人はそんな彼女の頭の中で逡巡する疑問など意にも解せず、胸元のポケットからボールペンを抜き取った。そうして伝票の控えを女性の前に差し出した。
「ここの受領印にサインをお願いします」
「あ、はい」
女性は受け取ったボールペンで自分の名字を受領印欄に書き入れると控えを相手に返した。青年は伝票を受け取り、メール便の封筒を女性へ手渡した。「ありがとうございました」の一言を後ろ手に閉めるドアの音で遮り、女性は手狭な六畳間へ戻り、パソコンのディスプレイが置かれた机の上に封筒を置き、ミシン線に沿って封を切った。封筒を傾けると中から滑り落ちてきたのはCDケースだった。女性は封筒の中に手を突っ込んでみたが、それ以外のものは何も入っていなかった。
女性は溜息をついて机の片隅に置いてある充電器から自分の携帯を手にした。連絡先をローミングし、彼女は通話ボタンを押した。呼出音が鳴っている間、彼女は布団カバーと似たデザインのカーテンを押し開いた。眼下には殺風景な公園が寝そべっているばかりだった。ようやく相手が通話ボタンを押した。耳元には雑多な音が響き出していた。
「はい、根岸です」
「おはよう」
「…おはようございます」
「で、いきなり何なの?」
「届きましたか?」
「随分なご挨拶ね。こっちは安眠を妨害されたっていうのに、出てくる言葉と言ったら、『届きましたか?』の一言だけなの?」
「すみません、唐突過ぎましたね」
「当り前でしょ。一体何考えてんのよ?」
「時間が無かったんで」
「時間?何の話よ、それ?」
「ちょっと、どうにも身動きが取れない事情に陥ってしまったんです。詳しいことは話せないんですけど」
寝間着姿の女性は開け放った窓のサッシに肩を預けた。
「それどういう意味?何なの、その『身動きが取れない事情』って?」
「とにかく時間が無いんです。中山先輩しかこんなこと頼める人居なくって」
「はぁ?これ以外にもまだ私にやって欲しいことがあるわけ?」
「実はパーティーに行ってもらいたいんです」
呆れたと言わんばかりに顎が落ちた。
「あのね、私は根岸君の便利屋じゃないのよ?」
「もちろん無理を承知で頼んでいます」
「いい?日頃のことが無かったら私こんな頼まれごとなんてしないんだからね?」
「知ってます」
女性は溜息交じりに所々跳ね上がった前髪を掻き上げた。
「で、そのパーティーっていつなの?」
「今夜です」
思わず笑ってしまった。
「ちょっと、悪ふざけが過ぎるんじゃないの?今日?夜?私の予定もお構いなしに?」
「すみません、本当に悪いと思っています」
「これ一生物の貸しだからね?分かってる?」
「はい、分かっています。こんな無茶お願いするの、最初で最後ですから」
何か引っかかる言い回しだった。
「で、どこに行けばいいの?」
「ケースの中に招待状が入っています。メモ紙に住所を書いておいたんで、その場所に行ってもらえれば」
女性はCDケースを開けた。中には招待状が挟まっていた。そして根岸の丁寧な筆跡で書かれたメモ紙が二つ折りにされて招待状の裏側に隠れていた。女性は招待状を翳してみた。誕生日パーティーらしい。女性は敢えて尋ねた。
「相手は誰かしら?」
「俺の彼女です。仁科夏海さん」
「ここが自宅なのね?」
「そうです。大きな邸宅なんで間違えることは多分ないです」
「もう一つ良い?」
少し間を置いて「ええ」という返事が返ってきた。
「根岸君がこれを直接渡してあげることができないのは何故なの?」
「…俺から渡すと彼女に真意が伝わらないからです。彼女にしか分からないこと。それを良く理解してもらいたいんです」
「じゃあ、これは他の誰かが見てもあまり意味が分からない代物ってわけだ?」
「そうなりますね」
「分かったわ。課題の編集済ませてから行くことになると思うけど、それでも構わない?」
「ええ、そこは先輩におまかせします」
「そう、分かった。引き受けてあげる」
「ありがとうございます。それじゃ」
そう言い残して相手は電話を切った。通話終了と共に携帯のディスプレイがメインメニューに戻った。女性は携帯を机に置くと左手に持ったCDケースを眺めてみた。後輩の意味深なコメントが頭の片隅に引っかかっていた。
…最初で最後って、嫌なこと言うわね。
女性は背の低いドローアーの上に鎮座している液晶テレビとDVDデッキを見つめた。ケースを左手の掌の上に軽く叩きつけた。
さわりだけでも観てみようか?
そういった誘惑が頭を過って行った。だが、彼女は軽く笑ってその選択肢を切って捨てた。今日もやることがある。そして頼まれごともあるのだ。いつまでも身体のあちこちに残る酔いをそのままにしておくわけにはいかない。
中山梢は大きく息を吸い込み、ケースを机に置いた。そして寝間着代わりの長袖シャツをベッドの上に脱ぎ捨てるとユニットバスの方へ歩いて行った。トップスを纏っていない綺麗な白い背中に豊かな長髪がふさりと揺れていた。