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おにぎり屋ふくふく

おにぎり屋ふくふく|あの日、泣けなかったきみへ

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/06

その日は、どうしても泣けなかった。


「ごめんなさい」

ちゃんと頭を下げた。


言葉も間違っていなかったと思う。


「うん、大丈夫だよ。次気をつければいいから」


上司は、やさしく言った。

周りも、特に責める様子はなかった。


それなのに――

胸の奥に、なにかが残っている。


席に戻っても、仕事に手がつかない。

画面を見ているのに、何も頭に入ってこない。


(なんでだろう)


責められたわけじゃない。

怒られたわけでもない。

なのに……。


帰り道。

気づけば、いつもより歩くのが遅くなっていた。


スマホを見る気にもなれず、ただ、足だけが前に出る。


泣きたい、のかもしれない。

でも――

涙が出ない。


そのことが、余計に苦しかった。

ふと、足が止まる。


見慣れない通り。

小さな灯り。


――おにぎり屋「ふくふく」


やわらかい光と、あたたかい香りが、外まで流れてきていた。


(……なんだろう)


理由は分からない。

でも、その場から動けなかった。


からん、と小さな音。

気づけば、扉を開けていた。


「いらっしゃい」


やさしい声。

カウンターの向こうに、あたたかい顔のおばあちゃんが立っていた。


「えっと……」


言葉がうまく出てこない。


「初めてかい?」


こくり、と小さくうなずく。

そのとき。


「にゃ」


足元で、小さな声。

黒猫が、こちらを見ていた。

じっと、まっすぐに。


「……」


なぜか、その視線から目をそらせなかった。


「おにぎり、どうする?」


「……あたたかいの、ください」


やっと出た言葉。

ふくさんは、にっこり笑った。


「はいよ」


手の中で、おにぎりが形になっていく。


やわらかく、包むように。

差し出されたそれは、まだほんのりあたたかかった。


クロが、そっと隣に座る。


何も言わずに。

ただ、そこにいる。 


――ひとくち。

その瞬間。


「……あ」


こぼれたのは、声だったのか、


それとも――

涙だったのか。


「……あ」

気づいたときには、ぽろり、と涙が落ちていた。


自分でも、少し驚いた。

泣くつもりなんて、なかったのに。


もうひとくち、食べる。

あたたかい。


それだけなのに、胸の奥にあったものが、じんわりとほどけていく。


「……おいしい」


声が、少し震えていた。


クロは、何も言わずに隣にいる。

ただ、そっとしっぽを揺らしている。


「どうしたんだい?」


ふくさんの声は、変わらずやさしい。


「……ちょっと、仕事で」


うまく説明できない。

でも、それでよかった。

ふくさんは、ゆっくりとうなずいた。


「そうかい」


それだけだった。

それ以上、聞かない。


そのやさしさに、また少し涙が出そうになる。


「ちゃんと、やったんです」


ぽつりと、言葉がこぼれる。


「謝って……気をつけますって言って……」


手の中のおにぎりが、少しだけにじむ。


「でも、なんか……」


うまく言えない。

言葉が続かない。


クロが、少しだけ近づいた。


足元で、静かに座る。

何も言わずに、ただそこにいる。

その気配に、ふっと息がゆるんだ。


「……いいんだよ」


ふくさんが、静かに言った。


「ちゃんとやったなら、それでいい」


その一言が、胸にすっと入ってくる。


さっきまで引っかかっていたものが、

すこしだけ、軽くなる。


もうひとくち。


「……あったかい」


今度は、はっきりと言えた。

涙が、またひとつ落ちる。


でも、それはさっきまでのものとは違っていた。


少しだけ、軽い。

食べ終わるころには、呼吸も落ち着いていた。


「……ありがとうございました」


自然に、言葉が出る。

ふくさんは、にっこり笑った。


「またおいで」


クロは、いつのまにか少し前に出ていて、こちらを見上げている。


「にゃ」


その声に、少しだけ笑ってしまう。


「……また来るね」


店を出ると、夜の空気がやわらかく感じた。


来たときと、同じ道のはずなのに。

足取りが、少しだけ軽い。


胸の奥にあったものは、消えたわけじゃない。


でも――

ちゃんと、ほどけた気がした。


振り返ると、小さな灯り。

おにぎり屋「ふくふく」。


その中で、黒猫がしっぽを揺らしているのが見えた。


その日は、ようやく――

少しだけ、泣くことができた。


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