17
「――陛下!」
後ろからエメリアの悲鳴が聞こえた。
途中で軌道を変えた杖がギルフォードの利き腕を打ちつける。じんとした痺れがくるが、こんなもの、怪我にも入らない。
「も……申し訳ございません! 陛下にこのような無礼をはたらくつもりでは……っ」
いつも笑っていて腹の中を見せない公爵が、真っ青になって杖を投げ出す。廊下に手をついて平頭した。
打たれた腕を確かめるエメリアを制して、ギルフォードは公爵に向き直った。
「俺にはしないが、皇妃には『教育』するつもりだと?」
「そ、それは」
「エヴァン卿にしては珍しく詰めが甘いな。こんなところで立ち話とは」
「っ」
平頭したままの公爵が肩を震わせた。
「わ、わたくしとしましては、立場ある娘がまた逃げ出して陛下にご迷惑をかけないようにとの配慮でして……」
その言葉は本質からずれている。
そもそも彼はすでにエメリアを公爵家の系譜から外し、それを国としても受理した。
「それは関係のない貴公が気にすることではない」
「……」
公爵に負けず青ざめたエメリアを振り返る。その細い手を取った。
「怪我は」
問いかけに彼女はふるふると首を振った。
確かにどこも怪我はなさそうだと判断して、公爵を見下ろした。
「貴公の長年の働きを考慮して今回だけは不問にする。だが次に妻や――娘への侮辱を口にすれば容赦はしない」
「……はっ」
頭を下げたまま公爵が返事をした。
ギルフォードはまだ戸惑うエメリアの背中に手を置いて、その場を後にした。
俯きがちだったエメリアが口を開いたのは、角をいくつか曲がったところでだった。
「……いつから、話を聞いていたのですか」
「途中から」
『たかが妖精の愛し子を』辺りだが、続く言葉が言葉だけにそれを今言うのは無粋すぎる。同時に、皇太子への侮辱―に他ならない言葉を繰り返すつもりもない。
エメリアが大きく息を吐いた。
「ありがとうございました。私が何を言っても父は考えを変えないでしょうし」
「だから、わざと打たれるつもりだったのか」
「あら、見抜かれていましたか」
いつものような軽い言葉に、ギルフォードも口の端を持ち上げた。
「いえ、それよりも陛下の傷を冷やさないと……」
「これくらい気にしなくていい」
杖の素材は硬いものだが、打つ力はたかがしれている。
だが何度も叩かれれば骨が折れてもおかしくない。それが、か弱い女子どもなら尚更だ。
――『教育し直してやる』、か。
公爵家で、あの腹の見えない父の元でエメリアはどんな時間を過ごしてきたのだろう。
それを鑑みることもできずに、ただ公爵家との定められた結婚に反発して、彼女を冷遇していた自分を改めて恥じる。
「……エメリア」
「はい」
まっすぐに見返す、緑の目に束の間見惚れる。
ギルフォードは口を開いた。
「今までのこと、すまなかっ……」
「あー!」
そこでエメリアは大声を出した。
思わずびくつくギルフォードの前で、エメリアが廊下の端に膝を突いた。
「この子!」
「……もきゅ」
エメリアが示す先には、小さな埃の塊のような生物がいた。埃には大きな目が一つついている。
「一瞬だけ見えたのですが、この子が父の杖にぶつかって軌道を逸らしてくれたんです」
「もきゅ」
埃が少し胸を張るように大きくなる。
エメリアが手を伸ばすと、埃はそっとその白い手のひらに乗った。
「……」
確かにギルフォードも視界の端に捉えていた。黒いボールのようなものが杖にぶつかるのを。
……おかげで、避け損なって腕に当たったが。
そんなことはさておき、エメリアはその埃に微笑みかけた。
「ありがとう」
「もきゅもきゅ」
一つ目の埃は嬉しそうに笑う。ころころと手のひらで転がった。
「もちろん陛下も。庇ってくださってありがとうございました」
そう言って微笑むエメリアは、窓から差し込む光を受けてまるで女神のように見えた。
――ぐっ。
心臓が妙に脈打つ。そんなギルフォードのことなど気づいた様子もなく、エメリアは埃に視線を向けた。
「でもこの子、なんでしょう……初めて見ますがフレンの妖精の誰かかしら。教授も来てますし聞いてみ……」
そこでふわっと風が吹いて、エメリアの手の上にいた埃が宙を舞う。
そのまま、廊下の影に隠れて見えなくなった。
◇
――行っちゃった。
少し残念だが、あの子のおかげでうまく話が逸れてエメリアは心の中で息を吐いた。
ギルフォードが何かを謝ろうとしているのはわかった。
だから止めたのだ。いや可愛い黒い埃に気を取られたのはもちろんなのだが。
赦しを乞うギルフォードの姿など、想像すらしていなかった。
冷徹で優秀でなんでもできてしまう彼も、同じ人間なのだと最近実感している。
けれど申し訳ないが、彼に謝られるつもりはない。身重で逃げたことも、謝る気は無かった。
ギルフォードに心からの謝罪をされれば、エメリアは許してしまうかもしれないから。
――それだけはダメ。
許さなくていい。エメリアがギルフォードの隣にいるのは、あくまでもフレンの為であるべきだ。
もし、ときおり寂しそうな顔を見せる彼に心を寄せてしまったら――
『どうして言うことを聞かないの!』
ギルフォードの気を引こうとフレンを叩く自分の図が、やけにリアルに脳裏をよぎる。
先ほどの父と同じ表情で。
父と同じことを。
――それだけは、絶対に。
「仕立て屋の服はどうだった」
問いかけられてはっと我に返る。
仕立て屋の手配と服に礼を言って、エメリアは言葉を続けた。
「ですが、三人お揃いはちょっと……」
「!」
ギルフォードが驚いた表情でこちらを見る。
やはり奇抜な発想と思っていなかったらしい。彼もきっと、家族というものがわかっていないのだろう。
――先が思いやられる。
ひとまず妙な角度から心をざわつかせるのは、本当にやめてほしいものである。