11
――父親とは、何をすればいいんだ。
執務室で仕事をしながら、ギルフォードは苦悩していた。
己の父……先王のことはあまり知らない。
公務で一緒になることはあっても、ギルフォードは父に抱かれたことも、遊んでもらったこともなかった。
母は世話は乳母に任せて、社交界を遊び回っていた。
王族の夫婦、親子というのはそういうものだと言い聞かされていたし、それでいいと思っていた。
皇太子の母という地位に甘え、湯水のように金を使った母は、父とともに視察に出た馬車の事故で亡くなった。
ギルフォードが十五歳のときである。
彼はその後、兄弟との熾烈な王位争いを経て皇帝の座についた。
「……」
ふと窓の外を見ると、ちょうどエメリアが中庭に出てくるところが見えた。
木漏れ日に、艶やかなプラチナブロンドの髪が光る。
彼女は中庭のテーブルセットに、どっさりとクッキーの積まれた皿を置いた。
その彼女に、講義を終えたらしいフレンが嬉しそうに駆け寄る。
「…………」
フレンの頭を撫でる、慈愛に満ちたエメリアの表情は、ギルフォードには当たり前だが向けられたことはない。
王宮に連れ戻したからといって、エメリアがギルフォードに心を許すと思っていたわけではなかった。
それでも彼女は紛うことなくこの国の皇妃であり、次期皇帝の母であり、自分の妻だ。
何かして欲しいというわけでもない。
政務は自分一人で事足りる。
『家族』など必要ないと思っていた。……けれどフレンとともにいるエメリアを見ていると、そんな自分が揺らぐ。
こんな感情は初めてだ。
赤子の頃のフレンはどうだったのだろう。
育てるのに一番大変な時期であるとは知っている。それでも健やかに育っているフレンの姿がその答えだ。
そんなふうに見ていた中庭に、イヴァンが現れたのはそのとき。
その瞬間、ギルフォードはばきりと持っているペンを折った。
――なぜ、舞踏会に出た後、隣国の王太子とベッドを共にする事態になる。
しかも、エメリアは朝の忠告などまったく気にしていないようにイヴァンに話しかけた。
――まったく、警戒心がなさすぎる。
承認のサインを待つ文官に待つよう言って、ギルフォードは部屋を出た。
◇
「ようせいさんは、もりのおくにある、せかいじゅから生まれるそうです」
フレンは嬉しそうに、教授から聞いた話を教えてくれた。
大量につくったクッキーを、講義を終えたフレンと中庭で一緒に食べる。
今までとはまったく違う王宮暮らしがフレンにどう影響するのかと心配していたが、子どもらしい順応力の高さは惚れ惚れするほどだ。
妖精学の教授は、「学園で用事があるので」とクッキーをお土産に帰っていった。
「……失礼します」
そこにイヴァンがやってきた。
視察が終わる時間を見計らって、お茶の時間に呼んだのだ。エメリアは立ち上がって彼を迎えた。
「よかったら、クッキーをつくったのでどうぞ」
「! もしかして例の」
「ええ。気合が入って、少し固いですが……」
「これが……皇妃殿下のクッキー……」
お皿に積まれたクッキーを前に、イヴァンが呆然と呟いた。
その彼の肩に、大きな手が置かれた。
ギルフォードだ。
珍しく少し息を切らした彼を見て、エメリアは首を傾げた。
「散歩ですか?」
「……ああ」
――昼間に執務室を出るなんて珍しい。
侍従がすぐに椅子を持ってきたので、四人で一つのテーブルを囲む形になる。
「……」
真ん中にでんと置かれた山盛りのクッキーを、ギルフォードがひとつ取った。
「陛下、甘いものはお嫌いでは……」
エメリアが止まる間もなく、さくりと食べてしまう。
――まぁいいか。
たくさんつくったので、食べてもらえるとありがたい。
折角なので、エメリアはそっと隣の席のギルフォードに話しかけた。
「少しいいですか」
話をするにはいい機会だ。朝はそれどころではなかったし。
「……村の方には、本当に何もしていませんよね」
エメリアの言葉に、もうひとつクッキーを持ったギルフォードの眉が持ち上がる。
「ああ。次にまた逃げたらどうするかわからないが」
――またそんな言い方を。
王宮から逃げた後にかくまってくれた村は、王都から遠い。
護衛がいつも付いていて、城から出るにはギルフォードの許可がいる今のエメリアには、確かめる術がない。
その後は会話はなく、誰も話さないまま黙々とクッキーを食べる時間が過ぎた。
「……あ、あの」
しばらくして口火を切ったのは、イヴァンだった。
彼はギルフォードを見上げた。
「陛下、もしお時間あれば、剣を教えていただきたいのですが……!」
イヴァンが必死に言葉を続ける。
「皇帝という立場で自ら先陣を切る陛下の話は、わが国でも知らない者はありません。ぜひご教授願いたいのです!」
「私に人に教える技量はありません。イヴァン殿下にも師はついているでしょう」
「……いえ、まだ早いと言われて……なにも」
――がんばれ殿下!
きっと前から言いたかったことなのだろう。珍しく興奮しているイヴァンを、エメリアは握りこぶしをつくって応援した。
しかしギルフォードは表情を変えない。
絶対零度の視線を前に、みるみるうちにイヴァンの勢いもなくなってきた。
「……他国の者に、技を授けるのは気が進まないかもしれません、が……」
「イヴァン殿下が強くなるのは、同盟国として歓迎すべきことです。ですが、お預かりした殿下に怪我をさせることにもなりかねません」
「ご心配なく」
ギルフォードの言葉にイヴァンは自嘲の笑みを浮かべた。
「怪我で死んだ方が、喜ぶ者も多いでしょう」
「……」
隣のエメリアには、ピクリとギルフォードの手が動いたのがわかった。
彼は束の間黙って何かを考えている。
「陛下、私からもお願いします」
エメリアも援護する。
あの思慮深いイヴァンがここまで言うのを応援したい気持ちと、……何度も本国で暗殺されかけている彼のために。
ギルフォードはしばらくして、うなずいた。
「では、……少しだけなら」
「――ありがとうございます!」
そのやりとりを見ていたフレンが手を上げる。
「お、とうさま、わたしも、もっとつよくなりたいです!」
「……――」
「よし、競争だな」
「まけません!」
固まったギルフォードの前で、イヴァンとフレンが晴れやかな顔で言う。
一方のエメリアも目をぱちくりした。
――今、フレンがギルフォードを『おとうさま』と呼んだ!