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7話 彼岸

≧≧


 私は滅多に夢を見ないが、全くのゼロという訳では無い。そういう時は大抵人が死ぬタイプの悪夢か、非現実的に、現実的な情報が交錯する明晰夢だ。


 どうやら今日は、その後者らしい。


 意識が発生したのは、あの中学校の校舎だ。

 3階の音楽室前の廊下で私は突っ立っていた。

 髪は肩に付かないくらいのボブで、懐かしい気持ちに陥る。


 外は美しい茜色に包まれている。


 嫌な予感がする。


 ここに居てはならない。私には真っ先にやらねばならないことがある。どうすればいいか私は知っている。走り出したい。そうしなければならない。


 その最初の一歩が、あまりにも重い。


 脚の中心から鉄心で地面に固定されたみたいに。

 真の勇者以外には抜けない聖剣のように。

 私の足は微動だにしなかった。


 私の喉から、無意識に聞いたことも無い音が出る。

 それは言葉にならない叫びで、聞いた事のない言葉だった。


 脚より上だけ仰け反って、きっと不格好に叫んだ。

 私の身体は、私の指示を無視して動いていた。

 

 それから少しして、途端に足が軽くなったような気がした。恐る恐る、一歩目を踏み出す。


 急に軽くなった反動で身体が前のめりになり、躓きかける。それでも、ここをすぐに抜け出さなければならない。


 あの交差点へ向けて、私は走り出す。

 私が地に足をつける度、地面が波打つように動く。

 まるで沼地の上を走っているような感覚で、少しでも停滞すれば地面に飲み込まれそうな気がした。


 階段を駆け下りて、廊下を全速力で走る。

 初めての体験だ。あの頃は怒られるから、廊下を走ったことなんて1度もなかった。


 でもそれには爽快感なんてものは無く、建物が崩壊するような音や足元から発生する波で相当気分が悪くなる。

 

 なんとか正門から学校を抜け出した頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。まるで、先程までの夕焼けなんてそこには存在しなかったかのように。


 辺り一面が黒で覆い尽くされている。


 なぜだか空気は清々しいほどに澄んでいて、初めて空気を美味しいとすら思った。


 感覚は現実と等しいものになり、生暖かい空気に、自分の荒くなった呼吸音まで全てが聞こえてくるような気がした。

 不自然な点があるとすれば、息遣いは荒くても、その苦しさを感じていないということだろうか。


 もう1年くらい通っていない、昔の通学路を全速力で逆走する。時々はち合わせて、おはよう、こんにちはと挨拶を交わしていたおばさんの家、いつも通る度に威嚇してくる犬が2匹居る家、昔の友人の家。


 結局、そんなのはどうだって良くて、私はただ無心で走り続けるしかなかった。


 

 刻一刻と18時55分は迫り続けるのだから。



 あの交差点が見えた。どうやら間に合ったらしい。

 全てを知った私は。

 現実では変えられない運命に、この刹那の瞬間だけでも抗うことができるのだろうか。


 私の来た道から、懐かしい顔が見えてくる。

 私がこの世で最も愛した、千夏と言う少女だ。


 声をかけたい。

 今すぐにでも彼女を止めなければならない。


 でも、私の身体は動かなかった。


 声を上げる事すら叶わなかった。


 ただ彼女は健気に横断歩道の前に立ち尽くして、信号が変わる瞬間を待っていた。その表情は読みにくい、何とも言い表せないものだった。


 信号が変わるまでの時間は異様なまでに長く感じられた。1分にも満たないその時間は、永遠に過ぎ去るべきでは無かったのだから。

 

 信号が青色に切り替わって、千夏が歩み出す。


 視界にもやがかかって、ただ彼女の足音と、歩行者用信号機の音響だけが木霊する。



 奥から、ものすごい勢いでトラックが走ってくる。


 

 止めなきゃ。


 なんで?


 なんで動かないの?



 来るその瞬間は、それまでよりも更に遅く感じた。

 スローモーションになってから、私の視界のモヤが少しだけ晴れた。

 

『18時55分』


 私と千夏の目が合うその瞬間。

 その表情は、私とは正反対だ。


 突進してくる鉄塊を認知して尚、彼女は不敵に笑みを浮かべた。



 分からなかった。


 彼女がなぜ死ななければならなかったのか。

 その答えは、また、分からなくなった。


 

 それどころか、私は彼女の事を何も分かっていなかったようだ。



 鈍い衝突音がして、やがて物体が地面に叩きつけられた鈍い音が聞こえた瞬間、私の意識は現実へと引き戻された。


 

 これは夢だ。夢のはずなのに、私の感情を揺れ動かすのには充分なほど刺激的で、ただの夢とは断言できないような気がした。


 

 酷く汗をかいた。

 不安か、恐れか、はたまた悔いなのか。

 

 涙目になっているのが分かる。


 

 夢中の死の間際、千夏が笑った理由を知りたい。


 

 千夏の死因は事故だ。

 赤信号を無視したトラックによる、人身事故だ。


 確たる所からの既出の情報で、彼女は紛れもなく、完全に、事故で亡くなったはずだ。


 それなのに、私はそれを今までどこか信じられないままでいた。その疑念が生み出したフィクションなのだろうか。私には断言できない。


 勿論、今回見たのは夢だ。


 その夢の中での演出も、事故だったはずだ。

 それでも一つ、絶対的に不自然な事があるんだ。


 私には、この事故が千夏によって創り出されたようにしか、考えられなかった。


 もし彼女が死を望んでいたのであれば、私はなぜそれに気がつけなかったのだろうか。


 あの日、もし私が部活を休んでいなければ、本当に今も私の隣に千夏は居たのだろうか。


 

 あぁ、どうせ何もかも机上の空論に過ぎない。

 今は考えるべきじゃない。


 私の直感がそう言っている。

 

 どうせ私は、事故で亡くなった千夏の分まで沢山

生きるんだ。

 


≦≦


 

 コップ一杯の水を飲んで、少し冷静になった。

 鼓動の音が早すぎて、立っているだけで聞こえてくるが、ちょっとすれば落ち着くだろう。


 それより、もっと焦るべきことがある。

 時計が7時を指している事だ……。


 まあ、昨日は色々あって疲れた上に寝る時間も遅めだったし、おまけに濃い夢を見たのだから、仕方がない。でも、汗でびしょびしょだからシャワーも浴びたいのに、いつも通りの事をできるような時間がある訳もない。


 とはいえ、学校で誰かに、なんかあいつ汗臭くない? とか噂されるよりはご飯を抜いた方がマシな気がしたので、軽くシャワーを浴びることにする。


 まあ、元々朝昼は面倒くさくてご飯なんて食べてなかったんだけど、一回栄養失調で倒れた時があって、それからは悪目立ちするくらいなら食べようというくらいのマインドだった。


 ふと、鏡に映る自分の顔を見る。

 少しクマができていて、充血も見られる。かなり眠りも浅かったのだろう。


 夢に千夏が出てくる度、いつもこうなってる気がする。それは必ず悪夢で、千夏か私が絶対に死ぬ運命を辿る。一度だけ、私が千夏を殺した夢もあった。


 夢は夢だ。

 理由を深追いする必要なんて何も無い。


 それでも、夢はメッセージ性を持っているかのように人間に対して振る舞う。

 正夢だとか、夢占いだとか、そんな概念が産まれているくらいに、人間はその認識にまんまと騙される。


 結局、本来無機質なものに意味を持たせるのは人間で、それを有効か否か決めつけるのもそいつ次第だ。


 近頃は酷く感情的で、千夏についても、自分の思考部分についてもよく周りから触れられた。

 このことがトリガーとなって今回の夢を見たとすれば、私はこの夢に大きな意味を持たせたい。


 私が私を保つための意識だ。

 


 支度がほとんど終わって、最後に歯を磨いてうがいをしている時、玄関の扉が開く音がした。



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