第八十一話 十面埋伏の計という欺瞞
――程昱
日輪を掲げる夢を見て幾日か。
我が蒼天は孟徳公のもとにあれり。
籠城戦において味方に死肉を渡し、馬肉と偽ることも容易い。程昱の方針は極めて単純だ。
唯勝つ。
如何に汚名を受けようとも、斯様に忌み嫌われようとも、最後に立っていた者が勝利者であり、歴史を紡ぐ権利を持つ。
その理を知っている彼は、戦場という過酷な環境であっても決して揺れることはない。百名を生かすために十名を殺す。一瞬で判断できる男である。
現代基準で190センチ近くある長身は、武にも優れている。
生半可な刺客や反徒では相手にすらならないだろう。
故に程昱は鈍感だった。
人の心には感情が絶えず揺れ動き、理外の行動をとる可能性もあることを読み切れていなかったのだ。
「白馬港が攻撃を受けている由。于将軍、作戦通りに袁家の牙門旗へと攻撃を仕掛ける模様です」
「全て予定通り。曼成殿には少しでも長く持ちこたえてもらうとしよう。その間に我らは顔良の後背を討つ」
「はっ、万事抜かりございません」
程昱・魏続・宋憲。及びその支隊が集結し、反転して白馬へ向かう。
分断は成れり。あとは突出した猪武者を狩るのみ。程昱は既に顔良のことは頭になく、どうやって袁煕の本隊を相手にするかを考えていた。
「遅いですね……」
「うむ? どうした」
側近がつぶやいた言葉に、何やら感じるものがあったのだろう。程昱は整った面持ちをこわばらせ、問いの言葉を投げかけた。
「いえ、魏続将軍がまだお見えになられていないのです。宋憲将軍は既に先手として出立されましたが……」
「旗は確認したのだろう。何ら問題なく出陣したのではないか」
「将軍本人をまだ誰も見ていないという噂が流れてまいりまして。風説を流布するのは如何なものかと思い、黙っておりました」
「なぜそれを先に言わぬ!」
攻撃部隊を司る将が現場に来ていないなど、結末は決まっている。
殺されたか、裏切ったか、罠にはまって不明になっているか。
恐らくは一つ目だろう。程昱は頭の中で魏続の情報を消去しつつあった。
死人に裂く時間はない。魏続が戦死したとの前提で策を練り直す方が先決である。
「宋憲将軍には攻撃を続行せよと。支隊を全て投入し、顔良を圧殺するのだ」
「馬を走らせます。安んじてお待ちくださいませ」
伝令が小柄の馬に跨り、朝靄かかる戦場を駆けた。
「程軍師、我らはどのように動きましょうか」
側近が怪訝な表情で訊ねてくる。さもありなん、程昱は既に別のことを考えており、その視線は胡乱げに後方を見つめていたのだから。
「我が部隊は于将軍と合流し、延津に向かう。そこで荀の坊主と共に協議する故、急ぎ準備せよ」
「な、お待ちください! 魏続将軍の生存をお確かめにもならず、宋憲将軍は前曲を連れて攻撃に向かっています。これは重大な背信行為では……」
「最終的に我らが勝利を得ればそれでよいのだ。尊い犠牲であったと割り切るしかなかろう」
「貴方という人は……!」
気色ばむ側近には目もくれず、程昱は繋がれている馬へと向かう。
既に白馬方面での勝勢はない。
于禁は軟弱な精神の持ち主で、大将の器ではないだろう。李典は生真面目に任務にあたるだろうが、一番先に死ぬ男だ。
魏続・宋憲に至っては軍門に降って短い。ならば《《いなくても》》戦力は変わらない。
強いて挙げればかの髭男だが、音沙汰がないということは、どこかで屍を晒しているのだろう。ならばこれも数える必要はなし。
程昱の頭脳はそろばんの珠を弾くように、パチパチと戦局を整理していた。
延津にいる曹丕・楽進・張遼と合流できれば、何も十面埋伏に拘る必要性はないだろう。
十面埋伏の計。
それは乱れた敵集団をめいめいに襲い、息をつかせず囲んで圧殺する策だった。
しかし裏の顔は違う。
『程昱が』危険を予測した場合、彼らを『撒き餌』として生き延びるための生贄でもあったのだ。
「于将軍と合流し、延津まで逃げるには二日といったところか。どうした? ついてこぬと死ぬぞ」
「くっ……拝命しました」
味方を死地に赴かせ、自分は撤退する。
武士にあるまじき非道に、程昱の部下たちは動揺を隠せない。今や離反の気配まであるのだが、敵に囲まれているという現実は覆せない。
反乱を起こして勝ったとしても、袁家に攻められば死ぬ。それを理解しているから、部下たちは歯噛みするしかなかったのだ。
「さ、行くぞ。宋憲はどれだけ頑張ってくれるかの」
「もはや何も申し上げられませぬ。ご随意に」
「ん、そうか。分かればよろしい」
総大将を見捨てたとあれば流石に打ち首は免れない。
故に最低限の体裁を取り繕い、悠々と撤退を敢行する。
部下たちの心を置き去りにし、程昱は鼻歌混じりに馬を走らせていた。
――魏続
時間はさかのぼる。
魏続は程昱・宋憲との合流を目指し、ひたすらに暁の荒野を移動していた。
同僚の宋憲と共に、曹操の幕下へ降ったばかりだ。ここで一つ武功をあげることが出来れば、覚えがめでたくなるだろう。
聞き及ぶに、袁紹の嫡男である袁煕は間抜けな凡人であるとのこと。
ならば呂布の下で暴れまわった自分たちの経験が勝るだろう。
天下無双の勇者と轡を並べ、敵陣を騎馬で踏みにじったことなど数えればきりがない。
「運が向いて来たな。このまま河北の二枚看板とやらを討ち、返す刀で袁煕を倒す。さすれば俺も宋憲も孟徳公の下では安泰よ」
鍛えられ、篩にかけられた精鋭の陸戦部隊に、勇将・知将が綺羅星の如く。
その中で生き残りをかけるには、大きな戦果を示す必要がある。
「さて、そろそろ中間点のはずだな。小休止をとってもよかろう」
「承知いたしました。先頭部に伝を飛ばし、部隊を休めまする」
「頼むぞ」
呂布軍に居たときからの部下が、以心伝心に意図を汲んでくれた。
しかし十面における埋伏とは恐ろしいものよ。それも敵地で行うとは、曹操軍の心臓は鉄製であるのだろうか、と思考してしまう。
「よし、全員きちんと給水せよ。携帯食料は一気に食すでないぞ。腹がはちきれるからな」
軍の生活にも慣れたもの。自分の生存方法を他者へ教えることにより、より集団は強化されていくのだ。
宋憲とは夜通し語り合ったものだ。侯成将軍は今はご健在だろうか。陳宮殿は……
様々な出来事に想いを馳せるが、ただ一つ言えることがある。
自分は根っからの軍人であり、終生その生き方を変えられないだろう。
二度と暴君には仕えまい。梟雄と呼ばれようとも、孟徳公の政治は目を見張るものがあった。故に河南の地で天命を全うするのみ。
「む、なぜ部隊が止まらぬ。おい、命令は受けておるのか!」
「え、これは魏続将軍、どうかなされましたか?」
「先ほど小休止の命令を出したはずだ。貴様らの什長は何をしている」
「いえ……特にご命令は更新されておりませんが。小休止なさるので?」
怖気が走る。
呂布と一緒に戦っていた時も同じことがあった。飛ばしたはずの伝令が途中で捕殺されており、命令が一向に浸透しない事例だ。
「いかん、敵が来る。全軍方形陣を敷け! 襲撃にそな――」
あまりにも無造作に突き出された槍。
黒い外套に黒い覆面。
一身黒で包まれた男が目の前にいたのだ。
「ぬぐっ……がっ……」
「静かに討てとの命令だ。名乗らずに申し訳ない」
ずるりと槍が引き抜かれると、魏続の身体は糸が切れた人形のように崩れ、大地に倒れ伏した。
静かに沁み入って来たのは、趙雲の埋伏狩りである。
名を汚すことよりも、未来の主君の命を尊ぶことにしたのだ。
周囲の兵士を静かに始末している自軍が目に入る。
白銀に近い青と称された、常山の昇り竜。だがこの時は暗澹たる汚泥にまみれることを厭わない、名もなき刺客になったのだ。
黒竜の槍は魏続の率いる部隊を沈黙させ、次々に残党を狩る。
「このような囮に等しい配置をするとはな……敵の軍師は如何なる邪知暴虐な者であるか」
恥にまみれた身だからこそ、あえて述べることができる。
十面埋伏の計を発案した者は、生まれながらの邪悪であると。
趙子龍は馬に跨り、再び戦場を駆ける。
少数の捕らえた敵兵が述べるには、袁煕のいる陣に向かって、敵大将である于禁が進軍しているそうだ。
「この黒衣、脱ぐときは必ずや……屠る」
両軍の思惑は、大きく異なっていた。
されど、定まることはある。決戦を挑むのは延津であり、大金星である曹操の子息が詰めているのだ。
――曹丕
「ふ、見てくれだけは立派だが、中身が伴わぬ。愚かな袁の兵、生かす必要なし」
「殿下、ご再考を。活人こそが孟徳公の創られる未来では……」
「構わん。火を放て」
無念の臍を噛む張遼と、冷徹に炎を見つめる曹丕。
延津は多くの命を巻き込んで、大火を放っていた。
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