第八十話 日本で最も討ち取られた男、李典
―—李典
夜が明けた。
まったくもって使えない輩だった、と李典は苦虫を噛み潰す。
やれ軍神だの、大徳を守る青龍だのともてはやされていたのだが、あっという間に捕縛されてしまった。
所詮田舎に住む武辺者なぞ、正規の軍人に敵うはずもない。
「なぜ殿はあのような者を我らにお付けになったのか。せめて青州兵の一部隊でもお預け下さればよかったものを……」
于禁が守備する白馬港に到着した李典は、随時撤退してくる己の部下を収容し、再編成に追われていた。
退却時に小集団に分割したのが裏目に出たのか、部隊を落ち着かせ、規律を取り戻すには時間がかかりそうだ。
「ええい、静まれ! もうすぐ敵の本隊が来るぞ。斯様に無様な有様では、瞬く間に蹂躙されるに違いない。急げ、急がんかっ!」
将器というには十分な能力を持っている李典だが、それは防備がしっかりと固められている上での話である。
決められた道を走ることは得意だが、未確定な状況を操るには少々力不足だろう。
「于将軍は何をされているか。前衛が潰走したのであれば、疾く兵を補填するのが常道だろうに……伝令は走らせたのだな?」
「はい。しかし、于将軍からは何も音沙汰がありませぬ」
「我らだけでは敵を迎撃することは出来ぬ。しかし手を抜けば死か……」
忙しなく目を動かし、唾を飛ばしながら周囲の兵に指示を出す。
意気を上げるために叱咤激励をする必要があるが、李典には現状起こりうる襲撃に対して備える以外にない。
「櫓に弓兵を上げよ。投石兵は前列に、盾兵と共に行動するのだ! 矛兵は二列目に待機。正面と側面からの攻撃に警戒せよ」
「はっ!」
于禁殿は一体なぜ……李典はまだ思考の循環が出来ていない。
さもありなん。この時白馬港を守るべき于禁の手勢はこの時少数しか残っていなかった。
程昱の言を鵜吞みにし、本陣から兵士を分散させており、諸将を伴って各地に兵を分散させてしまっている。
「ご、ご報告でござる! 我らが本陣は手勢三百が詰めるのみ。于将軍の旗指物はあれど、お姿は見えず!」
「まさか見捨てられたというのか……我が軍は二千に満たないのだぞ」
「将軍、このままでは虜囚の身になりまする。濮陽に撤退してはいかがでしょうか」
「馬鹿を申せ。このままでは笑いものだぞ。まるで袁家の玄関口に汚れをつけに来ただけではないか」
于禁が自ら姿を消したことにより、李典は二進も三進もいかなくなってしまった。
濮陽へ船を返せば、それは即ち友軍を見捨てて逃げた卑怯者の烙印を押されることになる。さりとて抵抗するには軍勢が足りない。
「敵襲来! 旗は……『顔』、そして『趙』! そして『袁』の牙門旗も動いております! その数、およそ二万……」
「くっ、我が武運もここまでか。総員直ちに迎撃準備を解き、船に乗り込むのだ。防衛施設ならびに白馬は放棄。これは命令だ!」
叫びつつ、李典は愛用の槍を手に、馬に跨る。白い頭巾がまるで死に装束のように映ったことだろう。
「将軍、何処へ……」
「十騎ついてまいれ。孟徳公の兵が臆病者の集まりでないことを見せてやろうぞ」
「討ち死になさるのですか!? 将軍には兵を無事に返す義務がございます。どうかご再考を!」
「くどい。拙者ももののふだ、死に場所くらいは己で定める。史渙、お主が兵を率いて濮陽へと退却せよ」
于禁めが。泉下で邂逅した暁には、その首刎ねてくれん。
李典は大きく肺から息を吐きだし、目を細める。突撃あるのみ。放たれた矢のように、真っすぐに袁の旗へ行くのだと。
可能性は限りなくゼロに近いが、何かの拍子に袁家に痛恨の打撃を与えることができるかもしれない。
「防衛の専門家たる拙者がこのザマとは。案外、我が命脈はとうの昔に尽きていたのかもしれぬなぁ」
木製の柵を開け、白馬港から出撃する。李典は真一文字に朝露にまみれる大地を騎馬で走り抜けた。
当然の如く降り注ぐ矢に、方々から突き出される槍。悲鳴を置き去りにし、ひたすらに前へ、前へ。
「止まりな。そんなに急いでも、この先は地獄しかねえぞ、あんちゃん」
あまりの威圧感に、李典よりも先に馬がたじろいだ。
「貴様、邪魔をするでない! 拙者の狙いは袁の者のみ。行く手を遮るのであれば、容赦はせぬぞ!」
「威勢いいじゃねえか。単騎駆けとは勇気のあるこったが、一騎打ち出来るほどの技量はねえようだがなぁ」
単騎……とな。
そうか、既に部下たちは逝ったか。李典は長年ついてきてくれた仲間たちへ、そっと哀悼の意を込め、目を閉じる。
それも一瞬のこと。悪鬼羅刹に近しい気配を纏い、立ちふさがる敵将が眼前にいるのだ。今の数秒ですら、相手が気を利かせて与えてくれたものだろう。
「ご厚意感謝。これで悔いは無し」
「《《やる》》気になってくれてありがとよ。冥途の土産に名乗っておくか。俺は顔良、袁家譜代の臣ってやつよ」
「高名な顔将軍か。最後の相手にはもったいないほどだな。拙者は李典、字を曼成と申す。いざ尋常に勝負っ!」
李典は凡百の将に後れを取るほど、力量がないわけではない。
槍の先は鋭く、速度や重さも申し分ないのだが、相手が悪すぎた。
一合。
たった一瞬のすれ違いで、李典は己の胸に開いた風穴を察する。
漆黒の暗渠と化した洞穴から、夥しいまでの赤い血液が溢れ出ていた。
「ぐぬ……がふっ、こ、これほど、とは……」
「わりいな、李曼成。こっちは殿の御前でへまこいて、ちっとイラついてんだ。許せよ」
「介錯を……頼み申す」
「あいよ、待ってな」
死につながる懇願は、武人の最期の情けを呼ぶ。
刃を以て交えた仲は、消え往こうとする命に対し、敬意を示すのが礼儀だ。
腰に佩いた剣で李典の首を落とし、それを高らかに掲げる。
「敵将、李典。顔良が討ち取ったり!」
漣のように歓声が広がり、袁家の兵は士気を存分に高揚させる。敵の副将の首は重い。寄せ手の大将・于禁が今どこにいるのかは不明だが、勢いを殺してこの場にとどまる必要もないと顔良は考えた。
「行くぞ、白馬を一気に落とす。殿の秘策を信じて、俺たちは暴れるだけ暴れてやろうぜ!」
「応ッ!」
防塁は崩され、櫓は燃え落ちる。
一度敵地にされた防衛施設には、どのような罠が隠されているか分かったものではない。故にすべて破壊する。
顔良が制圧という名の嵐を手じまいにした後、残るは港とは呼べぬ、ただの廃墟が広がっていたばかりであった。
――于禁
かかった。
敵は李典と交戦し、彼の巧みな防衛によって足止めをされているはず。
故に十面に配した兵を起こし、敵の後背を突く絶好の機会であると確信に至る。
于禁は十面の兵のうち半数を顔良の背後に。そして残りを袁煕の部隊へ差し向けようとした。袁家随一の猛将である顔良が旗本に居ない今、本陣の守りは手薄になっていると予測できる。
「よし、これより袁家のボンクラを討ちに参る。各々、ゆめ怠るなかれ」
「はっ、目にものを見せてやりましょうぞ」
高度に訓練された曹操軍の陸戦部隊は、物音を立てることなく集結する。かねてよりの集合地点で、略式の点呼が取られるが、そこで不思議なことが判明した。
「御大将、集結している部隊が少なすぎまする。確か火の手と共に合流する手はずだったと伺っておりますが」
「数え直せ。なに、少しくらいは刻限に差があるだろう。しかしあまり手をこまねいているのも問題か……」
何度数えても、二部隊足りない。
補足され、戦闘になったとしても、それは袁家の哨戒部隊程度のはず。即時制圧できるだけの能力は持ち合わせているのだが。
「致し方ない。時は金より重要だ、このまま牙門旗で安穏と過ごしている袁煕の首を取るぞ」
「承知いたしました。よし、出発!」
于禁はまだ知らない。
既に李典は敗死し、白馬港は完全に掌握されたことに。
そして伏兵狩りを血眼で行っている、名将の存在を。
最大のミスは、偽りの敵中作敵を申し出てきた許攸の虚言による。
『袁家は今分裂の危機。凡愚たる袁煕に愛想が尽きた将は多数おり、孟徳公の軍至らば内より呼応する所存』
命からがら戻って来た先遣隊の斥候は、極秘文書を預かっていたのだ。
程昱や荀攸が側にいれば、まだ見抜ける機会があったやもしれない。だが、于禁一人では、既に動き出した作戦を変えるだけの待ったをかけられなかったのだ。
そして于禁のさらに後方。
何よりも、己を追跡してきている竜の姿を認識していない。
「……これより敵大将を討つ。総員戦闘準備」
顔良と袁煕の中間地点には、既に埋伏を予期して趙子龍が配備されていたのだ。
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