第七十六話 我が槍、北の地に置くべきか
――顔良
戦いは顔良にとって日常であった。
武門の顔家に生まれ、幼少の砌より己を鍛え続けてきたのである。
学問や詩吟の才には恵まれなかったが、こと戦闘に関しては彼の右に出る者はいない。鉄と血。鈍色の剣劇こそが顔良の生きる世界だった。
顔良を最も際立たせる才能は、野生の勘だ。
戦いの嗅覚でもあり、生きるための炎でもある。
そんな顔良が、今目の前で構築されつつある陣地を目にし、舌なめずりをしていた。人は逃げ道があると安心する生き物であり、遮蔽物があれば一か所にとどまる。
「まあ作らせてやるよ。途中まではな」
自ら作ったモノに固執し、建造物を大切にする。簡単に放棄せず、拘りを持つのは人の特性だろう。
故に半ばで討つ。
「旗印は……『李』か。へっ、腰抜けの李典が相手か。妙に勘が良いとは聞いてるが、さぁて、どうしてくれようか」
反董卓連合軍ではとんと姿は見なかったが、噂だけは聞いている。
顔良は戦に当たり、敵の情報を軽視しない。正確な敵情分析こそが勝利への秘訣であると知っているのだ。
「俺様の目の前で悠々と築城とかかましやがってよぅ。正気なのか本気なのかわかんねえな、これ」
なぁ、と振り返り、兵士をねめつける。
不敵な笑顔の顔良に対し、殺意満々の眼光で返す頼もしき部下たち。
気炎万丈と悟るには十分な滾りを感じている。
「そろそろ行くか。砂上の楼閣がどんだけモロいのか、ちくっと教えてやろうぜ」
「はっ! そのお言葉を待っておりました」
「言いやがる。よっしてめえら、出るぞ。陣は高幹に任せて、俺らは敵を引き千切りに行くか」
顔良は新型馬具を装着した馬に乗り、背中に二本の手槍を負う。
握る剛鉄槍と、腰の短弓を確かめ、出撃の合図を送った。
河北の二枚看板は伊達ではない。
地獄を体現するべく、蹂躙の行軍を開始するのだった。
――李典
かかった。
我らが策成れり。興奮を抑える気持ちが半分。もう一つは純粋な恐怖だ。
いくら計略が上手く運ぼうとも、自らが戦死してしまっては先がない。
李典は自らの武は顔良に遠く及ばないことを知っている。故に如何に上手く敵を誘引するかが戦いの鍵になると踏んでいた。
「李将軍、敵陣より『顔』の旗が! 一直線にこちらに突き進んできますぞ!」
「途中で迂回はせず、兵を分散させた形跡も無し……か。よし、我らは現時刻を以て持ち場を放棄。白馬港へ転進する」
「予てからのご命令通りにいたします。敵に目にものを見せてやりましょう」
参謀である程昱が述べていた。
袁紹軍の顔良は粗忽であり蛮勇であると。細かい疑念は意に介さず、ひたすらに前進してくるであろうと。
「軍師殿の言うとおりか。他愛なし。河北の二枚看板も随分と風化したものよ」
李典は手早く兵をまとめ終える。しかして顔良が餌に食いつくように、わざと後陣の歩みを緩めさせ、襲撃させやすく撤退を開始させた。
強大な突進力を持つ敵を止めるには、相応の作戦が必要である。
骨の折れる作業ではあるが、突出した騎馬部隊の勢いを殺してしまえれば、戦局は一気に変わる。
「魏続・宋憲に伝達。伏せた札を開けよと」
「ハッ!」
「……あの髭男にも通達しておけ。時は来たぞ、と」
敵地において兵を伏せる。
自らの庭に罠が仕掛けられているとは、ゆめ思うはずもない。
「あとは肝心要の情報を知ることか。敵の兵糧庫の位置を得るまでは、何としても粘らなくてはならんな」
危険を冒してまで懐柔した人物がいる。
もともと袁家に恨みを持っていたので、手懐けるには容易いことではあったが、その道のりは苦境であった。
「最高の知らせが届くのは白馬か、延津か。できうるのであれば、我らが戦功一番と名乗りを上げたいものよ」
撤退戦に移行した李典は、小集団に分けた兵士で前進・後退を繰り返し、偽兵の計を用いつつ全軍を後退させる。
かくして官渡の戦いは熾烈な死闘へ。
潮流は袁と曹のどちらに傾くのか。未明の空はまだ星の瞬きを翳していた。
――劉備ちゃんと趙雲
「ねえ子龍。聞いてんの?」
「玄徳公……袁煕殿の悪口はほどほどになさいませ。はぁ……なぜ私はこんなことを……」
「いいからつき合いなさいよ! あのチョビヒゲ、私の身体を舐めまわすように見てくるのよ。ほんっともう寒気が走ってしょうがないっての」
何度目だろうか。
趙雲は深いため息をつき、口の周りに食べかすをつけた己の主を見やる。
(なぜ私はこの方に付き従っているのだろうか。思い出せない……どうやって玄徳公と出会い、何に惹かれたのか。この霞がかった感覚は一体……)
「子龍、器が空っぽよ! お茶のお代わりをちょうだい」
「……かしこまりました」
戦場にて武を奮い、勇を競う。
仕えるべき主を守るため。そして民のためにこそ、己の槍はあるべきだ。
だが、目の前の少女は一体何を考えているのだろうか。先ほどから口にしている菓子は、民の収入の何日分に相当するのだろう。
――違う。
槍を捧げた相手を裏切るのは心苦しく、また不義理の極みである。
だが曲げられない武人としての信念も存在するのは確かなのだ。
このまま袁家の客将として生き、渡り鳥のように大陸を彷徨うことにどんな意義があるというのか。
疑問は尽きないが、先ずは目の前に迫る課題を解決しなくてはいけない。
「袁顕奕様がお見えになりました。ご用意くださいませ」
野営地として定めた土地。劉備の帷幕に先触れが訪れた。
「なぁに? 寝込みを襲いにでもきたのぉ? ほんっと無理」
「……玄徳公」
「わかってるわよ。はいはい、通して頂戴」
伝令にぞんざいな口調で告げると、劉備は頭髪を飾る簪を直し、衣服に付いた菓子のクズを払った。
一応は衣食住を提供してくれている大豪族の嫡男だ。立礼と拱手で迎えるだけの態度は持たなくてはいけない。
やがて帷幕がまくられ、やや頼りない顔をした男が現れる。
(冴えないやつ。ほんとくだらないわ)
心で舌を出しつつも、笑顔で袁煕を饗応する。
「夜分に失礼するよ。食事中だったのかな?」
「いえ、お気になさらず。で、なんの用ですかぁ?」
質問に質問で返すという無礼を働いたのだが、袁煕は気にした様子はない。
「明日には白馬港付近に到着します。そのまま戦闘に入る可能性が非常に高いので、是非玄徳公のご助力を得たく参上した次第でして」
「なぁにぃ? 私お箸より重いモノ持てないんだけどー」
「ははは、実は趙子龍殿の武勇をお借りしたくてですね。袁家とは不幸な行き違いがあり、過去には一戦を交えたことは知っています。ですが、一騎当千の武勇は実に頼もしい」
くっだらな。
劉備はこれみよがしにあくびをするが、趙雲に肘でたしなめられる。
「どうでしょう。先手の将として趙子龍殿に参陣いただけないでしょうか」
「だってさ。子龍はどうするのー?」
「……私は正しき義があるのであれば、槍を用いることに否はありません。客将たる私が、名門袁家の先駆けとして起用していただけるのなら幸甚です」
戦に正義はない。
大義名分は両方にあるし、戦争犯罪は双方にある。
であれば、先に仕掛けた方が大きな負い目を背負うべきであろう。
「河北に踏み入って来たのは曹孟徳殿のお考えですから。我ら袁家としても自衛のために剣を執るしかありませんので」
「袁顕奕殿の言や然り。侵略に対して抵抗せぬのは、民に対する裏切りと存じます」
「趙子龍殿に太鼓判を頂けるとは嬉しい限りですな。では、先ほどのお話は――」
大きく頷くは、常山の昇り竜。
既に劉備は蚊帳の外になっている。
「ねー、まだくっちゃべってるワケ? 私そろそろ寝たいんだけど」
「これは長居をしてしまいましたね。未明に行軍を開始しますので、それまではゆるりとお休みください」
「……玄徳公、貴女という人は……」
袁煕が場を辞して、帷幕より去っていく。
見送る趙雲の心には新しき光明が宿った。
故事に曰く。
良禽は巣を選んで使い、賢臣は主を選んで仕う、と。
「我が槍を置くべき場所は、河北にあったか……」
呟き声は、劉備の大いびきでかき消されていく。
妙に晴れやかな顔になった趙雲は、そっと帷幕を後にするのであった。
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