第六十話 郭という姓は、波乱を起こす
趙雲は簡易的に設けられた刑場へと向かう。
相も変わらずジタバタと暴れる中年男は、無様に周囲の兵士を罵っていた。
「ええい、この郭公則を誰と心得る! 袁家が譜代の臣であり、ご嫡男であらせられる袁顕奕様の軍師なるぞ!」
「……そうか。で、それを自白したところで何か得でもあるのか?」
趙雲は首よりも先に、冷たい言葉で郭図の寝言を斬って捨てた。
眼前の男はどれほどの正気を保っているのかは謎である。そもそも、自らの軍師を、死兵か捨て駒のごとく最前線に送り込むなど、まともな戦術とは思えない。
「結局のところ、貴公に価値はないと断ずる。故にこれ以上生かしておく理由もなし」
「きききき、貴様ッ! この公則に向かってよくほざけたものよ! 良いからこの縄を解け。臣めが叩き斬ってやるぞよ!」
今にも殺害されそうになっている人間の物言いではない。
趙雲はこめかみに鈍痛が生じ、若干の眩暈を感じた。不毛にすぎる議論は、心身を蝕むものだと痛感するに至る。
「士大夫と言うからには、雑兵の手で討たれるは不本意であろう。拙者がその首を落とす故、大人しく召されい」
「まったく、どいつもこいつも話が分からぬ奴よ。よいか? 臣が降伏の意を示してここに来た意味をよく考えるのだ。臣を殺してしまうと、五里霧中に取り残されるが、それでも良いか?」
「……論じるに値せぬ」
兵卒に押さえつけられ、郭図は強引に首筋を露わにさせられる。
未だに暴言や妄言を多々述べているが、辞世の句として放置しておこうと、趙雲は剣を振りかぶる。
「お覚悟」
「い、いやだぁああっ! だ、誰か助けてくれっ! 殿、話が違いまするぞ!!」
銀の閃光が走る。
ごとりと落ちる体は、まるで糸の切れた人形のようでもあった。
「て、敵襲ッ! 敵襲ー---っ!!」
叫んだ兵士の額に、新たな銀の流星が突き刺さる。
趙雲は振りかぶった剣を鞘に戻すと、状況の確認に意識を全て向けた。
無数の騎馬部隊が、趙雲の陣を旋回して騎射を仕掛けている。
一撃離脱にして、天衣無縫。
立ちはだかる兵は騎馬に弾き飛ばされ、そのまま骨を折って地に落ちる。
さりとて背を向ければ、情け容赦無い矢雨が追撃してくるのだ。
「……これは北方異民族の射撃に似ている。公孫の白馬義従にしか出来ぬ荒業だが……」
身内に切り捨てられるほどの失態を犯した記憶は、趙雲には無い。
むしろ戦線を押し込み、敵の軍師を捕縛する戦果を挙げている。
功一等とは言わぬまでも、確実に勝利に貢献する働きであると信じていた。
「……敵の……旗。そうか、そういうことか……」
戦場において、旗を偽るのは不名誉なことだ。
誰が戦い、誰が散り、誰が残るのか。
旗印とは将兵にとって生き様そのものであり、命を賭けて守るべき御柱でもある。
「公孫の旗に紛れて『田』の字……か。田豫……字の通り国を譲るつもりなのか」
北方異民族と交流があり、劉虞軍の残党である鮮于輔と強いつながりがある。
田豫が公孫範将軍の部隊旗を手にしているということは、つまり右翼軍全てが敵になったと趙雲は判断せざるを得ない。
「敵の調略か、それとも友誼による情か。戦場故多少の誤差は飲み込むつもりであったがな……致し方がない、左翼部隊は退却。公孫続殿をお守りしつつ易京に向かえ!」
痛打を浴びせたとはいえ、前面の袁紹軍は決して侮って良い相手ではない。
そこに田豫の裏切りが発生したとなれば、半包囲下に置かれたということになる。
古来より包囲戦術を破った将軍は少なく、ほぼ必敗の形勢とも言えるだろう。
「はっはっは、尻尾を巻いて逃げるか、田舎者め! この郭公則を軽く見た報いを受けるがいい!」
「趙将軍、この腐れ儒者は如何なさいますか?」
「……放っておけ。今は一兵でも多く離脱させるのが急務だ」
「ははっ」
呵々と笑い、ミノムシのように地面を転がる郭図。
不気味すぎる生き物に、田豫軍の兵士も近づきがたい気持ちを抱いていた。しかし、高位の者が身につける衣冠を纏っていることから、嫌々ながらも救出する羽目になった。
「その、御方のご尊名を伺っても宜しいでしょうか?」
「よかろう。臣のは郭、名は図。字は公則である。誉れ高き袁家がご嫡男の軍師であるぞよ」
「そ、そんな御身分の方が、何故……いえ、失礼しました。ご無事で何よりです」
「ふふふ、一つ良いことを教えて進ぜよう」
はぁ、と戸惑う兵士の肩に汚い手を置き、にやりと腹黒い笑みを浮かべる。
「正義は必ず勝つ。そういうことじゃよ」
「そ……う、なんです……か。はい……」
哄笑が響く戦場で、自分の領域展開を存分にする郭図だった。
巻き込まれる兵士は気の毒としか言いようがないのだが。
――数刻前 田豫
「チッ、流石に袁紹の正規軍、騎射に対する備えも万全ってわけかい」
田豫は北方で培った異民族流の弓掛けで攻めるも、対応する高覧の防御を崩すことが出来ずにいた。
「じりじりと迫ってきやがるなぁ。うーん、方形陣を崩すのはちと時間がかかりそうだー」
当たり所よく、矢で倒す事が出来る場合もあるが、それは単なる運分天分だ。
厚い盾と長槍をもってにじりよる集団に、寡兵で対抗するには限界がある。
「てっきり騎兵同士の突き合いになると思ったんだけどなー。当てが外れちまったかぁー」
田豫は長く伸ばした黒髪を、もっしゃもっしゃとかきむしる。
二つに分けられ、肩口まで伸びたそれは、およそ中華の礼儀から外れる風体であった。
「田将軍、公孫範様が早く撃滅せよとご命令を出されております。全軍で再度攻撃をしてみてはいかがでしょうか」
「んー。却下。ていうかその命令、無理じゃね」
言うは易く行うは難し。
後陣で檄を飛ばして鼓舞するのは一向に構わないのだが、抽象的な意見を出されても困るというものだ。
「中央部はどうなってる? 拮抗してるといいんだけどなー」
「それが……本来我々側に配置されるはずの騎兵が、中央部に隠されていたようでして……袁家の文醜めが我が軍に大損害を与えていると……」
「そいつは参ったね。ほぼ負け戦じゃない」
頭をかくとフケが舞う。戦場とはいえ、高級士官は一定の水が与えられるものだが、田豫は頭髪にはあまり興味が無いらしい。
なので不衛生なまま放置してあった。
「田将軍! 敵方より使者が参っております」
「……へぇ、ここで、か。面白いね、会おうじゃないか」
敵陣より軍使を表す、二重の白旗を掲げた一群がやってくる。
田豫は騎馬を整列させ、左右に戈兵を配して到着を待つ。
如何なる状況においても、礼節は損なってはならない。そして一軍の将として部下に堂々たる態度を示す必要もあった。
「これより先は軍門内ゆえ、馬上では進めませぬ。御身柄は保証いたします故、どうぞ馬をお預けくださいませ」
「委細承知ッスよ。歩くのすげー疲れるんだけど、まあしゃーないッスね」
痩身にて長躯。顔色が優れぬ男は、軽薄な言葉で歌うように返した。
風に吹かれれば飛びそうな、華奢すぎる体を前へと進める。
「得物は持ってないッスよ。まあ、調べるのはお仕事なんでしょーけど」
「……そのようですね。どうぞ先へ」
やれやれと肩をすくめつつも、田豫の待つ軍中央部へ。
「中々壮大なお迎えッスね。これだけの軍馬、揃えるのは骨が折れたんじゃないかなぁー。まあ、そっくりいただきますがね」
男の独り言は風の中に消える。
聞かれていたらひと悶着あったであろうことは間違いないのだが、運はまだ損なってはいないらしい。
「ご使者、お勤めご苦労さん。俺が右翼前曲の将、田国譲だ。さて、何を聞かせてくれるのかな?」
「こりゃご丁寧にどうもッス。某の姓は郭、名は嘉。字を奉孝って言いますよ。恐らく長い付き合いになると思うので、覚えてくれると嬉しいですねぇ」
「ほう……ご使者は公孫の身許に降られるおつもりかな」
「へっへ、その逆ッスよ、田将軍。もう薄々分かってるっしょ? 今の盤面は詰んでいるってことに」
二人の壮士は目で牽制し、言葉で翻弄し、身振りで圧をかける。
だが帰結する先は変わらない。
「端的に言いましょうかね。田将軍、袁家に寝返ってくださいよ」
「おもしれえコトいう兄ちゃんだなぁ、おい。一軍を預かる将に向かって、ようほざくなぁ」
狼のように目を鋭くさせ、田豫は目の前の男――郭嘉を射殺さんばかりに睥睨する。だが当の相手は全く意に介していない様子であった。
「じゃあ今から、袁家に降伏する利点を述べましょうかね。きっと喜ぶと思いますよ」
田豫と郭嘉。
互いに知恵者の、弁舌による戦いが始まろうとしていた。
お読みいただきありがとうございました!
面白いと思われましたら、★やブクマで応援いただけると嬉しいです!




