第四十九話 第一部完 袁の旗よ、風に乗りて河北にとどろけ
198年 6月
オス、オラ袁煕。
だなんてアホな挨拶できるような状況ではなくなってしまったのよね。
甄家から嫁に来た蘭との間に、待望の第一子が授かってから早十か月。
今、彼女は侍医や産婆さんと共に、清潔にした一室に籠っている。
現代日本で言えば、そこが分娩室となるのだろう。
「顕奕様、水ものをお摂りくださいませ。今日は朝から何もお口にされておりませんよ」
「……うん」
「お返事だけじゃだめだめのぷーですよ。お気を確かに保ち、甄姫様をお信じになりましょう」
おう、と言いかけて開いた口に点心を押し込まれる。まったく何も考えることが出来ていないので、そのままモシャモシャと咀嚼して飲み込む。
「はい、次はお茶でございますよ」
「……おう」
俺より身長の低いマオは、精一杯の背伸びをしてお茶を注ぎこんでくる。
「がぼっ、ごへっ」
当然無意識の飲み込めば、気管に入ってむせるわけで。
痛烈な刺激によって、ほんの少し俺は自我を取り戻すことが出来た。人間突発的な状況にも慣れるもんだね。
「すまんな気を遣わせて。しかしアレだな。この光景はどうにかならんのかな」
「諦めてくださいですよ。そういうモノなのです」
何かの花から抽出したと思われるお香が焚かれ、毛氈を敷いた場所には牛の生首が供え物として捧げられている。
怪しげな祭壇に対して、一心不乱に祈祷をしているソッチ系の専門家さんたちが多数。そして重臣も中に混じり、蘭の健やかな分娩を願っていた。
大変申し訳ないことだが、この日だけは郭図に出張を命じていた。
多少の浪費は経費で構わんと申し付けてあったので、喜び勇んで邯鄲の町にいる袁尚へ使いに出ている。
野郎を自由に泳がせておくと、予期せぬ事態が起きそうでならなかったからね。
リスクマネジメントは夫の勤めだ。
それにしても遅いな……。まだ時間がかかるのか。
俺は熊のようにうろうろと、分娩用の部屋の前を行ったり来たりしている。
何度か嗜められはしたのだが、どうしても体を動かしてないと落ち着かない。
小さな火が部屋の前で焚かれ、その中に護符を入れては祈祷師が奇声を上げる。
人、これを極限状態という。
だが、モノは考えようだ。
俺がたった一人、この時代に出産と向き合わなくてはならなかったら、どうしていただろうか。きっと下手を打って、母子ともに尋常ではない被害を与えてしまっていたかもしれない。
であるならば、今こうして多くの家臣に心配されていることは、決して不幸ではない。寧ろ幸運に過ぎるというものだろう。
やや現実から逃避していたときに、一つの声が響いてきた。
「ふええええ、ほんぎゃ、あんにゃっ!」
俺含め、誰も何も口に出せない。
夢遊病患者のように、俺は蘭が居る扉の前に歩み出た。
やがて静々と戸が開き、中から血塗れの侍医が姿を現す。
「御慶事! 御慶事なり! 袁顕奕様、ならびに甄家一の姫様の第一子ご誕生ですぞっ!!」
「うま……れた……のか? 蘭は、子供は……!?」
後にマオから聞いたところによると、俺は抜き身の剣の如き殺気を帯びていたという。しょうがないと思いますですよ、とやんわりと受け止めてくれたので助かったのだが。
「ご報告申し上げます。奥方様、無事第一子にして、男児を出産なされました。袁家の未来はこれで――」
「や……」
「え、は? あの、顕奕様?」
号泣せざるを得ない。
歓喜の声を上げざるを得ない。
天に感謝せざるを得ない。
そして蘭に最大級の愛情を。
「うおおおおおおっ! や……った……蘭んんん、蘭、蘭……え、待て蘭はどうした?」
その言葉に、侍医は笑顔を一転させ、沈痛な面持ちになる。
「申し上げにくいことでございますが」
「おい、おいおいおい、ちょっと待て。蘭はどうしたって聞いてんだよ! まさか――」
沈黙が場を支配する。
先ほどまでの浮かれモードが一瞬にして凍り付いたかのようだ。
「甄家一の姫様……奥方様はご出産時の疲労が祟り……」
現実が音を立てて崩れていく音を、耳朶に叩きつけられたかのようだ。
がっくりと膝が落ち、生気が抜けていくのが分かる。
「蘭……そんな、嘘だろ……」
「爆睡しておいでです」
「……は?」
「初乳を与えるや否や、その……お見せ出来ないお姿で……深くお眠りになられましてですな」
くああああああっ。
マジで、マジで金玉縮んだんだよ、こんちくしょうめ。
三国時代、医療が発展してない状況で女性が亡くなるのは平凡な日常だ。
だから一番その可能性を危惧してたんだけどさ、さ!
「なんでもったいぶったし。結論から先に言ってくれよな……」
「申し訳ありませぬ。奥方様のお姿を公表してもよいものかと迷いましてな」
「言って! なんだったら俺にだけそっと言ってよね!」
口から魂が抜けそうになるのを、すんでのトコでキャッチ出来たわ。
「コホン、さて顕奕様。大事なお役目がまだ残っておりまするぞ」
「え、母子ともに無事なんだよね? 他に何かあったっけか」
脳みそに空白地帯が生じてしまっているようだ。今の俺は上手く情報を追うことが出来ていない。
「お名前でございます。正確には、諱と字をお付けくださいますよう」
「そうか……俺がつけてもいいのかな」
「顕奕様以外ですと、御館様から賜ることになりますが……」
袁紹パパン改め、袁紹じいじに頼るのも塩梅がよろしくないね。
流石に自分の子供は、責任もって名付けたい。
「儒慧流……飴玉姫……武血義理……ううむ、何にしようかな」
「差し出がましいようですが、奥方様から無事に出産した暁には、お読みいただきたいとのことで書状を預かっております」
「おお、侍医殿。すまんな」
どれどれ、と上質な用紙を開いて目を通すと、そこには一つの文字列が。
『自重か、蛇か』
冷水をかけられたかのように、一瞬で精神が糺された。
「顕奕様、お手が震えておりますが、お体にご不調でもございますか?」
「おれは しょうきに もどった!」
「……左様でございますか」
考えに考え抜いて、俺は大きな紙に一つの漢字と二つの文字を書く。
書道家でも何でもないが、この時の集中力は人生で一番研ぎ澄まされていたのではなかろうか。
姓は袁、名は……『綾』
字は、『子音』
深い眠りについている愛しき妻と、産婆や乳母にあやされている我が子。
未来は切り拓いていくものだ。
袁煕に転生したときは絶望感で一杯だったが、今は俺を支えてくれる大きな力がある。
その意志を無にしてはならない。忘れてはいけない。
きっと将来の平穏を目指し、乱世の終焉を願っているはずなんだ。
背負ってみせよう、その祈り。
凡将の身であれど、必ずや平和の鐘を中華全土に響き渡らせてみせる。
「ゆくぞ、マオ」
「え、は、よろしいのですか? 顕奕様」
「母子ともに健康であれば、適切な場を設けてこの手に抱くことも出来るだろう。俺は今日、生命の誕生を見届けた。この感動は、きっと多くの人民もそれぞれ抱いているものであろう」
マオは小首をきょとんとかしげる。
「袁顕奕として成さねばならないことがある。今はひたすらに政務に邁進することこそが、民の期待に応え、群臣の才を活かすことになる」
「顕奕様はお強くなられました。マオは……本当に嬉しゅうございますよ」
直垂を翻し、俺は颯爽と執務室に戻る。
我が背後には多くの命。我が眼前には公孫の蝗。
袁家の旗を折れるものならやってみよ。全知全能全編集を使って叩きのめしてくれる。
俺はちょびっと生えているヒゲをこすり、再び墨汁と筆を操り始めるのだった。
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