第百七十話 決戦⑬ 未来を紡ぐもの
――龐徳
矢を通さず、生半可な武器などものともしない重装甲。龐徳は金砕棒を引きずりながら呂玲綺の前に馬を進ませる。
「呂家の娘よ、砕くには惜しい才覚であるな」
「大した剛力自慢のようだ。私の細腕では受けきれぬかもしれぬなぁ」
紅を差したように赤橙の唇を舌でちろりと舐め、困ったものだと肩をすくめる呂玲綺に怒りを禁じえない。
元々龐徳は徹底的な儒教主義者である。
涼州の荒野の果てにあっても、天地人をそうあれかしと定める法則があると信じていた。
「女の身でありながら戦場に立つとは不道徳にも程がある。分際を弁えよ」
「生憎私は幼少の頃より父・呂奉先と共に中原を駆け抜けてきたのだ。不道徳と説く辻説法師は真っ先に殺されてきたぞ」
「不心得者よ。手加減してやろうと思ったが、そうはいかなくなったようだ。戦場は男の神聖なる魂の拠り所であると身に刻んでやろう」
袁煕はそのようなことは言わない。
呂玲綺はやはり彼を我が君と仰いで正解だったと、強く拳を握りしめる。
誰もが活躍できる世界を。寝物語でも聞かされたその理想に彼女は焦がれたのである。
「龐令明よ、我が君・袁顕奕の側室にして飛将軍の娘が引導を渡してやろう。時代の流れを解せぬのは哀れだが、これも武人の定め」
「御託は良い。さあ行くぞっ!」
瞬間、馬の顔が爆ぜた。
超重量級の金棒のはずなのだが、まさに目に見えるほどの速さで魂を砕きに来たのである。
呂玲綺は愛馬の死を嘆く暇もなく、そのまま大地に転がっていった。
「こんなものだ。女が何をどうあがいても、男には勝てぬ。さっさと後ろの将を出すがいい」
「ぐ……う、ふふ、やるじゃないか。そうではな、そうこなくてはな」
「馬鹿は死なねば治らぬか。貴様の父もとんだ愚物と聞いている。その血が受け継がれたのだから救いようもなし」
平時であれば怒鳴り散らして怒る場面であるが、ここは戦場だ。
如何なる悪口雑言も戦術の一つ。心を乱したものから先に脱落していいくのである。
「そうか……ならば貴様は幸運だ、龐令明。じきにあの世で我が父と見えることになるだろうからな。精々震えておけ」
「性根の腐った女性よ。その雅やかな顔が二目と見れなくなるやもしれぬが、己の言動が招いたことと知れ」
中天に輝く太陽に被せ、その光がまるで意思を持ったかのような断罪の一撃が降り注ぐ。
速度と音の感覚がズレている。
呂玲綺の五感は確実に曲がっていき、攻撃の気配がまるでつかめなくなっていく。
「砕け散れぃっ!!」
「ふっっ!!」
視認してかろうじて回避するが、次弾は既に装填済みだ。
龐徳は無尽蔵とも思える体力で、只管に虚空を切り裂いて大地を穿つ。
偶さかそこに呂家の者が居たとしても、単に時間の問題であるかのように。
「やる……な」
「息が上がっているぞ。己の限界は見えたであろう」
「果たしてそうかな?」
「冗談は好まぬ。疾く逝くがいい」
龐徳の打ち下ろしは瀑布の如く。
一定であった打撃の音に、僅かながら鈍いものが混じり始めた。
(早く降伏せい。女人の首を持って帰っても、誰も誉れと思わぬ故な)
幻聴であると一笑に付し、龐徳は続いて機械的に殴打を繰り返す。
ガラン、ガチャン。
何か金属が打ち鳴るような高いものまで含まれてきた。
当初は呂玲綺の鎧が剝げ落ちていくのであろうと思っていた。しかしどうにも不可解であり、妙に気を引いたのである。
「ぬっ!?」
「ちっ、外したか」
一瞬の間隙を縫って、呂玲綺の槍が龐徳の胸へと迫った。
おかしい。
敵に反撃する余地を与えず、否、攻撃しようとする心すらへし折っていたはずだ。
なのにどうして自分が防御する羽目になったのだろう。
砂塵が晴れた場所には、呂玲綺のものと思われる鎧の破片が散らばっていた。
案の定、彼女はもう全身ボロボロに見える。
立っている姿は賞賛に値するが、時間の無駄であろう。油断はできないが、このまま圧倒し続ければ勝利は目の前である。
「作業を続けよう。そらっ、そらっ! 弾けろっ!!」
金棒は空を切る。これまでも手ごたえのある一撃には及んでいなかったのだが、今回の空振りはどうにも底冷えするものがあった。
「後ろだ、馬鹿者」
「なっ!?」
首元に槍が走る。
しかし急所はがっしりと厚く守られており、致命的なものとはなり得ない。
だが呂玲綺の穂先は龐徳の甲冑を滑るように撫でていき、そのまま騎乗している馬の首を串刺しにした。
断末魔の悲鳴が上がり、龐徳はもんどりうって地に投げ出される。
「なんだ……何が起きている。何故目の前にいたはずの貴殿は、拙者の背後を取れた」
「そのうちわかるさ」
視界から、呂玲綺が掻き消える。
まるで空中に猛獣の爪痕を残していったかのように、槍での刺突は絶え間ない。
空間を削り取り、圧縮したかのような乱打。
攻守逆転した理由は呂玲綺の甲冑にある。
「ぐ……馬鹿な。女人がこれほどの武を修めているとは」
「申したであろう。我が父と戦場を共にしていたと。貴様が愚物と一刀両断したかの男は、その愛娘に大層激しい訓練を施したそうだぞ」
呂玲綺は残りの鎧——彼女の枷となっている重みを取り外していった。
「やはり自由はいいな。今ならばあの雲にも登れそうだ」
声は前から。しかし姿は下から。
龐徳の顔面部分。即ち甲冑の弱点部位を狙って槍がほとばしる。
「ぬぅんっ!!」
「芸が少ないな。それでは呂家の什長にも及ばぬ」
顔を腕で防いだが、その代わりに可動部である脇の下を突きさされた。
冬の雪花も恥じらう乙女の舞が、龐徳の継ぎ目に穴をあけていく。
ひとひらの雪。
それは果たして本物か、それとも今際に見る魂の揺れ動きか。
その雪をそっと避け、槍の石突きが龐徳の腹部を強打した。
「げはっ……お、おの……れ。認めぬ、女人に負けるなど武人の恥以外何物でもないわっ!」
「その考えが、既に負けなのだ」
呂玲綺は語る。
夫である袁煕とは一万回戦っても自分が勝つと。
故に袁煕は強者を強者と認め、その知恵や力を惜しみなく褒めてくれる。
居心地の悪かった世界に、少しだけ晴れ間が射した気分になれるのだった。
「龐令明、お覚悟。生き延びた暁には、新たな世界を楽しめるとよいな」
「ぐ……これまで、か……」
三位の槍。
まさに呂玲綺本人が三体に分かれ、それぞれが別の軌跡を描いているかのよう。
繰り出される槍も別角度の同時攻撃である。
「があああっ!?」
固いものを破壊する手段は何か。
それは速さで威力を補うことである。
龐徳の纏う重装甲は瓦礫のように崩れ落ち、守るべき主を置き去りにして地へと還っていく。
「選べ、龐令明。新しき時代の夜明けを見届ける守人となるか。それとも鳥獣に食まれてこの場で朽ちるか」
「……一つだけ、教えてくれ」
「構わん、述べよ」
「袁家は……いや、貴殿は今、幸せか?」
「当然だ。愚問とも言える」
「そうか。いや、そうであろうな……」
どうっと鈍い音を立て、龐徳は背中から大地に身を投じた。
温故知新の心は重要であり、人は犯してきた過ちを繰り返してはならない。
しかし、だからと言って、新しい概念を受け入れぬのは人間の可能性を放棄することになるだろう。
「過去に生きる拙者と……未来を目指して走る乙女と。天がどちらに微笑むのかは、自明の理であったな……」
「良い勝負であった。傷は浅くはない、早めに手当をされよ」
「うむ、かたじけない」
戦場の倣いとして、呂玲綺は高く槍を掲げる。
「敵将・龐徳、この呂玲綺が打破ったり!!」
「おおおおおっ! 姫ッ!」
「流石は奉先様の忘れ形見よ……今日まで恥を晒して生きて来た甲斐があったわい」
自陣に戻った呂玲綺は、弾けるような笑顔であったという。
憂いを帯び、苦悩と諦観に支配されていた姿は、今はもうない。
一人の少女が、仲間と健闘をたたえ合う。
いずれ戦が無くなろうとも、この瞬間に感じた気持ちは、きっといつまでも胸にあることだろう。
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