第百六十八話 決戦⑪ 今夜が山田!
――魏延
魏延の下に夏侯徳・夏侯尚が連れてこられたのは少し時間が経過してからであった。
こまったのぅ、これでは手柄首にならんわい。そう不穏なことを口にしていたせいか、二将は生きた心地がしなかったという。
「貴様の言葉を信じ、ここまでおめおめとついて来たのだ。謀りであった場合、相応の覚悟をしてもらうぞ」
「うむ! その心配はないわい! 俺はこう見えても策士ではないからな!!」
「うるっさ……端から武を恃みとする侠客であると認識しておるわ。まあいい、その文書とやらを見せてもらおうじゃないか」
夏侯徳は麾下の兵士たちを武装解除させ、魏延に降らせた。
いずれにせよ袁家本隊を前に抗う術もない。譜代の臣とはいえ全滅させてしまっては曹魏の魂魄が損なわれるというもの。
「おう、届いたか。これじゃ。じっくり読むがいい!」
「……ご厚意感謝する」
文字を進めるたびに、体に湧き上がる様々な感覚に戸惑う二夏侯だった。
曹孟徳その人の璽が捺印された封書にて真実を知り、全身を紫電が駆け抜けていく。
「おおお、兄上……これは……我らはなんという大逆を!」
「……言うな伯仁。俺は今は何も言葉にしたくない」
普段冷静な夏侯尚はまさに血涙を流さんとし、激情家の夏侯徳は顔をしかめたまま天を仰ぎ見ていた。
人によって形は異なれど、人生の旅路には別離はつきものである。
彼らの場合、今この時こそが別れを告げる時となった。
「……我ら夏侯家は袁家に降る。そして魏公を僭称せし曹子桓を討つ」
「死なせなくてもよい者を黄泉路へと送ってしまいました……我ら将が不甲斐ないばかりに、なんという愚かな選択を取ったのか」
「嘆いても死者は返らぬ。ならば彼らの墓前に大罪人の首を供えることこそが弔いとなるだろう」
「その通りでございますな。一度捨てた命、仲間のために働けるのであれば本望です」
斯くして先鋒の戦いは最小限の犠牲で幕を閉じた。
曹子桓の狙いとは裏腹に、袁家はより兵力を膨らませたことになる。
「副官の王威と申す。貴殿らのお立場、誠に遺憾かと思うのだが、今後はご協力願いたく」
「仰せ仕った。この身、如何様にもお使いあれ」
「かたじけない。では早速だが道の案内なぞ教示いただけないだろうか」
「任せてくれ、なんだったら俺たちが曹子桓めの首をもぎ取ってきてもいいんだぜ」
これは別離の物語。
伏魔殿に潜む邪鬼を払うべく、譜代の臣たる夏侯家が正道に立ち返ること。
散り逝った共の無念を晴らすべく、斬魔の太刀を振るうべし。
◇
夏侯家の兵士を後送し、各種手当を施すために魏延は前衛を退く。
嘗ての彼であれば、死の間際——それこそ味方の状況など気にせずに戦ったことだろう。
しかし袁家の下で様々な英傑たちと交流を深めるに従い、己一人の功を誇ることよりも、全体の総和こそが重要であると確信するに至ったのだ。
「はっはっは、悔しいが我らは下がるぞ! 王威、あとで酒でも飲むぞぅ!!」
「相変わらずやかましいのぅ。なあ、魏延。荊州に未練はないのか?」
「なんだ藪から棒に。そうだな、時に実家を思い出すことはある。だが武功を立てて身を高めるのが本懐であるのは間違いない」
「そうか。回答になっておらんが、お主が満足そうでなによりだ」
魏延文長、袁煕がいる本陣へと下がる。
そしてぞろり、と死神の足音が白馬周辺に聞こえ始めた。
――呂玲綺
「飛天、前へ!」
「応ッ!」
簡潔にして端的な命令である。
しかし旧呂布軍旗本である『飛天』にとって、前に出ろという言葉は相手を絶滅させよとの意味を持つ。
ましてやその命を下した人物が、旧主の娘たる呂玲綺であるならば……。
「夏侯家の協力もあり、無駄な戦をせずに済みましたな」
「文遠、そんなことよりもまだか?」
「もう間もなくですぞ。我らが新しき主に捧げる怨敵の塒は」
疾風怒濤、それとも疾風迅雷か。
最精鋭の騎兵で構成された飛天は、呂玲綺を旗頭にまるで無人の野を進むが如く走っていく。
途中幾許かの敵と出会うが、洪水に飲まれる蟻のように溺れ散るのみであった。
「敵発見! 姫様、文遠殿、『曹』の旗印を見つけましたぞ!」
「孟徳公の物ではないな? お嬢様、お待たせいたしました」
「うむ。飛天よ、聞けぃっ!」
鼻先をピタリと揃えた馬列に乱れ無し。
呼吸音すら感じさせぬほどの冷気。そして心の中の熾火。
この中華に於いて、彼らの軍を。彼らの穂先を。彼らの蹂躙を妨げるものなど存在しない。
中央部隊に呂玲綺・張遼。
両翼に顔良・文醜。
歩兵部隊は張飛。
神仙よ照覧あれ。
まさに茲が武の高み成り。
「我ら戦場を彷徨いし鬼として生き、鬼として死ぬ。しかしてその仰ぐ旗には相応の煌めきが無くては魂が穢れよう」
呂玲綺の珍しい口上に兵士たちは一糸乱れず聞き焦がれる。
可憐な飛将軍の姫は、今や袁家の側室になった。
成長を見守って来た飛天の男たちにとって、呂玲綺は自らの娘にも等しい。
「父は言った。この世は武が全てだと。だが私は違うと思う。恐らく、きっと、この世で大切なものは『絆』ではないだろうか」
「姫……様……」
「私は誇りに思っている。飛天の皆がこうして今ここにあることに。昔と変わらず忠義を尽くし、この未熟な身を見守ってくれていることに」
最初の一滴は誰がこぼしたのだろうか。
修羅の血が流れる飛天の者は、いつしか野生に心を呑まれていたのやもしれない。
呂玲綺の言葉が獣を人に戻した。
「私の愛しい家族よ! 我らが今ここにあるのは、全ては偶然でない! 戦乱に喘ぐ人々の悲しみを癒し、長く荒廃した大地を豊かに取り戻そう!」
「……姫様、大きくなられましたな」
「この、心の熱は……なんだ? 俺は、今ならば誰にも負ける気がしねえ!」
「さあ行こう。あれに見えるのは河北の地を犯さんと欲す害獣成り。武とは本来、暴力を止めるための業であることを思い知らせてやろう」
「我が名は呂玲綺。袁家の次期当主の側室にして、呂家の姫。そして全ての災いから友を守る金色の戦乙女となる!」
「うおおおおおおおっ! 姫、姫様!!」
「全軍、攻撃準備! 此れから先は後ろを振り返るな。我らが向かうのはただ人が人を憎しみ会う世界ではない。人々が互いに尊敬し合う理想の明日となるのだ!!」
吼える声は山をも揺るがす。
まさに抜山蓋世。
人の邪知が人を汚すのであれば、清めるのもまた人の使命である。
「文遠! 先陣を駆けよ! 我ら飛天の恐ろしさを刻んでやれ!」
「承知ッ! 者ども、我に続け。この張文遠の突撃、受けられるものなら受けてみるがいい!」
迎撃に出ていた曹子桓の部隊に、協力過ぎる楔が撃ち込まれる。
跳梁跋扈する外道どもに下す鉄槌は重く、揺るぎない。
「ふ、防げ! ええい、敵は少数ぞ!」
「だ、駄目です……三方向より敵騎兵の圧力が……もうだめだ!」
「逃げるな腑抜けめ! くそ、どうすればよいのだ……」
守備する兵も混乱を隠せない。
もし仮にここに徐晃が居たのなら、そして曹孟徳に忠義厚い将が居たのなら。
彼らの運命は少しだけ変わっていたのかもしれない。
「やまだあああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
張文遠の雄叫びが木霊する。
遥か遠くの距離を一瞬で詰めるような風神の息吹。
神仙の際まで近づいたかの如く、触れる全てを粉砕して圧し進む。
「張遼だ、張遼が来た!」
「張遼が出たぞ! ここはもう持たない、逃げろっ!」
遼来来。
曹子桓の軍勢は、張遼の猛進を想像すると夜も眠れなくなるほどの恐怖を想起させられたという。
「敵将、この張文遠が相手だ! その胸に誇りあらば我が前へ出でよ!!」
彼の挑発に応えるものはなく、我先にともんどりうって逃げまどうのみ。
少しだけ不満気な顔を作った後、張遼は本命打の到着を前に少し頭を下げた。
「ご苦労だった、文遠」
「露払いは済ませておりますれば、後はお嬢様のお望みのままに事は成りましょう」
「ふむ。このまま一気に本陣を……待て、なんだあの異様な気配は」
翻る旗は荒野の色。
跨る馬は荒々しい汗馬。
されど見まごうばかりの偉丈夫は、これ正に錦。
「文遠、気を抜くな。あいつらは《《やる》》」
「ははっ。お嬢様、どうぞご武運を」
一瞬で二将に死を覚悟させるほどの存在感に、双方攻撃の手が止まる。
馬が三騎前に進み来る。警戒はすれど、ここで背を向けるわけにはいかない。
「西涼の馬一門だ。此度、帝の詔を得て新魏公に加勢する」
「遠路ご苦労。だがその魏公は簒奪者である。願わくば軍を引いてくれると有難い」
「不可能な注文だ。古来より戦場では一つだけ真偽を決する方法があるぞ」
西涼の錦・馬孟起。
側には従弟の馬岱、そして腹心の龐令明が控えていた。
「押し通れ、呂家の姫よ。過分な問答なぞ武人には不要」
「致し方なし、か」
この時呂玲綺も張遼も気づいていなかった。
妙に馬超の軍団の兵が少ないことに、この戦場に居た者誰もが留意せぬままであった。
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