第百六十三話 決戦⑥ 将の死に際としては無様に過ぎる
――曹純
目の前の羅刹が動かなくなり、ほっと肩をなでおろす。
鬼気迫るとはまさに呂虔のことであったのだろう。しかし最後に生きて立っていた者が勝者であるのが乱世の定め。
「驚かせてくれますね。まったく、この私としたことが死を覚悟しましたよ」
体温を失っていく呂虔を蹴りつけ、彼の頭に唾を吐く。
そう言えば兄の曹仁もこんな間抜け面を晒していたなと、思い出し笑いを浮かべた。
「気に入らないんですよね、目立つ奴は。私はいつも縁の下で汗水流し、泥にまみれて戦っていたのに……賞賛されるのはいつも兄・兄・兄!」
気づけば呂虔の体躯は泥だらけになっており、曹魏の誉れを守った姿には似つかわしくない様になってしまっていた。
「ふぅ……まあいいでしょう。この火計で功を貪る光は消し炭になるのです。ならば次なる光にはこの純めが推挙されるはず」
丘陵に伏せていた兵ごと焼き払い、一切合切を灰へと帰す。
何が魏武だ。何が乱世の奸雄だ。
この私が目立たない世界は間違っている。虎豹騎を得たことは天が私にもっと輝けと言っている証左だ。
曹純は己の道を突き進むことに何の罪も呵責も持っていなかった。
「そろそろ動くものもいなくなることでしょう。これより残党狩りに出ますよ。くだらない過去の残滓は全て消去してしまいましょう」
「はっ!」
全身黒鎧で身を包んだ軍が動き出す。
息のある味方の兵を槍で突き、確実に命を刈り取りながら。
無表情で。
「ん? 曹純将軍、丘陵の頂に旗が立ちました。え、そんな……まさか……」
「何を慌てているのですか。勇壮たる虎豹の名が泣きますよ」
「しかし……あの旗は……孟徳公の『帥』の旗でございます」
途端弾かれたように、曹純は目を凝らす。
その瞳に映ったものは間違いなく、曹家の長である曹操の牙門であった。
「そんな……馬鹿な。子桓様は確かに手はず通りに進んだと仰っていたのに」
「い、いかがなさいますか? 我ら虎豹の指揮をお執りあれ」
「そ、そうだ! きっと夏侯家の裏切者が率いているに違いない。とすればあの旗は偽装。驚かせてくれますが、種さえ見破れば問題ありませんね」
曹操の残党は数を討ち減らしていたと聞いている。
とすればここで夏侯惇・夏侯淵の両名の首を挙げることが出来れば、曹純の立身出世は約束されたようなものだろう。
「飛んで火に入る夏の虫とはこのこと。全軍攻撃を開始せよ」
「よろしいのでしょうか。もしかしたら……」
「虎豹の男が将の言葉を聞き返してはいけませんよ。次は斬ります」
「承知いたしました。では先駆けとして拙者は最前線に向かいます」
丘陵を登る鬼葬の軍団は過去の遺物を消し去らんと、鬼気迫る形相で足を動かす。
だがその誰もが心に一つの物事を飼っていた。
『もし、孟徳公がご存命であったのなら』
命令をそのまま聞いていていいのか。
自分たちの行いは大いなる叛逆ではないのか。
戦において余念を持たざる兵たちが、確かに動揺していたのだった。
「む、敵襲ッ!!」
「右方面より敵の一部隊が横撃……ですか。主軍は前進し、右翼部隊は遅滞戦闘を実行しなさい。敵将の首を確認さえしてしまえばこの戦、我らの勝利ですよ」
あらゆる場面を想定して訓練してきた精鋭・虎豹騎。
一糸乱れぬ統制と、冷静な鉄の掟を守って勝利を重ねる常勝兵団だった。
奇襲をかけてきた将が夏侯淵でさえなければ。
「前面の敵兵、動きます! 旗は『夏侯』!!」
「やはり彼らですか。落ち着いて訓練通り撃破するのです」
そして逆落としをして吶喊してきた将が夏侯惇でさえなければ。
「ぐぶあっ!?」
「うぎゃあっ! 腕が、腕がっ!」
まさに撹拌とも呼べる、大刀による旋風。
正面からぶつかった夏侯惇は、歯頚が歯茎にめり込むほどに怒りを湛えて虎豹騎を切り刻んでいく。
「俺が夏侯元譲だ! 貴様ら、誰に刃を向けたか理解しているんだろうな!!」
「ひいっ、お、鬼だ……」
「駄目だ、もう第二陣まで突破を……うがっ!」
首が宙を舞い、血液は川となる。
激震起こすグラウンド・ゼロにて、夏侯惇は理性を捨て去った。
「皆殺しだ! 孟徳に害なす汚物はこの場で撫で斬りにせよ!」
前面の圧殺が成されている間、側面からの襲撃も甚大なる被害を与えていた。
夏侯淵妙才。こと奇襲と突撃においては曹軍随一の将である。
「へへへ、孟徳様に盾突くとはなぁ。寿命を縮める趣味でもあるってか?」
朗らかな言葉とは真逆に、弓の冴えは底冷えするほど研ぎ澄まされていた。
近づく者は皆物言わぬ躯と化し、逃げる者も残らず地獄に引き込まれていく。
「おっ、曹純じゃねえか。へへへ、おかしいよなぁ? なぁんであの野郎が孟徳様の帥の旗に攻撃仕掛けてやがるんだぁ」
弓に矢をつがえ、首筋向けて一射する。
幸か不幸か、曹純を追い抜いて逃げようとしていた兵士に当たり、結果として夏侯淵が間近に迫っていることを知った。
「わわわ、そんな馬鹿な……早すぎる」
「へへへ、もう逃がさねえぜ。喰らいなっ!」
寸分違わず曹純の騎馬の頭を打ち抜き、その場で落馬せしむることになった。
既に虎豹騎は潰走状態にあり、指揮系統である曹純の沈黙は全面的な撤退へとつながることになる。
「い、痛いっ! 誰か、私を乗せて行ってくれ!」
虎豹騎の応えは無い。
曹孟徳の帥旗、夏侯惇の猛撃、夏侯淵の奇襲。
すべてが重なった結果、戦意も士気も、そして誇りすらかなぐり捨てて逃げる始末であった。
「乗せてやろうか?」
「す、すまん。私を安全なところまで……ひぃっ!?」
「へへへ、いいってことよ。俺がキッチリ連れて行ってやるからよ」
夏侯淵により縄打たれた曹純は、そのまま畏怖の象徴たる帥旗の下へ。
もはや再起を図る兵も、機会も失われていた。
「久しいな、曹純」
「も、ももも孟徳様……まさか……ご存命であらせられたとは……」
「儂の旗を見て尚攻撃を仕掛けるとは、いつの間に貴様は大胆になったのだ? まあよかろう。貴様には問いただしたいことがあるからな」
「おゆ、おゆ、お許しくだされ……」
賈詡の諜報による事前情報との突合させ、曹純を文字通り寸刻みで吐かせていく。
「さて、子孝は何故ここにおらぬのだ? 説明せよ」
「それ……は……兄上は壮絶なる戦死を……」
「文和、どうだ?」
「残念ながら嘘でございますな。次は薬指を落とせ」
絹を裂くような悲鳴が木霊する。
どうにか命を長らえるために保身するのだが、曹純の企みは悉く断罪されていった。
「もう落とす指がございませんな。次は足を刻みましょう」
「ふむ……儂ももはやこの男に用は無い。しかし一族の恥故、確実に手打ちをしておきたいのだがな」
「ではあの男に任せましょう。奮戦した呂虔・徐商の仇と息巻いておりましたので」
「そうだな。それがよかろう」
極寒と評するには手緩いほどの双眸が曹純を見下ろす。
失禁し涙と涎で汚れ切った男は、入室してきた李通を見て運命を悟った。
「孟徳様……この手で怨敵を討つ機会を頂き感謝に堪えません」
「性根の腐った愚物だが、この男も我が一族。さぱりと首を落としてやれ」
「承知仕った――よう、曹純。待たせたな……」
「ああああああああ、いやだあああああ!! た、たすけてくれ! 俺は曹家の者だぞ! こんなところで死んでいいわけがない! 世の中間違ってるんだ!!」
「確かに愚物ですな。あの世で呂虔と徐商に詫びるがいい!!」
刑場に引き立てられることなく、陣幕の外で李通が首を切り落とした。
本心では挽肉になるまで刻んでやりたいところではあるが、武士の情けとして丁寧に首を清める。
「さて孟徳公、南阪の丘陵は制圧完了いたしましたな。これで袁家本隊を害する罠は除去できたことでしょう」
「なんとも粗末な罠だったな。貴様の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ」
「左様なことになりましたら、戦況が覆ってしまいまするぞ」
「抜かせ。して次は」
手のひら合わせに示した文字。
火の計略を携えて、曹孟徳率いる助功の軍は姿を杳として消した。
その結果が炸裂するとき、曹子桓は絶望の色で顔面を染め上げることだろう。
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