第百六十話 決戦③ 雨霧は死臭を運ぶ
――徐商
なんたる失態か。
徐商の部下は悉く捕らえられ、残る手勢は百にも満たない。
敵情を探り、起死回生の一手を発見するという任務は露と消えたかと思われた。
「――部下たちが、戻って来た……だと?」
「はっ、特に重傷を負った者もなく全員健在でございます」
「ありえぬ……。まさか我らを売ったのか」
「いえ、それが……」
首謀者がどこぞに潜んでおり、反乱の兆しを掴もうとしているに違いない。
徐商は急ぎ幕舎を後にして、兵士たちが集う広場まで駆けた。
「徐将軍! ただいま帰参いたしました」
「う、うむ。皆息災で何よりだ。だが――」
手を上げると、完全武装した兵士を斥候部隊の回りに配置させた。
この中に裏切者がいる確率は極めて高い。焙り出せぬのなら、多少の犠牲はやむなしとさえ追い詰められている。
「拙者の言いたいことは分かるな? 捕縛された斥候が無傷で戻ってくるなど、古今聞いたことがない。貴君らの中に主君を売り渡した者が紛れているのは承知している」
「将軍、それは……」
「皆まで言うな、それに全員を罰するものではない。今や袁家との戦は最終局面に入っている。軍師殿の策を実行するためにも、些細な綻びを見逃すわけにはいかないのでな」
心当たりがあるものは挙手せよ。
詳しく事情を聴くが、一兵でも惜しい状況において過剰な罪には問わぬと述べる。
そして静かに手が天へと延びる。
「なん……だと?」
その場の全員が一律に挙手し、我こそが内通者だと胸を張って答えていた。
「正気か貴君ら。一体何があったというのだ」
「驚かれるのは仕方のないことでございます。しかし我ら全員の命を救い、心を扶すべき事情がありました」
「……貴君は部隊の長だったな、理由を申してみよ。その如何によっては……分かってるな?」
「は、それでは」
天鼓が打ち鳴り、雷鳴が響く。
急に振りだした豪雨にその身を晒された徐商とその部下たちは、斥候の報告を身じろぎ一つ取ることもなく聞き続けた。
「孟徳公が……ご存命……だと!?」
「我ら全員がご尊顔を拝しております。曹魏は袁家と手を取り、この戦に臨んでいると」
「馬鹿な! では拙者たちは……殿に刃を向けていたということなのか!?」
「申し上げにくきことでございますが、左様にて。孟徳公からの書状も受け取っております」
急ぎ引っ手繰ろうとした徐商だったが、豪雨であることを考慮して数名の斥候兵を帷幕へと迎え入れた。
果たして懐の奥から出てきたのは曹・袁同盟の内容が書かれた紙片であった。
「この璽は正しく孟徳公のもの……まさか、このようなことがあろうとは」
刺客に襲われ死の淵にあったこと。
そして袁家の長男である袁顕奕の力添えにより回復し、共に手を携えて乱世を終えんと欲することが記されていた。
「新魏公……いや、子桓様が……下手人である、だと。なんだこれは。一体何なんだこのザマは!! 拙者たちは偽の主に従い、兵の命を散らせたと言うのか!」
「……無念の極みにございます」
「ぐ……おのれ……。いや、今は一刻も早く呂虔様にお知らせせねばならん。伝令を――いや、拙者が直接向かう! 馬を引けい!」
顔に怒りの青筋を張り巡らせ、徐商は再び駆ける。
降りしきる驟雨が身を凍らせ、冬の冷気がその命の灯火を消さんとしても駆けねばならない理由が出来たから。
「許さぬ! 何だったんだ。拙者たちの戦は……拙者たちが夢見た平和とはいったい何だったんだ!! こんな結末、誰が許せるものか!!」
銀の弓が鳴り、矢のように。
例えこの身が朽ち果てても、誤謬に満ちた戦を糺さねばならないから。
途中で馬が斃れ、泥濘に投げ出されてもさらに前へ。
「これが拙者の――武士としての本懐成ッ!」
徐商は武士として、己の使命を見つけるに至った。
――曹仁・曹純
「兄上、首尾は?」
「万事抜かりはない。各支隊は伏するべき場所に付いた」
「流石。我が虎豹騎も火計準備に入る予定です」
曹子孝。
曹操旗揚げの時より付き従い、各地を転戦す。
弟の曹純に至っては最精鋭の騎兵を与えられるまでになった。
「む、雨音が」
「冬の河北には珍しいですな。氷雪でないだけ幸運と言えるでしょうね」
「程軍師の作戦は延期になるか。中々に悪運が強いな、袁家は」
「もとより数と量で質を補っている軍団との噂ですからな。人数が多ければその分運の量も増えましょう」
曹子孝。
忠義一徹。頑迷固陋。そして武勇実直にして質実剛健。
その守りは金城鉄壁の要塞であり、八門金鎖にてあらゆる攻撃を潰しかかる。
「呂虔隊、李通隊が定位置に敵を誘導しつつあるとの報がありました。兄上、雨が上がるのと同時に逆賊たちが押し寄せてくることでしょう」
「ここが正念場ぞ。我ら曹の血族が受けた恨みは、同族の手で晴らすのが道だ」
「承知しております。必ずや子桓様の望むとおりに事を運びましょう」
曹子孝。
盟友・徐晃を失いながらも、残された将として曹魏の魂を守る男。
鋼の意志と黄金のような誇りは、流石は曹家の柱石よと誉れ高い。
外からの攻撃を一切合切跳ね返し、傷だらけになっても死地を切り開く。
「雨音が強くなってきたな。凍死者が出ぬよう目配りせねばならんか」
「……いえ、兄上が気にされるようなことではないでしょう」
「将たる者、兵と心身を一つにせねばならん。彼らの苦しみは我らの苦しみであるのが統率の正道だぞ」
「……いえ、ですからね」
曹子孝——だったもの。
そっと後ろから差し込まれた剣に、心の臓が貫かれるまで疑いもしなかった。
口からこぼれる血液と胃液に、曹仁は眉根を寄せて考え込んでしまうほどに。
「純……お前、何……を?」
「ええ、ですからね、兄上。孟徳への忠義一徹な軍隊は、もはや子桓様にとって目障りこの上ないのですよ」
「……ま、さ……か」
「お休みなさいませ、兄上。『敵の刺客』によって暗殺された兄上の代わりに、この純めが見事『逆賊』を撃破してみせましょう」
息を引き取った曹仁をそっと寝かせた裏切者は、そっと天幕の外にいる同志に合図を送った。
一連の事件はかつて無実の咎で処刑された兵糧総監の王垢。その一族の仕業だと発表された。
当然王垢の一族の兵士は無実を主張したのだが、裁判権は主筋たる曹家に一任されている。抗弁が通るはずもなく、そのまま斬刑に処された。
◇
雨が止んだ。
早馬にて曹仁の死を白馬に居る曹丕へ送る。ここまでは既に描かれた図面だ。
「兵は神速を尊ぶ。卑劣なる凶刃によって志半ばで逝かれた兄上の後を継ぎ、この曹純が任務を遂行する。各支隊には敵が追い付いてきた頃合いを見計らい、総攻撃を開始するように伝達せよ」
「ははっ」
「陳矯、子桓様のご命令通りに攻撃を仕掛ける。伏兵の差配は任せるぞ」
「……仰せのままに」
無論のこと陳矯は前線に出る予定はない。
陳矯の命を受けた憐れな士官が指揮を執り、埋伏の計を発動させる。
同時に丘陵付近に複数配置した虎豹騎が、可燃物で満たされた場所に火計を仕掛けることになっている。
呂虔、李通、曹真、曹洪……。
囮役と埋伏で出撃している『曹孟徳に忠実な』武将を、一気に清算してしまうのが本作戦の骨子になっていた。
謀略の炎は、迫る曹操。そして袁煕の本隊へと引火しようとしていた。
――?? 函谷関
白銀。
荒野にあって尚光輝くその風体は、まさに錦。
「開門、開門! 朝廷の詔を受け、遥か西の地より参りし者なり!」
「あいや待たれい! うむ、そうか……。お待たせした。はるばる涼州よりの援軍かたじけない。この函谷関より先、はるか黄河の先の白馬にて新魏公が逆賊と向かい合っておられる」
「委細承知。水と食料、そして軍馬を休ませたのち、すぐに向かおう」
羽織る戦包は荒々しい大地の様なれど、凛々しき貌と逞しい体つきはどの美丈夫にも劣ることのない威風だった。
「やっと一息つけますかな。おや、従兄上、いかがなされた?」
「む、流石陛下の守りの要と思ってな。この函谷関、西涼に持って帰りたいな」
「……色々な意味で不可能ですから、定型文以外は口にしないでください。はぁ……従兄上はどうして毎度そう不穏なことを……」
「むぅ……」
不満そうなに顎をさする男を置いて、若武者は兵を順繰りに休養させている将へと馬を向けた。
「令明殿、何かご不足はございますか?」
「いや、ここは全てが充足している。中原はやはり豊かだな」
「ですねぇ。ここに来る前にコメとかいう食べ物を口にしましたが、ありゃ素晴らしいですよ」
「某も食した。是非西涼に持ち帰ろう。馬家の岱よ、荷車を多く手配してはどうか」
「いや……だから、今から戦争しに行くんですってば。何でもかんでも持ち帰ろうとする蛮族思考、もうやめましょうって……」
「うむ……」
(ダメだ、こいつら。略奪しか考えてない)
でもま、戦になれば人が変わるからな。心配はないんだけどな。
馬岱は従兄とその側近の腕前を信じていた。
西涼の諸部族に恐れられ、神威将軍とまであだ名された男・馬超。
彼の率いる軍勢が、その戦神の騎馬が遮られることなど、この世にありはしないのだという、強い確信をもっているのである。
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