第十六話 人の思いは数えられない
七日が経過した。
現在、袁紹の容体はとても安定している。
元日から発生していた袁紹の懊悩は、食事療法を用いて回復を図ることになった。
三国時代ではまだ未発達な栄養という概念を取り入れて、日に三度の食事に還元していく。
基本には八分粥、柔らかく煮た鶏肉、桑の実、根菜類の煮物、豆類、補水液だ。
胃に優しく、油分を多く含まないメニューを、手を変え品を変えて提供することにした。バリエーションは乏しくなるが、命と天秤にはかけられない。
桑の実は非常に栄養価が高いので、食べなれない味であっても我慢して食してもらうことにした。
豆類は畑の肉ともいうほどタンパク質に優れているので、体を作り直すのに最適だろう。
あとは禁酒だ。
立場上、当主が酒杯を口につけないのは、群臣に対して覇気が示せないという見方もあるだろう。だが手綱を緩めてアルコールを摂取すると、危険だということを必死に説いた。
楽に死ねるならばまだマシな方で、下手したら脳出血を起こして半身不随になるかもしれないという、恐ろしい例を出してまでだ。
俺の語り口が鬼気迫っていたのか、袁家とその家臣団の間では禁酒がブームになりつつあるらしい。
朝晩にラジオ体操を用いることにより、日頃動かしてない筋肉を使って身体中の血行をよくする習慣も、徐々に根付いていっている。
「顕奕様、朝に動くのは清々しいですね! 猫はすっかり癖になってしまいました!」
「俺も効果があるかどうか悩んだが、やってる人は日に日に顔色が良くなってきてるようだ。御父上もお体が動くようになればお勧めしたいね」
残念ながら、袁家の家臣団の中でも頑なに運動を拒否する者もいる。
理由が論理的であればまだいいが、『袁顕奕という継承争いから外れた者』の発案であるのが気に入らないという言いかたで断られたりもした。
御館様のご病気をだしにして、復権を望む気か! とマジ顔で言われると、その場で斬りたくなってしまう。
早く代替わりして、自分たちの推し君主を抱きたいのだろうが、そうはいかんのよ。少なくとも滅亡を避けるには、袁紹の力は必要不可欠なのだから。
さて、今日も今日とて俺は袁紹のご機嫌伺いだ。途中で合流した趙完先生と一緒に、当主の部屋へと入る。
「お父上、お体はいかがでしょうか」
「うむ、悪くはないぞ。顕奕の言う通り、少しずつ……栄養、だったか。その食事を続け、酒を断ったおかげで霞がかった頭が晴れてきたように感じる」
「ほほ、若様のお知恵は素晴らしいものでございますな。では御館様、お脈を失礼」
厨房の使用人には各種の栄養食の作り方を伝授しておいた。現代で再現することは難しいものもあったが、そこは代用品を駆使してもらっている。
「ようございます。喀血はもうございませぬか?」
「うむ、胃の腑も落ち着いてきてな、最近は腹が減るのが早い」
「惡気が去り、気力が充実されてきたのでしょう。医師としてはもうしばしの養生をお願いしたいところですが」
現在、政務は田豊と沮授が取り仕切っている。彼らは袁譚・袁尚のどちらの派閥にも組しておらず、内政能力が非常に高い。
上げられた報告書を俺も読んだが、効率よく税金を投資して、社会基盤を作り上げていると感じた。
「そろそろわしも政務に戻らぬとな。なに、趙完の言うように無理はせぬ。公孫瓚を目の前にしているのに、袁家を停滞させるわけにはいかんからな」
「ふぅ、御館様のご精力さには舌を巻くばかりですな。私は毎日容体を診に参りますので、よろしいように」
「ご苦労であった。下がってよい」
趙完先生の診察を受け、経過観察との診断を受けた袁紹だが、じっとしているつもりはないらしい。
「顕奕、お前は色々な物事を知るようになったな。勉学や訓練に力を入れている結果が出て、わしは嬉しく思う。そこでだ」
褒めてからの無理難題。これは一種の様式美だ。三国時代からあったのね、このシステム。○○君、最近仕事の進捗早いね、すごいね、じゃあこっちのプロジェクトも手伝ってもらえないかな、とかいう負の連鎖だ。
「わしは公孫のイナゴどもを掣肘するために、黒山賊の討伐を達成する必要があると考える。ついては顕奕よ、お主はわしの名代、総大将として討伐軍を率いるのだ」
「ふぁっ!? え、失礼しました。しかし虚弱な私に勤まりましょうや。御父上の決定であれば否はありませんが、あまりに大役を頂戴すれば、家臣も動揺するのでは」
「構わぬ。袁の旗を二つに破ろうとする者には、その尻尾を出させるつもりだ。内部の膿は除去せねばならん。顕思と顕甫にも追って別命を出す故、政治的な差配はお前は気にする必要はない」
「そこまでお考えでございますれば、この顕奕、全力で賊徒を平らげてみせましょう。大船に乗ったつもりで吉報をお待ちください」
「うむ。では支度金や物資を含め、兵士を編成する時間を与えよう。将も可能な限り融通する故、計画が定まり次第報告に参れ」
「ははっ」
拱手を交わし、俺は袁紹の部屋を後にする。
自室に戻る道すがら、待機していたマオと合流し、無言で歩く。
そしてベッドにダイブイン。
どうして……こうなった?
いやいやいやいや、黒山賊って兵力百万とかほざいてる、クレイジー集団だよ。
頭ねじ切ってオモチャにされる未来が見えるわ。
「お顔が暗く見えますが、御館様のご容体が芳しくなかったのでございましょうか」
ナメクジのようにベッドで倒れ伏している俺をのぞき込み、マオはネコミミのような頭飾りを揺らしてほほ笑む。
「まあ、御父上は大分よい。詳細は言えぬが、案ずるほどではないだろう」
そんなマオの気遣いに感謝しつつ、俺はベッドに座り込み、後頭部をかいた。この時代、髪は油を使ってまとめてあるので、頭皮のかゆみが尋常ではない。
いっそ切ってしまいたいところだが、断髪は死刑に等しいくらいの罰だそうで、みだりに長さを変えることもままならない。
「また、家を空けることになるよ。今度は長くなりそうだ」
「はうぁっ! で、ではマオもお供しますですよ!」
どこから取り出したのか、マオはもう薙刀を手にしていた。カバーは被っているが、常に手の届く位置に武器を置いているあたりは、俺よりも戦いへの意識が高いのかもしれない。
「過酷な戦いになるぞ。それでもついてきてくれるか、マオ」
「顕奕様あってのマオでございますよ! どーんとお任せくださいませ」
黒山賊は冀州や河東にまで版図を持つ、賊軍の連合だ。
本拠は雁門とも、常山とも、上党とも言われているが定かではない。だが侮れない一大勢力であることは確かだ。
袁紹は東北の公孫瓚が持つ易京城砦を睨む必要があり、こちらが本命だ。
袁譚は北海の孔融を、袁尚はその間にある平原や邯鄲の守りにつく。
鄴から北西部へと連れていける兵士は限られているが、数万の兵士が俺の指揮下に入ることだろう。
責任の重さに押しつぶされそうになるが、ここが正念場だと思う。
強力編集は自分の編集がロックされているが、もしかしたらそれは良いことなのかもしれないと考え始めていた。
多くの命を背負って立つ気概。これは数値では表せない。戦場での死者は数字で数えられるが、彼らの思いは計算できないだろう。
俺に必要なのは、断固として袁家の領地を守り通し、民を庇護するという強い意志だ。
強力編集に頼るときもあるだろうが、俺の今の気持ちだけは、誰にも数値化させるわけにはいかなかった。
お読みいただきありがとうございました!
面白いと思われましたら、★やブクマで応援いただけると嬉しいです!




