第百五十九話 決戦② 存在がチートの男を自由に泳がせた結果
―—呂虔
多数の被害を受けながらも、呂虔は先手大将としての義務を果たすことが出来た。
李通・徐商も傷だらけになりながら撤退を完了し、程昱に示された『待ち伏せ地点』へと兵を移動させる。
「呂虔、これ以上の戦闘は不可能に近い。まさか我らは本当の意味で捨て駒なのではあるまいな?」
「……軍師殿が言うには、多数の埋伏が目指すこの丘陵を死守せよとのことだ。例えどのような戦になろうとも任務を遂行せねばならんよ」
李通の問いは正鵠を射ていた。不幸にも、だ。
先手に任じられた武将たちは曹孟徳への忠義が熱い者と、無能な者で構成されている。互いに足を引き合い、統率された行動が出来ぬよう任意に定められていた。
「李通様、呂虔様。悲報でござる」
「大方王忠辺りが戦死したのであろう。二度目の失態は死を以て贖うことになっただろうな」
「炯眼の通りにて。劉岱殿のお姿も発見できぬことから、こちらも……」
「落ち着け徐商。我らの陣形は千々に乱れ、潰走状態であることが求められているのだ。整然と退却をしては夏侯らめに見破られよう」
南阪と呼ばれるこの高地は、周囲の視界を遮る形で岩窟や森林が点在している。
故に見る者が見れば伏兵がいること疑いなしと断じる場所だ。
そのため、苦し紛れにこの地へ逃げ込んだと思わせる用兵と、ある程度の犠牲が必須でもあったのである。
「我らの追って来る夏侯の残党を討ち、返す刀で袁家本隊を取る。恐らく生きては戻れぬかもしれぬが、曹家の興廃はこの一戦にあるのだ」
呂虔は滅多に感情を露わにしない男だが、この時ばかりは悲痛で顔を歪ませていた。
打ち過ぎた弓を持つ手からは血が流れ、継戦することすら危うい。
「――しかし敵の士気が異常なほど高くないか? 俺にはあの夏侯兄弟が何も根拠なく暴れるとは思えぬ」
「然り。拙者も李通様に同意でござる。もしや何か我らの知らぬ事情があるのでは」
違和感は確かにあった。
呂虔も愚かではない。敵の瞳に生気が満ち、まるで自らが官軍であるかのような堂々たる振る舞いには驚きすらした。
「現場の将は必要な情報のみが渡される。新たなる主君に忠義を示すのみ……だ」
「なあ呂虔、少し探ってみないか? どうにも腑に落ちないのだ」
「……わかった。徐商、お前の部隊は損耗が著しい。一つ深く斥候を送るために戦線から離脱せよ」
「な、拙者はここが死に場所と決めておりまする! 武士の誉れを取り上げるおつもりか!」
若年の将が憤るのは無理はない。
しかし今置かれている状況を少しでも有利にするべく、何か行動を起こさないと気が気ではないのだった。
「……命令だ。お前の意気込みは重々承知しているが、必要なことなのだ」
「承知……仕った。疾く情報を手に入れ、戦線に復帰致します故」
「構わぬ。ただし情報の正確度は担保せよ」
「ご命令、しかと」
足音に不満の音を混ぜ、徐商は斥候部隊の編成へ向かう。
最悪の予想だが、自分たちが戦死しても若者だけは救いたいという気持ちだったのだが、果たしてどう転ぶのか。それは呂虔、李通両将にもわからない。
「さて、と。死ぬか相棒」
「そうだな、文字通り矢尽き弓折れるまでだ」
残存兵力は三千五百名。
未だに味方からの合図は無い。
「一つ檄でも飛ばすかね、呂虔」
「柄ではない。淡々と敵を排除し、作戦遂行を至上とするのみ」
「違いない」
あるいは最後の軽口になるか。
二人は自然と敬意の拱手をし、互いの部隊へと戻っていった。
――曹操
敵将王忠を夏侯惇が討ち取り、次いで夏侯淵が横撃で退却中の劉岱を捕らえた。
兵力差の数千程度、用兵と将の質で補えると天下に示したことになる。
「ふむ。文和よ、そろそろ敵も動く頃合いか」
「左様ですな。私であれば呂虔・李通が逃げ込んだ丘陵で待ち構えます」
「儂も同意見だ。しかしこの程度の策略が見抜けぬと敵も思ってはいなかろう」
誘引、埋伏、火計、捨て駒。
曹丕や程昱のやり口は単純だが、殺意が高い。
「宛では貴様にしてやられたな、文和よ」
「ははは、水に流してくれたのは貴方でしょう。私は今は袁家からの出向者ですが、こうして轡を並べて戦えることを誇りに思っておりますよ」
不敵な笑みを浮かべ、曹操は劉岱と面会することにした。
神速の行軍で名を馳せた夏侯淵は、主軍を夏侯惇に任せ本陣へと帰参してきている。部隊の損耗は軽微。意気軒高のままだった。
「妙才、あ奴を連れて参れ。久方ぶりに顔を見たい」
「へへへ、孟徳様、あまり驚かすとうっかり舌でも噛んで死ぬかもしれませんぜ」
相も変わらず小心者か、と曹操は再び笑みをこぼす。
一軍の将としては不出来であるが、共に董卓と戦った仲である。無下に命は取るまいと考えていた。
「……まさか本当に生きておいででしたか、孟徳公」
「久しいな劉公山。千里を走る駿馬と称された貴様が、何たる様か」
「返す言葉もありません。これ以上醜態を晒すのは、漢室に対する冒涜になりましょう。早々に斬っていただきたい」
「意気は買うが、そう死を逸るでない」
酒と肉を持った従者が現れ、簡易的な酒宴の席が設けられた。
古来より政治は接待がつきものである。
酒色を好まない袁煕には出来ぬ、老獪な絡めとり方でもあった。
「まずは一献。飲むがいい」
「良いのですかな。この身は敵ですぞ」
「儂はとお主は旧知の仲と思っている。乱世では友同士が衝突することなど日常茶飯事よ。ならば互いに禍根を長引かせる必要もなかろう」
儂が毒味をしよう、と曹操は酒杯をあおる。
そして同じ容器から劉岱の杯へと酒を注いだ。
「飲め、公山」
「でき……ませぬ」
「小心者め。何もお主を害そうなどと――」
「違うのです!」
劉岱の双眸から滂沱が零れ落ちた。
悔い・葛藤・懊悩・悲哀……様々な感情がもつれ、促されるままに酒を飲むことを良しとしないのであった。
「地に落ちてもこの身は漢の末席。数々の失態を重ね、恩義に反し、そして真実を見抜けなかった私にこの酒を飲む資格など……う……うう……」
曹操は静かに自ら手酌で杯を進める。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。
目の前の男を無能と斬り捨て、小人の嘆きなど一考に値せぬと唾棄してもよい。
否、以前の曹孟徳であればそのようにしていた。
「公山、まだ遅くはない。儂と来い」
「この卑小な身がお役に立てますや……うう……消えてしまいたい」
「儂が今身を寄せる軍——袁家の総大将は若き者が任じられておる。彼の者が言うには、人はそれぞれ座すべき場所があるのだと説いてきてな」
漢の皇族でありながら、軍才・政才に恵まれなかった劉岱。
しかし彼にも然るべき道があるに違いない。
袁煕が曹操の無茶な要求を受けつつ、言葉の端に上げたもの。
適材適所。
血の定めからは逃れられずとも、その特徴・特性を活かした場面が必ずあると。
「お主は軍人ではなく、一人の劉公山として生きてみてはどうか。案外市井の暮らしも悪くはない」
「それが許されますでしょうか。正直に申し上げると、私は担がれるのが怖いのです。尊大に振舞うのも、異常に高く評価されるのも、人の生死も……」
「構わぬ。それがお主だ。お主はお主のありのままを受け入れ、そのように生きれば良い」
ぐっと劉岱が酒を干す。
今まで纏っていた陰気な表情は消え、自分を大きく見せようとしていた姿も無くなっていた。
「まあ、新しい暮らしをする前に一つやってもらいたいことがある。なに、一筆したためてもらうだけよ」
「その程度であれば、この劉公山、如何様にも……」
「そうか。ならば遠慮なく頼もうか」
曹孟徳、健在。
袁・曹同盟締結。
逆賊曹子桓誅すべし。
志ある将は河北に集え。
劉岱は曹操に言われるがまま、曹丕にとって致命的な内容を書き連ねた。
この内容をいち早く受け取ったのは、徐商率いる斥候部隊である。
存在するのかどうか判断の出来ぬ埋伏計。
それを待つ極限状態の諸将の戦意喪失は計り知れないものがあるだろう。
後の世で、第二次官渡の戦いにおける重要な一撃とも称される『公山文書』とは、まさにこの時書き上げられたものであった。
やがてその文書は中原に広く流布され、時の皇帝・劉協の耳にも届いたという一説もあるとか。
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