第百五十八話 決戦① 前哨戦 夏侯惇怒髪す
――呂虔たち
前衛の部隊が敵軍先鋒と衝突したとの報を受け、先手大将の呂虔は握る弓に力を込めた。
曹家には珍しい騎射の技術を持つ壮士であり、部隊指揮は拙いが勇猛果敢な者である。
「突入した前衛より報告です! 敵の旗は【夏侯】! 繰り返します、旗印は【夏侯】なりと……」
「やはりか……夏侯両将が袁家に降ったというのは事実だったな」
「いかがなさいますか、呂虔様」
暫しの逡巡を得た後、呂虔が出した命令は緩慢に後退であった。
夏侯惇・夏侯淵の両将ともに猪武者の傾向がある。
故に引けば前に出てくると踏んだのだ。
「裏切者に未来など与えぬ。我らが敷く必殺の地に引きずり込んで血の償いをさせるのだ」
「承知いたしました。孟徳公の仇を討ちましょうぞ」
随伴する従士に鋭く告げると、馬に鞭を入れて踵を返した。
しかし……と呂虔は思う。
李通は良い。勇猛果敢にして指揮能力も高い。やや猪突の傾向があるが、前線の将としては合格点を与えられるだろう。
徐商も若輩ながら周囲をよく見て行動している。
経験を積んでいけば新生曹家を担う将になることが出来るだろう。
「問題は劉岱・王忠か……あの二人に付ける薬は無いのかもしれんなぁ」
戦線を整理し、細かく分断されつつあった伍を組みなおし什にする。
犠牲者が出ぬわけではないが、誘引という目的があることは幸いだろう。
「左翼の徐商を早く下がらせよ。嫌な予感がする」
「承知いたしました。早馬を送ります!」
呂虔の予見は当たっており、この時夏侯淵の支隊が左翼側面を突きつつあった。
軍師不在の中、各将は己の経験と勘で戦わなくてはいけない。
呂虔は慣れぬ指揮を執りながらも、最小限の犠牲で軍を引く事に成功する。
さて、問題の前線なのだが……。
――王忠・劉岱
「ええい、逃げるな! ここで盲夏侯を討ち取れば末代までの誉れぞ! 手柄首を目の前にして背を向けるなど、栄えある曹家の軍か!」
「王忠よ、そういえば出撃前に軍師殿が申しておっただろう。我らの任務は敵の誘引じゃと」
「何を惰弱な! 憎き夏侯の首を挙げれば戦の趨勢は決する。徹底的に攻めるのが吉だ!」
王忠は強きに従い、弱きを挫くという典型的な小物である。
能力も低く、兵からの人望も薄い。
一方の劉岱は戦の才能こそないものの、一時国人であったことから統率には慣れている節があった。
「引くのじゃ王忠。このままでは全滅ぞ」
「それよりも先に喉笛を噛み切ってやるわ! 者ども、我に続け!」
「ああ、また突撃しおってからに……」
夏侯惇の苛烈な攻めを受け、両将の軍は防戦一方であった。
しかし王忠は少ない兵を引き連れては、敵陣に攻めることしばしば。
結果より強力な攻勢によって跳ね返され、何度も無駄に兵力を損なってきたのだ。
「劉岱様、このままでは……」
「潮時じゃな。者ども、我らは引くぞ! 後陣の呂虔隊まで走るのだ!」
その有様、まさに潰走。
旗指物をかなぐり捨て、必死の形相で逃げる兵たち。
軍を預かる劉岱も他人のことなど構ってはいられない。少しでも足が鈍れば、盲夏侯の鯨波に飲まれることになるだろうから。
「王忠様、劉岱殿が撤退されたようです……我らも不味いのでは?」
「臆病者など捨ておけ! 夏侯兄弟の首さえとれば、あとは腑抜けの袁家が残るのみ。全軍、進めーっ!!」
疲労しきった兵はそれでも前に足を動かす。
それが己の死刑執行であると弁えながらも、将の命に従うのが義務故に。
「はっはっは、手柄は思いのままだぞぅっ!」
王忠の高笑いが、妙にうすら寒く木霊したのであった。
――夏侯惇
「どるぁああああああああああああああっ!!」
一閃、大地を揺るがす。
曹操孟徳の側に在り、己を律していた夏侯元譲は今は居ない。
荒ぶる破壊の使徒が顕現し、当たるを幸いに敵を文字通り宙へと吹き飛ばしていった。
「この雑魚共が! 貴様ら誰に槍を向けているのか理解しておるのか!」
「か、か、夏侯惇……将軍……たすけ……」
「死んで償え痴れ者がッ!」
兜を脱ぎ捨て、汗を荒々しくぬぐう。
張り付いていた髪は藺相如の如し。
「どいつもこいつも主家に楯突きおってからに。貴様ら、曹魏の牙門旗が目に入らぬのか!」
「え、そ、そんな……あれは確かに孟徳公の……」
「状況を理解した者は武器を捨てよ! 三秒だけ待ってやる」
瞬の間に武装解除は済んだ。
流石に曹操直々の旗印があれば、誰が虚偽を働いていたのか一目瞭然だ。
「フン。理解ったら道を開けろ。用があるのは敵将だけだ」
「は、はい……」
前線の王忠兵は既に戦意喪失し、夏侯惇の言うがまま。
知らぬは将ばかりなり。
「元譲様、敵将の旗が近づいておりますが……その、十名にも満たぬ少数です」
「馬鹿なのかそいつは。この夏侯元譲を前に、たった十名で首を取れると?」
「わ、わかりませぬ。しかし喊声を上げて突進して来ておりますれば……」
ブチ殺す。
夏侯惇の目から色が消えた。
黄巾賊が虐殺を働いた現場ではしばしば起きたことであるが、夏侯惇は『プッツン』すると辺りに動くものが無くなるまで暴れるのだ。
「いかん、元譲様のアレが出る……!」
「退避ー! 退避だっ!!」
抜いた大刀に翳り無し。
かの英傑関羽とも互角に戦りあってなお輝く逸品だ。
「はっはっは、見つけたぞ盲夏侯! その首王忠がもらい受ける!」
第二の地雷は『盲』という言葉である。
呂布軍の曹性に射られた左目が大層気に入らず、鏡を見るたびに叩き割るほどに神経を逆なでしていたのだ。
「行くぞ、右目もくりぬいてそっ首叩き落としてくれん。いざ覚悟っ!」
「…………この野郎」
風圧。
風など吹いていないのに、そこに居た全員が強烈な圧迫感を覚えた。
まるで溶岩が滾っているかの如く、質量を纏った怒りが王忠の目に入る。
「ひっ!? お、おい。貴様らかかれ! 敵の首を持ってまいれ!」
「……化け物だ。逃げろ、命あっての物種だ!」
「待て、おい待ってくれ! 命令だぞ!」
鈍い足音が中華の地を踏みしめる。
熟練の職人が剣を鍛造するかのように、一つ一つ、確実に。
「王忠、だったか」
「は、はひゃ……はい」
「孟徳に一度は見逃された身だろうに。馬鹿な男だな、貴様は」
「い、いえ……その、これは何かの間違いでして……」
「――消してやる」
「えっ? その、ここは穏便にですね……」
「俺の前から消え失せろ、カスがっ!!!!」
その存在、無かったことにしてやるわ!!!
怒号と共に大刀が王忠の頭蓋を寸断する。
そのまま股下まで斬り抜き、騎乗していた馬ごと両断した。
刃は砂塵を巻き込み、まだ餓えているかのよう。
血が足りぬ、まだもっと足りぬと。
「貴様如きの命でこの大逆、賄えるものか。必ずこの俺が首謀者を同じ目に遭わせてくれよう」
刀を振って血煙を削ぎ落す。まだ斬るべき相手は無数におり、夏侯惇の進撃は止まることを許されない。
己が惚れ込んだ漢の名が汚されたのだ。必ず血と鉄の報いを与えんと欲していた。
夏侯惇の目に生気が戻った。
気づけば王忠の死体は既に粉々になり、原形をとどめていない。
荒く息を吐いた夏侯惇は、前方で従弟の側面攻撃が成功したことを見て取る。
奇襲を任せれば曹軍随一。
夏侯淵妙才が織りなす焔のような攻めに耐えきれる者は少ないだろう。
「少しは残しておけよ、妙才。この俺の分までな」
脱ぎ捨てた兜を兵卒から受け取り、心を落ち着けて再び進軍を始める。
「フン。見え透いた誘引を使いおって。そのために雑魚ばかりを配置するとはな」
曹操より授けられた策戦は、敵の手に乗る寸前での離脱だ。
敵は己の策が実行されていると信じているときは、驚くほど無防備になるもの。
天下の鬼才・曹操孟徳の戦は始まったばかりだった。
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