第百三十九話 劇場版・郭図
――龐統
律動する馬の動きが続けば、否が応でも目が覚める。
それも人に庇われているのであれば猶更だ。
「ナジャ、か?」
「ハイ、シゲン様。ビンレイも共にアルます」
「そうか……最終の脱出手段を執っているってことは、全てが終わったってことかい」
時は夕刻。一番星が自己主張を強める頃合いだ。
血風の匂いは遠く、ただ平原を走る馬の蹄が木霊している。
龐統は自らの不明によって、同志たちの策に大きな穴をあけてしまったことに嘆息した。
「やっちまったなぁ……。こりゃ何を言い訳しても償える気がしねえぜ」
「シゲン様いれば、ミンナウレシイ! ナジャ守る!」
「ビンレイも、シゲン様とイッショ!」
年端も行かぬ子供に護衛させているこの身が、途方もなく情けなく感じている。
龐統は馬を止めさせ、地に立って拱手する。
「獏族の義挙、誠に感謝にたえない。この龐士元、最後の時までその念を持る。また子を持つことがあれば、必ず教え伝えると約束しよう」
「シゲン様、マダ負けてナイ! ボクたち戦う!」
「ビンレイも戦う! そしてシゲン様のコドモウム!」
真っすぐな瞳に射すくめられ、龐統は困り顔を作るしかなかった。
なぜなら、これまでの二人の苦労を壊す発言をしなくてはならないのだから。
「さて、と。今ここはどの辺だい?」
「ニシのホウへとキタ。モウスグ『鬼の喉』にツク」
「へぇ、そいつは物騒な名前だな。どんな場所なんだい?」
「ビンレイ、知ってル。道細クテ、ガケがアル。そこを進むノハダメ」
(なる程、張燕の残党を残してきた隘路のことを指しているのか。
確かに今、あの難所を通れる軍はいないだろう。
まだ生きている兵を吸収すれば、多少の手勢にはなるのかもしれんなぁ)
龐統は可能性の糸を手繰り寄せる、
敵将の一人でも捕らえれば、最悪交渉に入れるかもしれない。
計略の座組を話し、袁家に協力を仰ぐしかないと観念するしかないだろう。
「功を焦るのはよくねえな。この首一つで許されるわけはないが、せめて有利に持ち込みたいわな」
風貌怪異と称される龐統は、その茶色に焼けた肌を手でつるりと撫でる。
後ろで結った茶色い髪と、耳に付けた大きな円環。
清貧を旨とする儒教とは滅法相性が悪い風体だ。
「二人とも、ここから獏の里へ帰れるか? 士元のおじさんはまだやることがあるんだ」
「ダメダ。シゲン様は俺たちがマモル」
「シゲン様、ビンレイとクラス!」
「参ったねぇ。ここで長話をするわけにはいかないんだがなぁ」
龐統の目が鋭くなった瞬間であった。
「ダレカ……クル。とても危険ナ、ナニカ……」
「シゲン様、ビンレイの後ろニ。テキ、コワイノがクル」
進もうとした間道から現れたのは『袁』の黄色い旗。
そして大将旗は『郭』
「おうおう、なんだ坊主ども! てめえらが戎狄の奴らか!? チッ、こんなクソガキどもまで戦に参加させてんのかよ……あったまくるぜ」
近場に落雷でも落ちたかのような大声だ。
頭に巻いた赤い頭巾に、髭達磨の面。筋肉で鎧でも編み上げたような巨躯。
「だがもう安心だ。この張翼徳、ガキは守れって教わってきてんだ。そっちのオッサンは一族かなにかかよ?」
「コノ人……ハ」
コホン、と一つ咳ばらいをし、龐統は口を開く。
自分の風貌が戎狄に似ているという一点をもって、この危機を凌ぐべく舌を回す所存であった。
「アナタたちは、ドコのヘイでしょうか? ワタシたち、ニゲテキタ。タタカイアッタ」
「あんまり言葉が伝わってねえのか。おっしゃ、まあ座れや。座るんだよ、こーこ」
「は、ハイ」
龐統は九割九分ここで死ぬと理解しつつも、最後まで足掻いてみせようと反骨心が消えずにいた。故に喋る。
必死に逃げてきたこと。
一族の村が巻き込まれて、子供だけでも助けてほしいと。
近くで大きな戦があって、恐ろしいこと。
「そうかい……そいつは難儀だったな。そういうことであれば、この俺様が師匠に頼んでやるぜ。大船に乗ったつもりで、ゆっくりとしてな!」
大男は踵を返し、兵士たちを押しのけて隊列の後ろまで進んでいくようだった。
(第一関門はこれで突破か……さて、あとは軍の大将を丸め込めばそれで……)
ぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
ドス黒い妖気、と形容すべきだろうか。龐統は途方もない邪念を感じ取り、とっさに立ち上がってしまう。
「師匠、こいつらですぜ。こーんなにちっこいガキども連れてちゃ逃げきれねえ。どうにか俺様たちで保護できねぇかな」
「ふむ……ふむ、ふむ」
男に見覚えがあった。
龐統の脳裏浮かんだのは、智謀の臣たちと論戦を繰り広げたときのことである。
唯一人だけ口を開かず、事の推移を見守っていた儒者がいた。
脂ぎって小汚い容姿だが、眼光はやけに鋭い。まるで心を読む妖怪のように。
「チ……郭……公則か」
「ひょ? 今何か申したのですかな」
「イエ、厠にイキタイと、コドモタチが」
「うむうむ。翼徳殿、彼らに食料を分けて差し上げるとしよう。乱世では逃避もまた一つの手段。明日は我が身やもしれぬしな」
郭図の好意に「わかってらぃ」と返し、やがて山盛りの饅頭を携えて帰って来た。
後の話であるが、補給班は「死を予感した」と述懐したという。
「さて、そこもとのお名前をお聞かせ願えるかな」
「俺ハ……ホ……法正とモウシマス。ドウカ子供たちはオミノガシくだサイ」
「よいよい。この郭公則、小童の健やかな姿を見ることができただけで満足なり」
「お慈悲……アリガタク」
子供たちの頭を撫でようとして、避けられる郭図。
「オマエ、クサイ!」
「カオガ、キモイ!」
「うむうむ。元気でよいことじゃ。これぐらいの気骨があれば、乱世でも生き延びることができよう」
「寛大なオコトバ……して、カクト様は、どちらへ行かれるノデ?」
「ふむ。我らは河北の次期党首にして袁家の至宝であらせられる、袁顕奕様の名代なり。邯鄲を侵した賊徒を誅すべく軍を向けているのである」
「カンタン……ドコデショウか」
無知を装う龐統に、郭図は得意満面でいらない情報をペラペラしゃべる。
曰く、自分たちの軍は少数であること。
曰く、自分は袁煕の正軍師であり、腹心中の腹心であること。
曰く、現在袁家の軍配置が混乱しているということ。
(こいつ稀に見る本物のバカなのか? いや、俺を試している……のか。こんな情報を握らせて、あっさり解放する気はないだろう。となれば、側に留め置くつもりか)
龐統は活路を発見した。
偽装情報かもしれぬが、通りすがりの戎狄に情報を開陳するはずがない。
ならば、側近として召し抱えられるかもしれない。
「カクト様……ワレラ行くところナク、今後ドウスレバ良いか、ワカラヌママデ」
「ふむ……よし、では臣が殿に直接ご許可を頂くとしよう。戎狄の者たちよ、今より臣に仕えよ」
「お召し抱え、アリガタク……」
(勝った……!)
殿に直接……ということは、この阿呆に付き従えば袁煕の元まで行けるということだ。そうなれば形勢逆転となる。
本来の目的である、張燕兵と戎狄兵を餌として、全軍を釣りだす役目は果たせるだろう。後はそのまま北上する曹操軍に刃を返してもらえれば、それでいい。
「ここにおられたか。探しましたぞ」
「公則殿、いくら何でも大将が先頭に出られては……聞いておられますかな?」
太史慈と司馬孚が汗を拭きつつ愚痴をこぼす。
一体どこの誰がこの愚か者を大将に据えたのだと、文句を言いたげな瞳を添えて。
「そうじゃ。一つ気になっていたことがあっての」
郭図が酒をちびりと飲みながら、何気なく口にする。
「戎狄の男よ。何故この郭公則の諱を知っておったのだ? 確かに申したの? 郭図様、と」
(こいつ……まさか……武将が揃うのを待って、俺を……!)
「翼徳殿の蛇矛。太史子義殿の鉄鞭。お主、どちらが好みかのぅ?」
「こ、これは罠だ! 俺は嵌められたんだ!」
「流暢に喋れるではないか。うむ、ひっ捕らえよ」
蟻の一穴。一つの言の葉。
龐統は状況を打開し、失点を打ち消さんとするあまりに、齟齬をきたした。
極めて不可解且つ遺憾な状況だが、邯鄲の戦いにおいて戦功第一位を得たのは、他でもない郭図その人であった。
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