第百三十六話 淳于瓊はやればできる子
――夏侯兄弟
「チ、ぬかったわ。妙才、付いてきているか!?」
「おうよ! へへへ……しっかしやるなぁ、あの野郎ども。初手から裏切ってくるとは、読めねぇやな」
「引き返して首をもぎ取ってやりたいが、孟徳の下へ戻るのが先だ。もしやこの裏切りは壮大な策やもしれん」
烏巣を襲撃した部隊は一万にも及ぶ数であった。しかし今は傷ついた数百騎のみが随伴するばかりである。
残りは討ち取られたか、それとも降ったか。
夏侯兄弟は無念の臍を噛みしめ、一路後方の曹操軍本隊へと急ぐ。
「まった、兄者! さっきからどうも撤退がうますぎる。追手が全く来ないのも変だぜ」
「さりとてここで足を止めるのも下策だろう。孟徳と合流してしまえば小さな策なぞ力で粉砕してくれるわ」
「いや……もしかしたら、既に俺たちは罠にハマってるのかもしれねえぜ」
夏侯淵の勘はよく当たる。
そのことを知っている夏侯惇は馬を止めて小休止をすることにした。
「ちょいと偵察に行ってくるぜ。おい、十騎来い! ネズミどもが潜んでないか探りに入るぞ!」
「敵を補足しても深追いはするなよ、妙才。お前は変に意固地なところがあるからな」
「へへへ……兄者こそ短気は損気だぜぃ?」
当意即妙の軽口が得手の夏侯淵のはずだが、今は妙に噛み合っていない。
一抹の不安を覚えつつも、馬で走り去る姿を目で追うしかできないでいる。
――淳于瓊
烏巣を包囲し、火を放つ。
半年前にそう予告し、わざわざ直接言いに来た密使がいた。
「フッ、貴様はこの淳于瓊を舐めているのか? 春雷の貴公子と呼ばれしこの私が、敵の侵入を赦すはずも無かろう」
「……今私がここにおりますが」
「フッ、そういうことも稀によくある。小さいことを気にするのは男気が無いぞ」
「……話を進めてもよろしゅうございますか?」
首肯を確認し、使者は徐元直からの密書を手渡す。
曰く水鏡門下は現在曹操軍に仮初の服従を誓っているが、心は売り渡していないこと。時至らば必ず蜂起し、一気に葬る予定であること云々。
「ふむ……それゆえに私たちは『毎日酒宴を開いて乱痴気騒ぎする』のが上策と?」
「左様でございます。敵の細作は既に淳于将軍の好物を掴んでおりましょう。ならばそれを餌にするは、これ道理かと」
「フッ。敵もさるものだな。しかし烏巣には莫大な兵糧が蓄積されている。大掛かりに運搬しては敵に気取られよう」
「はい。ですので《《より一層の兵糧を運び込みます》》」
「お前は何を言っているんだ」
如何に計略とはいえ、火計に遭えば兵糧が消滅するのは免れない。
勝利を手にしても、それは一時の甘露。兵糧庫失陥の責の前では僅かな功に過ぎない。
「ああ、言葉が足りませんでしたな。兵糧をどんどん運び込む振りをするのです。無論輸送部隊の運ぶ兵糧樽は空っぽですが。そして帰還する部隊に兵糧を預け、そっくりそのまま中身を交換してしまうというのは如何ですかな」
確かに、兵糧と見分けのつかない荷物に移し、入れ替えるのは可能だ。
しかし随分と長い期間それを実行せねばならない。
「お前たちは……一体いつ頃の戦いを予見しているのだ……?」
「恐らく今より半年後になりましょう。それだけあれば、十分に準備が整います」
「ことの次第が大きすぎる。この氷の貴公子である淳于瓊、御館様にご報告申し上げなくてはならん」
「……春雷では?」
密使も当然そのことは理解している。
一将軍の判断で、重要拠点の偽装計画を実行するのは危険な賭けに過ぎるだろう。
「お返事はいつごろいただけますかな?」
「フ……七日程いただこう。この神速の貴公子が手勢は、千里万里を越えて疾く伝令を完遂させるからな」
「……では、七日後にまた伺います」
「そう言えばお主、名前を聞いておらぬな。許す、この私に名乗るがよい」
男は口角を上げ、そっと微笑んだ。
「……崔周平と名乗っております。お見知りおきください」
「うむ、覚えておこう。では往くがよい! 袁家の繁栄を担う翼として!」
「……失礼いたします」
半年が過ぎ、淳于瓊は彼の者の言が正しかったことを知る。
魏武の化身と謳われた夏侯惇・夏侯淵の両将を追い詰め、今こうして張り巡らせた伏兵地点へと誘導を完了したのだから。
「淳于将軍、攻撃準備整いましてございます。敵将は小休止中なれば、今が好機かと」
「フ……風が……泣いておるな……」
「は?」
「此度の合戦、多くの者が散っていった。背を圧すような風は、散華したもう魂の慟哭やもしれぬ……」
やべえ、こいつイっちゃってるよ……。
側近の目は、妖怪を見たように半開きになっていたのだが、淳于瓊はまるで気にしないままでいる。
「では皆の衆、狩りの時間だ。漢室の校尉による正義の討伐戦である。各々勇を奮って手柄をもぎ取るのだぞ!」
「応ッ!」
崔周平と共に練った待ち伏せの地点。
それは実際に馬を走らせ、兵士を移動させて割り出した行動限界点だった。
「淳于将軍がまさか汗水流して地道なことをなさるとは、思いもよりませなんだ」
「フ……勝利の前にはこの淳于瓊、いくらでも泥水にまみれよう。宝石はどこにあっても輝くのだからな」
淳于瓊はまず酒量を制限し、己を律することから始めた。
規則正しい生活と訓練、そして忠実に軍旗を厳守する。
測量や観測、調査などは率先して陣頭に立ち、兵たちを鼓舞してきた。
次第に将も兵も引き締まっていき、目つきが戦びとのそれになる。
『淳于瓊よ、其方に烏巣での火計を命ずる。見事期待に応えて見せよ』
袁紹直々の命令があったことも手伝い、彼らのやる気が入雲するまで高まる。
「長き修練の日々であったな。よし、全軍突撃である!」
「っしゃあああああ!」
「おおおおおおおっ!!」
号令一下、森や林が動いた。
『偽離異数津』
袁煕が郭嘉とともに作り上げた特殊兵装だ。迷彩効果が高く、実用的であることから評判が非常に高かった。
袁紹は大々的に生産を奨励し、甄姫の建てた公社に命じて各軍に試験配備出来るよう促していた。
「御館様の……いや若殿の発案には感服するばかり。フ……ここまでお膳立てされたのであれば、この森の貴公子の名を返上せねばならんな」
ギリースーツは一メートル近くに居ても気づかないほどの隠密性を持っている。
手に得物を持った部隊は、干餅を水に溶いて食べている夏侯惇の部隊へ迫っていた。
「今だ、かかれっ!」
短弓による至近距離の連射は、油断していた兵士たちを次々と薙ぎ倒していった。
「馬鹿な……俺がこの距離まで接近させるとは……」
藺相如のように怒髪天になる夏侯惇だが、自らの部隊を襲ってきた影を見て口をあんぐりと開けてしまう。
「なんだ……貴様らは……。森に住まう物の怪か何かなのか……」
飛来する矢を弾きつつ、敵を見定めようとしたのだが、それは無為であった。
既に勝敗は決しており、血路に次ぐ血路を開いて逃れるより他にはない。
「覚えておれ! 物の怪ども、後日必ず刀の錆にしてくれん!」
「奴が敵将だ、放てっ!」
「ぐうっ!? クソ、おのれ……こんなところで死ぬわけには……いかぬ!」
馬にしがみつき、離脱を試みる夏侯惇だったが、その速度は遅く馬も碌に操れていなかった。
「おのれ……ならば一匹でも多く屠るのみ。この夏侯元譲を舐めるなよ!」
「もらったっ! 閃光の貴公子の手柄になること、誉れに思うがいい!」
引き返そうとした夏侯惇の胸に、淳于瓊の槍が刺さろうとして――
「兄者ーーーーーーーッ!!」
「うぐあっ!?」
騒ぎを察知し、帰還してきた夏侯淵が放った矢が、淳于瓊の頭部に突き刺さった。
「兄者、撤退だ! こっちに来い!」
「ぐぬ……妙才……お前だけでも逃げろ」
「馬鹿言ってんじゃねえよ! ほら、行くぞ!」
馬術巧者である夏侯淵により、大の男二人乗りのまま辛くも死地を逃れていく。
一方襲撃を試みた淳于瓊は瀕死の重傷を負っていた。
「淳于将軍、お気を確かに! ああ、左目に深々と……」
「この私の顔に……傷をつけたのか。フ……これでは隻眼の貴公子になってしまう……な」
「将軍!」
淳于瓊は部下を制して立ち上がり、左目に刺さった矢を眼球ごと抜く。
そしてそれを喰らった。
「父母より頂きしこの肉体。如何なる戦傷を受けようとも無駄にはせぬ! 我が覚悟を知れぃ!!」
「おお……将軍、なんというお覚悟か……」
「敵は僅か二騎。追え! 追ってその首級を上げよ!」
最終的には夏侯兄弟を討つことは叶わなかったのだが、鬼神の如き活躍から、周囲は『盲淳于』と綽名するようになった。
尚、淳于瓊は鏡を見るたびにこう述べていた。
「ああ、片目の無い私も美しい……この傷が今までになかった勇壮さを醸し出してくれる。完璧とはまさに私のことを称しているに違いない」
とのたまい、部屋中に鏡を配置したそうだ。
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