第百三十五話 烏巣方面 徐庶元直の毒牙
―—烏巣方面
烏巣。
先の戦では見逃されていた場所だが、今回は看過されずにいる。
「フン、忌々しいが兵糧が無くてはな。孟徳に姑息な窃盗をさせるとは、あのガキめ」
「そう切れるなよ、兄者。へへへ、ついに俺たちが前線に出られるってんだ。もう陳留で書類整理は御免だぜ」
「そうだな……黄巾の賊徒を追い回していた時を思い出すわ。剣の腕が鈍ってなければいいが」
夏侯惇は大刀を馬上で振る。
速度、キレ、重み。何の変哲もない動作だが、見る者を驚愕させる一閃だった。
鉄が持つ殺傷力に、兵士たちは肝を冷やすのである。
「ふむ、まあこんなものか。袁家に振るうには勿体ない刃だが、孟徳のためか……仕方無い」
「とか言って、やる気満々じゃねえか。兄者、そろそろ『協力者』がとの合流地点だぜ」
「妙才、信用できるのか、そいつらは? 鉄火場で裏切られたら洒落にならん」
「あの諸葛孔明の同門だしなぁ。へへへ……鉄火場なら鉄火場で面白いことになるさ」
やれやれと眉をひそめる夏侯惇の前に、一人の男が向かってきた。
「止まれ貴様! 名を名乗れぃっ!」
「兄者、そんな威嚇せんでも……」
「これは失礼。私が孔明の同門の者で、此度の烏巣攻めを担います。姓を徐、名を庶。字を元直と申す」
水鏡門下の智謀の士であるとは聞いていたのだが、徐庶の纏う気配は剣士のそれであった。証左として、腰には使い古されたと思しき撃剣を佩いている。
「既に私の部下が配置につき、烏巣を包囲しております。仕込んである計は……」
「フン、大方夜陰に乗じて火を放つのであろう。孟徳も上策と言っておったわ」
「流石孟徳公です。単純にして強力、そして効果絶大なれば使わぬ手はありません」
夜襲をするには徐庶側にも必要性がある。
天灯を使用するので、光の数を伝えるためには夜でなくてはならない。
協力者の数は少ないが、徐庶が今宵照らす光は怨敵に牙を突き立てる、反撃の狼煙となることだろう。
「敵将は淳于瓊。西園八校尉の一人です。侮るべきではない相手かと」
「それはどうだろうなぁ……へへへ、俺たちの殿は何でも知ってんだ」
「と、申されますと?」
「元直君にこの妙才様が教えて進ぜよう。淳于瓊は極度の酒乱で、任された拠点ではいつも酩酊しているらしいぜ。そんなやつが兵糧庫に陣取ってるんだ、酒盛りもさぞ気合いが入ってることだろう」
見上げると、烏巣の小高い陣では炊煙が上がっていた。
陽は傾きつつあり、山間には影が深く降りてきている。
「んで? 元直君としてはいつ頃攻めるんだい。あんまりのんびりしてるワケにゃぁいかんしなー」
「今宵、淳于瓊を殺ります。兵糧庫の兵士は僅か三千、それも前線から離れた距離にあり、士気も落ち込んでいましょう」
追加で徐庶が述べる。
淳于瓊の直下兵団は貴士族で構成されている。
高い身分の生まれであることから、危険な前線任務とは無縁の兵役期間を与えられていた。
「フン、それじゃあ貴族の子せがれ共に、本当の戦を教えてやるとするか」
「夏侯元譲殿、夏侯妙才殿。敵を討つのも重要ですが、兵糧の焼却が第一です。袁家全体の稼働率を下げるためにも、この一手は外すわけにはまいりません」
「わかっておるわ。貴様はせいぜいその撃剣を磨いておれ」
「……お任せいたします」
徐庶は拱手をして去っていく。
薄気味悪い奴だと夏侯惇は見送るが、徐庶が深い皺を刻んで嗤っていたことには最後まで気づかずにいた。
―—淳于瓊
酒好きが兵糧庫を守るとどうなるか。
答えは淳于瓊と配下たちの乱痴気騒ぎである。
「淳于様の! ちょっといいトコ見てみたい! あそれ、一気、一気!」
「フッ、このたわけめ! ごぶごぶごぶっ、くぁー--! 染み入る!!」
「さっすが、殿! いよっ、河北一!」
「おだて過ぎだぞ。名門・袁家に仕えしこの校尉の前には、酒なぞただの癒しの甘露に過ぎん。いくらでも持ってくるがよい!」
煽り酒に絡み酒、そして終わりを見ない酒宴と量。
淳于瓊たちの毎日は、恐らく河北で一番平和で充実していたことだろう。
今宵までは、だが。
淳于瓊が小用をたしに中座した。
左右にゆらゆらと揺れ、直垂は酒の染みで汚れ切っている。
「うーぃ……ひっく。フ、お役目とはいえ、こうも毎日酒漬けとはな」
カサリ、と厠で音が鳴る。
赤ら顔だが、見事な美男子である淳于瓊の、端正な顔に緊張が走った。
「委細、こちらに」
「……承知した。作戦通りに決行する」
淳于瓊は厠を出ると、何食わぬ顔で酒盛りの席へと戻った。
「さぁ、皆の者! もっと飲むのだ! 袁家の宴は『《《来るもの拒まず》》』だぞ!」
「……承知しましたぁん! 一番、王槐! 尻踊りをご披露しますぞ!」
「なんの、この毛景が馬と交尾を……!」
「フッ、意気軒昂でよし! どんどんやれい!」
気が付けば、弓の勝負が始まった。
そして鎧を着こんでの剣舞。馬との食べ比べ。
槍を回す大会にも発展した。
「酒が足りんぞー! もっと飲ませてくだせぇ!」
「フッ、よかろう。酒蔵を全て開けよ!」
「さっすが淳于様、最高の上司ですぜ!!」
雪崩込むように、蔵の中へと兵士たちが走っていく。
その様子を見て、一房だけ伸ばした前髪をかき上げつつ、淳于瓊も続く。
「さあ、酒宴はこれからだ!」
―—曹操軍
パチパチ、と火の手が上がる。
煙と烈火に包まれた兵糧庫は次々と燃え落ち、中に貯蔵されている全てを炭へと変えていった。
「敵襲ーっ! 敵襲だ! 炎を消せ!」
「いや、敵軍の襲来に備えるんだ。みんな死んじまう!」
「逃げろ! もうだめだ!」
声は四方から響き渡り、それぞれが異なる命令伝達を行う。
それは烏巣を守る兵士たちを極限まで混乱させることだろう。
——中に兵士が居れば、だが。
「フン、陶謙や呂布の手下どもが……山賊に成り下がったと聞くが、その分手際が良くなているのだろうな。下種な戦いが板についている」
「そうこき下ろすなって兄者。おかげでこうして楽に火計にハメられるんだからさ」
臧覇とその配下の将たちが、一気呵成に火つけをし手回った。
天を衝く業火に、鳳凰すらも身を焦がして落ちるであろう。
「そろそろ行くか。尤も、既に焼き尽くされた後かもしれんがな」
「なーんかアッサリしてんだよな。まあいっか、兄者、お先っ!」
「おい、妙才! 阿呆が……勝利以外ない局面ではやりおってからに。よし、俺たちも前進するぞ! 敵将の首を持ってきた奴は、一気に千人将まで昇格だ!」
「応ッ!!」
軽騎兵の二群が焼ける陣営に突き刺さる。
馬防柵を破壊し、簡易的な堀を越え、門を破壊していく。曹孟徳が誇る腹心中の腹心たちは、淳于瓊の首を狙い烏巣の地を踏みしめた。
「誰も……おらんだと?」
「兄者ー-っ! やべえ、これやべえよ!」
「見ればわかる。クソ、どうなっている。作戦が漏れたか」
三千は詰めていたとの報があったにも関わらず、重要拠点には人っ子一人いない。
夏侯淵はまだ焼け落ちていない兵糧樽を剣で開ける。
「兄者、無い! 兵糧がすっからかんだぜ!」
「おのれ……子ネズミ共が余計な機転を働かせよってからに」
全軍撤退。その声を挙げようとしたときには、既に遅きに失していたと気づく。
「《《本命打》》、放て!」
徐庶元直と部下たちが率いる弓兵が、一斉に夏侯兄弟の率いる軍に雷撃を放った。
容赦のない霙のような一撃に、次々と命はかき消えていく。その後に灯るのは、弔いの炎のみだった。
「貴様ッ! 気でも狂ったのか!」
「孟徳公自らが来てくれたのであれば、俺ももう少しやる気が出たんだがな……まあいい、夏侯元譲、妙才。お前たちにはここで死んでもらう」
第二射の準備が整った。
「放て」
徐庶の撃剣に従い、無数の矢が戦場を舐め尽くしていく。
「うおおおおおおおおっ!!」
「行くぞゴルァァァァ!!」
両将の咆哮一喝。残存兵士たちも合わせて、倒れた仲間の死骸を盾としつつ血路を開いていく。
「ここで逃すわけにはいかない。第三射!」
矢玉は空を切る。
全身傷を負いながらも、奇跡的に生きている馬を拾って夏侯兄弟は戦場を離脱した。
「なんという豪運。そうでもなくては、将などはやっていられんか。まあいい、後のことは任せるとしよう」
徐庶はいなくなった淳于瓊に、天灯で合図を送るのであった。
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