第百三十四話 そんな態度でいいのか、小僧。
―—曹操
大号令が発せられた。
于禁の捕縛、李典・楽進の戦死を受け、曹操軍は一時撤退となった。
その余波は広がり、曹孟徳の威信に翳りが射す次第にまでなっている。
「孟徳公、まさか袁家の七光りどもを放置はしませんな? ここは魏武の魂を見せつけて、再度北上するべきですぞ」
「程仲徳よ、斯様に挑発せずとも儂が戦の流れを見逃すと思うてか? 先の戦いにおいて受けた屈辱は万倍にして返さねばならぬのだ」
「であるならば、今こそが攻め時。水鏡門下における包囲網がある由にございますれば、鄴を攻め取るは容易かと」
「ふむ……」
当然のことながら、曹操軍にも主戦派と慎重派の二つがある。
現在主に向かって檄を飛ばしているのは、主戦派筆頭の程昱だ。
しかしながら、彼は先の戦にて兵士を見殺しにしておめおめと逃げ帰って来た人物である。曹操含め他の将兵は『次に切り捨てられるのは誰か』と疑念の声を内に抱いているのだ。
コン、コンと椅子の肘に指を打ち付け、曹操は目を閉じる。
次に遠征が失敗すれば、己の立場は砂上の楼閣の如く崩れ去るだろう。
「殿、ご決断を」
「殿……!」
曹孟徳の覇業を支える臣下たちは、何も無償の奉仕を与える存在ではない。
天下統一後に相応の報酬と官位が見込めるからこそ、彼についてきている。
「父よ。騒がしい家臣など斬り捨ててしまえばよかろう。どいつもこいつも口ばかりで役に立たぬ」
「子桓よ、そう鼻白むでないわ。戦の気配に酔うと血の鮮花が咲くぞ」
「雅なことで結構だ。父よ、貴方が出ぬのであれば、この曹子桓が鄴を攻め取って見せよう。父もそろそろ戦場ではなく日向が似合うお年かもしれぬしな」
不遜な物言いはいつものこと。
しかし曹操は曹丕の言にただならぬ毒を感じていた。
「子桓、齢十四にして何を求める。童故大功を夢見るのは致し方無いことだが、命を粗末にするには早すぎるとは思わんか」
「これ以上袁家を野放しにしておけば、我らが大望潰えるのみ。河北を征するもの中華を征すのは自明の理だ」
「如何様にして攻めるつもりか」
「無論、速戦速攻あるのみ。腐れ儒者どもが益体も無い罠を作っているようだが、そんなものは糞だ。曹家の旗、魏武の威信、賢臣の知恵によって堂々と攻めるのみ」
青い、な。
曹孟徳は息子の苛烈さと危うさ、そして臆することない輝きに目を奪われた。
その光は強烈であるが、同時に破滅と表裏一体である。
成功体験しか持っていない曹丕には、泥水を啜ってでも生き延びるという苦境のことを知る由もない。
「よかろう。白馬から鄴都への道を子桓に任せる。敵本拠を直撃し、見事奪ってみせよ」
「承知した。果報を待て―—行くぞ!」
「ハッ!」
群臣のうち、半数がその場を去って行った。
これがいわゆる『曹丕派』なのだろうと曹孟徳は理解する。
「元譲、妙才。親としては息子の尻ぬぐいはせざるを得んかな?」
「孟徳……お前のガキは何も分かっておらんぞ。何故河北が偉大なのか。そして袁家が巨大なのかを、な」
「ふむ、殿。この妙才思いますに、如何様に転んでも得をする手を打つのが理想かと。へへへ……」
そんな策などあるわけなかろうと、今度は曹操が眉をひそめる。
状況的にも現実的にも、曹丕の述べた速攻策が上策だ。時間をかければ物量で押し切られてしまうだろう。
「儂が利する絵図面、それは孔明の描いたものか」
「なんだぁ、殿知ってたんじゃないですか。人が悪いなぁ」
「重臣であれば耳に入っておろう。妙才、お前のそういういい加減なところは直せ。孟徳も呆れているぞ」
「構わん。ではその上策の上を行く『天策』、訊ねてみようではないか」
実直な夏侯元譲は場を引き締める役目を持つ。
逆に夏侯妙才はわざと惚けたことをのたまい、緊張をほぐす。
「おし、じゃあ俺が呼んできますよ。へへへ……殿、待っててください」
「ああ、おい! まったく、妙才は仕方のないやつだ。孟徳も今度何か言ってやれ」
「あれでこそ妙才よ。まさしく字の通りであるな」
「甘やかすとつけあがるぞ……」
しばらくしてのち、白地に緑色の袖口が縫われた衣服が姿を見せる。
顔と同じ大きさの冠に、大きな羽扇。
「お召しにより参上仕りました。諸葛孔明、御前に」
「よくぞ参った。お主にはこれより戦の絵図面を説明してもらいたい。できるな?」
「河北の雄、袁家との戦であれば―—必ず勝利を得られましょう」
「ほう! よくぞ言った」
孔明は現在の鄴包囲網を説明し、自ら義兄弟としている同門の英俊たちの策を開示した。
北方には龐統士元が。
東方・鳥巣には徐庶元直が。
南方からは諸葛亮孔明が。
「同時攻撃とな。いかなる手段を用いてそれを成すのか」
「秘中の秘なれば、お耳を……」
「孟徳、危険だぞ」
「構わぬ!」
孔明から告げられたのは、天灯の存在だ。
この歴史においては袁煕が発明し、郭嘉が実用化しているのだが、それをさらに改良して実戦に投入するという。
「宙に浮く炎……とな。その数によって攻撃の時を定めると」
「左様でございます。龐士元、徐元直共に水鏡先生のもとで作成した符丁がございますれば、敵方には知られずに意図を伝えることが叶いましょう」
袁家の大都市邯鄲と一大兵糧庫烏巣の襲撃。そして北方異民族の懐柔。
同時多発で事態が発生すれば、如何に袁家が巨大でも対応するのは困難だろう。
その間隙を縫い、最短距離を以て鄴を刺す。
「この度は子桓に勝利の美酒を贈らねばならぬか」
「お前のガキはもっと調子に乗るぞ? 今からでも大将を変えるべきだ」
「構わぬ。一度覇道を極めんとした身だ。己が息子に席を奪われるも一興」
「しょうもない奴だな、孟徳は……」
斯くして曹操軍最大規模の作戦が始まった。
第一路。
大将を曹丕とし、程昱・劉曄を参謀とす。
主な将として徐晃・李通・朱霊など。
大規模な渡河船団と攻城兵器。
総兵力三万。
第二路。
大将を曹操とし、荀攸・鍾繇を参謀とす。
主な将として夏侯家一門・曹仁・曹洪など。
足の速い小舟を主体に、軽騎兵・軽歩兵。
総兵力四万。
これに現在袁尚へと向かう龐統率いる三万の賊徒と戎狄兵。
そして臧覇・尹礼・孫観・呉敦。彼らを率いる徐庶の烏巣強襲部隊。
―—袁家
袁家の将は分断され、現在各個撃破の的になりかけている。
長姉・袁譚は現在居場所不明。麾下の二万も同様である。
ときおり袁煕のいる場所に将を送ってくるのだが、本人は道に迷っている模様。
長男・袁煕は邯鄲へ攻撃を開始した。
守将たる龐統が出撃し、妹に向かって行くを良しとせずにいる。
末妹・袁尚は鄴への道を完全封鎖している。無理に打って出ず、守備に徹する。
当主・袁紹は北平から南皮を通り、現在鄴へと向かっている。
率いるは十五万の兵力だ。
戦の火花は今にも炸裂するだろう。
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