第百三十二話 荊州の人材流出が異常な件について
―—魏延
荊州を出る前の魏延は不遇だった。
根っからの人相の悪さにより、仕官先では常に疑いの目でみられている日々を送っていた。
腐るな、自分。潮目はいつか変わる。そう言い聞かせて冷や飯を食むこと数年、出奔に至るのは河北動乱の噂を聞いてのこと。
「王威よ、これからは河北の時代じゃ。一山当てるぞい!」
「お主は相変わらずだのう……まあええか。俺もそろそろ先が見えてきたでな。死に花を見事に咲かせるのも一興よの」
「うんむ。俺を討てる奴がいるのかどうか、探し当てるのだ!」
「相変わらずうるっさい声だの……」
自分の姿かたちではなく、人格を認めてくれる君主はいないものだろうか。
魏延の心には、まだ見ぬ出会いへの期待と不安が広がっていたのだった。
◇
時は流れて現在——河北邯鄲付近。
魏延率いる部隊は鄴付近に布陣している袁尚のもとへと向かっている。
一刻も早く糧秣を確保し、健堅たる行軍にて物資の護衛をしなくてはならない。
魏延が袁煕から預かった兵は、まさしく精鋭中の精鋭である。袁煕の初出陣より付き従い、文字通り血反吐を吐きながらも任務を全うしてきた必殺の剣である。
「おーい、文長。どうした、静まり返って。いつも通りのバカでかい声は出さぬのか」
「王威、俺は今この任務に命を……いや、魂を賭けているのだ。蟻の子一匹通さぬよう、鉄の自制心を敷かなければならんのだ」
普段やかましく、どこかしら抜けている男の変わりように、王威は眉を上げて驚いた。野戦では突出して被害を出すこともしばしば。防戦では苦戦をすることも多々ある。
「俺は……殿の期待に応えねばならんのだ」
「そうか……。なら儂も頑張らねばな。お主が住まうべき大樹を見つけたことだしのう」
「うむ」
案内人である現地出身の兵に先導され、魏延は時には堂々と。時には道なき道を進んでいく。
心に在るのは『忠』の一文字だ。
当初袁煕に仕えたとき、過剰なまでの謙遜と軟弱な見た目から、彼を侮っていた。
河北広しと言えど、さらに名門袁家と言えど、この程度の人物しかいないのかと。
「初めまして、魏文長殿。いや、実に見事な筋肉ですね。さぞや武を磨かれてきたことでしょう」
「……は。腕前には自信があります!! どうぞこの魏文長の仕官をお許しいただきたく!!」
「ははは、気炎万丈ですね。ご心配なさらずとも大丈夫です。寧ろこちらから膝を折ってでもお迎えしたい所存」
「なんと!!」
世辞かと思ったら、袁煕は魏延の前で膝をつき、彼の手を取った。
「魏文長殿。その武勇と知恵を袁家にお貸しください」
「なななな!! と、殿! いけませんぞ! 名門のご子息ともあろう方が、俺のような無頼者に……」
「賢人をお招きするには、相応の礼をとるのが道理ですよ。私は魏文長殿の能力を信じていますから」
「な―—」
そこから先、魏延は実はよく覚えていなかった。
夢見心地、と表せばいいのだろうか。気が付けば袁家の歩兵部隊を任されるに至っている。
多少空回りすることもあるが、着実に任務をこなし続けてきて、今ここに大命を授かるに至った。
袁煕軍全軍の……否、袁家全体の生殺与奪を握る補給である。
「滾らぬはずがない」
「何か言ったかの?」
「いや、何も言ってない」
「お主が小声だと、調子が出んわい」
生まれてからずっと求め続けたものが、今ここにある。
『信じてもらえる』
魏延は乾いた大地に水がしみいるような心地を味わった。
今ならばかの武神関羽であろうと、飛将軍呂布であろうとも、自分が勝てる。
心身共に鋭敏になり、千里の先まで見通せるような明鏡の心地であろう。
「しかし、早いのう」
「当然だ。殿が待たれておる」
「何かこう、つきものが取れたようじゃな、文長よ」
王威の問いには答えず、魏延はひたすらに前進する。
袁煕やその幕僚の計算によれば、魏延が無事に袁尚と合流するには七日ほどかかると目されていた。
しかし、魏延はこの道を僅か半分の四日で貫いたのだった。
「ふぃ、文長よ、えらい強行軍じゃったの。腰が痛いのう」
「まだ呆けるのは早いぞ、王威。これより袁家の姫君にご挨拶を申し上げるのだ」
鄴都付近の陣地にて、魏延は天幕前に陣取る小柄な少女へと足を向けた。
「お初にお目にかかります。拙者は魏延、字を文長と申す者。殿のご命令により糧秣の補充にまかり越した次第」
チロ、と視線を向ける。そこには花のかんばせをして、光の粒子を纏ったような可憐な少女がにこやかに佇んでいた。
「よくぞ来てくれました、魏将軍。お兄様の状況は私の幕臣から聞いております。さぞや困窮されていることでしょうね……顕甫が案じていたと是非お伝え願いたいですわ」
「姫君様の御言葉、確かにお預かりいたします。必ずや殿に届けましょう。して―—」
「何かしら?」
「異常なまでの警戒態勢ですが、何か不穏なことでもおありでしょうかな」
「ふふ、魏将軍がお越しになられた際にも、何度か誰何申し上げましたね。常在戦場の心がけ……では納得していただけないでしょうか」
「拙者が知る立場ではないのであれば、それは出過ぎたことをいたした。ご無礼ご容赦を平に」
魏延が袁尚の陣地に到来するまで、厳重なまでの見回りと警備が張り巡らされていた。それは何か明確な敵に備え、脅威を退けんという大いなる意志だった。
「前方には張燕めと敵軍師龐統がおりますからな。年若くしてこの防衛陣形はお見事でございます」
「ありがとうございます、魏将軍。貴方ほどの武人に太鼓判を頂けるのであれば、顕甫も頑張った甲斐がありますわ」
目が……笑っていない。
魏延が手を伸ばせばすぐに触れられる距離にして、この少女は猛禽のような警戒感を発露している。
さもありなん、と魏延は嘆息する。
己が手塩にかけて治めていた大都市が、賊徒に蹂躙されているのだ。瞋恚の炎も広がるというものだろう、と。
「おーい文長! 荷駄隊の準備が整ったぞい」
「承知した、すぐに行く」
「お仕事がお早いですね。袁顕甫、感服いたしますわ」
「過分なお言葉を頂き、感謝の極み。しからば殿のもとへ参じようと思います。安んじてお任せあれ」
拱手・一礼をして去ろうとした魏延を、袁尚が鈴のような声で呼び止める。
「魏将軍、一つ伺いたいのですが」
「拙者に答えられることであれば、何事でも」
急激に気温が低下してきた。そう感じるに値するだけの怜悧さを、目の前の少女は発しているのだ。
「姉……袁顕思の姿を見ませんでしたか?」
「ご長女様ですな。いえ、恥ずかしながらお目にかかったことがございませぬ。それにお姿を見たという報告も受けては……」
「でしたら良いのです。ねえ、魏将軍――」
「は、はい……」
なんだ、この圧迫感は。
薙刀一閃で体ごと叩き斬れるほどの小兵に、今彼は気圧されている。
「《《間違っても、お兄様のところにはいませんよね》》?」
「お、おりませぬ。神仙に誓って虚言は申しませぬ」
「お兄様を一番愛しているのはこの顕甫です。この大事な一戦で、顕甫がダメな姿を見せてしまったので……んっ、はぁはぁ……お兄様にはお叱りを受けなくてはいけないんです。それにあの女の匂いがするのが我慢ができなくて、頭をかきむしりたくなるほどにイライラしてしまうんです。こんな顕甫はいけない子ですよね? ですからお兄様には……あっ、んっ、もっと顕甫に折檻していただいて、わからせてくれないと困るんです。魏延将軍、どう思われますか? 顕甫のお兄様への愛は伝わりますでしょうか。ねぇ、ねぇ、ねぇ!」
アカン。
魏延は己の毛髪が抜けていくような恐怖感を感じていた。
「袁顕奕様がお決めになられることでしょう。ですが、糧秣は確かに袁顕甫様の御手柄です。きっとお喜びになるでしょう」
「そうですよねぇ!! きっと顕甫をたー---くさん可愛がってくれますよね!!!」
「あ、うん。左様ですな」
然らば御免、と魏延は場を辞した。
「どうした文長よ。顔が青いぞ」
「こんな陣地に居られるか! 俺は殿のもとへ帰るぞ!」
「おい待て待て。何があった……って儂の話を聞かんかいっ!」
―—袁尚
「逢紀、こんな感じでいいのかしら」
「んふふ、お見事ですわよ、顕甫様。これで諸将にも袁顕甫は奇人であり、《《姉を敵視しているままであると》》」
「確か、綻びをわざと見せるのでしたよね。敵が誘い込まれるように」
「ええ。紛れている間者が面白おかしく報告するわよぅ。姉と妹の確執極まれり! ってねん」
謀士・逢紀による、袁尚の擬態だ。
半分はガチなのだが、既に袁姉妹は和解している。その事実が広まれば敵軍は余計に警戒を増してしまうだろう。
「そうそう、袁顕思様から面白い人物が送られてきたでしょう。すっごいわよ、あの人」
「姉上、意外と人材発掘の才がおありだったのですね。確かお兄様のところにも多くの壮士をお贈りになられたとか」
「アタシたちに足りない武力、袁顕思様が補ってくれたわぁ。素晴らしいわよ、あの弓術なんてシビれちゃう」
見上げた空には雄大に飛行する雁が一匹。
そして何の気配もなく突き刺さる矢。
「確か……黄忠とか言いましたね。一度ゆっくりお話しをしてみたいです」
「んふ、一席用意しましょうか。ささ、おひいさま、こちらで喫茶でも」
「ええ、ありがとう」
袁家の絆は、結びなおされている。
袁尚にとって、家族を信じることができる今がとても嬉しいことであった。
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