第百二十九話 司馬の覚悟と郭図の暴走
―—司馬孚
太史子義殿であれば破軍の矛として適いましょう。
深き悲しみをたたえつつも、闘志の炎が消えること無し。まさに武人なり。
兄上にご報告することが増えましたな。いやはや、これは生きて帰る必要が出てまいりました。
「司馬孚様、賊軍が……!」
「やはりそうなりますよ、ね」
この戦場において敵軍の定義とは何ぞや。
張燕軍の伏兵たちか。それとも戦意の無い自軍の兵か。
否。
元張燕軍である我らの兵と、攻め寄せる現張燕軍の両方ですね。
つまり、兵士たちが寝返るのは必定と言えましょう。
「袁家譜代の兵で乱戦を抜けます。郭軍師の脱出を最優先にしてください」
「は、それが……」
「何か問題ですか? 流石に軍師殿もこの状況を座視せぬでしょう」
数百名の袁家精鋭兵による、錐行陣形での突破です。少々いびつになっておりますが仕方ありますまい。
「軍師殿が……剣を手に後方へと……馬に乗って行かれまして」
…………。
「クソボケ野郎がぁぁあああああっ!! 頭イカれてんのかっ!!」
「し、司馬孚様……」
「コホン、失礼。取り乱して申し訳ありません」
状況を整理しましょう。
太史子義殿は前方の張燕兵へ突撃しました。報告を聞くに、彼一人の武勇は時間を稼ぐには十分であるそうです。
「太史慈殿に撤退命令を送ります。行ってくれますか?」
「よろしいのですか? このままでは我らは磨り潰されてしまいますが……」
「軍師殿を失えば、勝利しても打ち首になるでしょう。誠に口惜しいですが、後方へと軍を返します」
一度突破の形勢に転じた軍を戻すのは容易ではありませんね……。
無用な犠牲が出てしまいます。
ですが太史慈殿がいれば、この難局に対応できる手段が増えましょう。
「陣形を変えます。錐の頭部を後方へ! 先頭は……この司馬孚が努めます!」
「無茶でございます! 恐れながら太史慈様の到着を待つべきかと」
「行動が遅れればそれだけ兵を失います。他に道はありません」
冠を脱ぎ、兜へと。
文の道に生きる予定でしたが、大きく逸れてしまいましたね……。
いいでしょう。この司馬淑達、一つ派手ないくさ花を咲かせて見せましょうか。
「いいですか? 突破の際に用いる作戦を、方向を変えて実行します。先陣を走る騎兵の動きを注意して見ているのですよ」
「ハッ……ご武運を!」
それにつけても彼の邪知暴虐なる悪臣めが。
生きて戻れたのなら、必ずや正義の鉄槌を下して見せましょうか。
「全軍反転! 目標は上党方面へ! 血路を開いて突破するぞ!!」
「応ッ!」
乗り慣れない騎馬で敵兵と交差します。
そう、敵兵。
味方に引き込んだ賊軍が、目をギラつかせて私たちを狙っていますね。
「行きますよ。司馬の戦い、その目にとくと焼き付けよ!」
―—郭図
ひょ?
うむ、味方が来ぬな。
ええい、なんということぞ。敵に挟まれたのであれば、いち早く『壁の薄い』方向へ逃げるべきじゃというに。
まっこと下賤の兵士どもは役に立たぬわい。
「ぐ、軍師殿……周囲の様子が変ですぞ」
「な、なんだ貴様ら! 敵は後方だぞ。攻撃せんか!」
親衛隊が慌てておるな。
仕方のない奴らよの。臣ほどに泰然自若でなければ、戦で勝つことなど出来ぬというのにの。大いに臣を見習うべし。
「そこな兵よ、道を開けぬか。臣は退却せねばならぬでの」
「ばぁーーーーっかじゃねえの!? お前、状況わかってんのかよ」
「な、無礼な輩めが。ええい、誰ぞこやつを斬り捨てぃ!」
ひょっ?
うむむ、なんぞ、これは。
囲まれておる。それも袁家が慈悲を垂れて下した賊徒どもにだ。
なんたる不敬、なんたる不忠。
この郭公則の目が黒いうちにこのような暴挙を許すわけにはいかぬぞよ!
「てめぇをふん縛ってお頭に届ければ、俺たちゃ一転英雄ってコトよ。はっは、ざまぁねぇなぁ!?」
「そのようなこと、天地が許さぬぞ。ええい、袁家の軍のお通りぞ。平伏して道を開けぬか!」
「いつまで寝言言ってんだよ、オッサン。なんだったらテメーの首だけ持って行ってもいいんだぜぇ」
あ、マズいわい。
これは死ぞ。
下品に刀を舐めまわす姿なぞ、まさに外道にして蛮族。
雅な河北に相応しくない愚物なれど、臣めの命を脅かしているのは事実じゃ。
「ぐぬぬ……一時と言えども袁家に仕えた恩を忘れおってからに……」
「こちとら骨の髄まで賊なんだよ。お綺麗な軍隊なんぞ、奪う対象でしかねぇんだわ」
「黙らっしゃい! この小童が、郭公則に意見するなぞ一億年早いわい!」
「おう、じゃあ刹那のうちにぶっ殺してやるか」
絶対絶命など、臣は認めぬ。誰か、誰かおらぬのか!
「おら、馬から降りろ。ち、油っぽいオッサンだな……手がぬるぬるになっちまった」
ぐぬ、ここまで……なのか。
【嗚呼……臣はこの場で死ぬ。何の策も浮かばぬ。賊軍には敵わない】
心から思うてしまったわい……。
―—賊軍百人将 奔慈
「へっ、ついに諦めたか。ったく、手間とらせやが……うおっ!?」
強烈な熱風が吹き抜けていく。
これは幻術か? それとも妖術か。
「いや……気のせいか……。クソ、脅かしやがって」
少し気を引き締めねえとな。
いくら有利であっても、敵の首を切り落とすまではぬかるんじゃねぇってお頭も言ってたっけな。
「よし、動くな……よ……え?」
「そこな男よ。面白き儲け話を聞かぬかや」
「なんだ……オッサン……。気が触れちまったのか?」
「いや勿体ないと思うてな。臣が知っている最高の金儲け方法を、誰かに伝授しておかねば死んでも死に切れぬからなぁ……」
急になんだよこのオッサン。虚言で時間稼ぎか? それにしてはダセぇ足掻きだ。
しかし金か……確かに今無一文だしな。聞くだけ聞いてやるか。
「おう、じゃあとっとと喋れや。内容によっては斬らなくても済むかもしれんからよぅ」
「ひょっひょっひょ。これは以前殿から聞いておるのだがな……お主、耳をかせぃ」
手短に伝えられたその手法は、今まで誰もが思いつかないものだった。
俺の脳内に稲妻が走り、過去の知識を塗り替えていく。
それはなんていうことの無い相場取引で始まった。
河北では今、新しい作物である『米』が流行りつつあるらしい。一説によると袁家の長男坊が夢中であるとかなんとか。
米を買い占め、相場を吊り上げて大儲けする。
だからそんな金ねぇっつってんだが、このオッサンはとんでもねえ方法を編み出しやがった。
「色々なヤツから金を集めて、米を買う……と。それで配当金なるものを出資者に支払っていくんだな。その匙加減はこちらで決めると」
「その通り。それを見れば、更に多くの人民が金を出そうぞ。そしてさらに我らは米を買うのじゃ」
「んで、米を高値で売って、利益を得るのか……おい、待て、米が値上らなかったらどうすんだよ」
いつまでも相場が高いままってことなんて、学の無い俺だってわかる。
どうやってもこの商売は長続きしねぇ。
「おい、オッサン……まさか……」
「米はどこまでも値上がる。そのためにはちぃとばかり権力も使おうぞ。より多くの出資者を募り、より多くの資金を集めるのじゃ」
「おいおい、そしたらお上は米を増産して相場を安定……する……前にか……」
この野郎、見た目通りの腐れ外道じゃねえか!
「トブ、んだな」
「臣が行っては立場が無いと言うもの。一賊徒が何を行おうと、それは乱世に起きた不幸な事件であるなぁ」
「待て、話がデカくてちょっと処理できねえ。つまりはこれを、やれと」
じろり、と俺を値踏みするように見てきやがる。
なんだ、何が言いたいんだ?
「米は河北において重要な作物。殿肝入りのものである。それを大々的に壊すは不忠よなぁ……誰かこの方法を、『陳留』とか『濮陽』とか『洛陽』でやってくれんかのぅ」
「オッサン、それは……曹操軍の……」
背筋に氷がブチこまれたような気がした。
これほどに悪い顔を、俺は今まで見たことが無い。
「河北はあくまでも練習。本当に儲けられるのは、米が目新しい中原よ」
生唾があふれてくる。
これは……儲かると盗賊の血が騒いでいる。
「いい話だ。是非とも詳しく詰めたい……いや、ご教授下さい」
「ひょっひょっひょ。悪だくみは楽しいよの」
俺は……金の魔力には逆らえなかった。
―—搾菜書房 『古代中国史における詐欺の変遷』 より抜粋
令和の時代でも根強く残っている投資詐欺は、中国後漢末に発祥したという。
近世において、チャールズ・ポンジが行った詐欺もこれに当てはまる。
チャールズの自宅には、中国の古書が堆く積まれていたそうだ。
その書物には『奔慈投資策』が詳細に書かれていた。
本書を読まれた諸兄は、決して奔慈の二の轍を踏むこと莫れとの戒めを残して、本章を終えたい。
お読みいただきありがとうございました!
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