第百二十七話 その兵士、有能につき
―—郭図
賊徒の指揮を任された郭図は、本能の赴くままに最短距離を行軍する。
賊徒の士気は低く、唾を飛ばして叱咤する指揮官級の言うことをきかない。
賊徒は死期を早めているような隘路に、一抹どころではない不安を抱えていた。
「ええい、ここで遅々としておるとは……。臣が殿に恩賞……ではなくお褒めを頂けないではないか! そこ、物資を勝手に捨てるでない!」
「ッチ、反省してまーす」
「ぐぬぬぬぬ……」
郭図の生まれ持った星は「逆転」である。
正攻法を論じれば即ち遅れ、整列させようとすればこれ乱れる。
根っからの飽き性である中年男は、癇癪を起す手前であった。
「これはもう臣の手に負えるものではないぞよ……むむむ、お、そうじゃ」
脂ぎった顔を下品にゆがめ、郭図は何事かを側仕えの兵士に耳打ちする。
「これ、お主。ちこう寄れ」
「えぇ……公則様酒臭いので嫌なんですが……」
「黙りおれ。こうしてこうして、ごにょごにょ……と」
「――正気ですか?」
本来であれば命令は復唱し、速やかに実行されねばならない。
だが間道を進む郭図軍において、主将たる男の命令はキチのゲェに過ぎた。
「お主、名前は何じゃったか。臣は少し休むでな、お主を軍師付きの書生に任命しようぞ」
「ありがとう……ございます」
心底嫌そうな顔をした兵士に目もくれず、郭図は去っていく。
きちんと『お前の責任』で、先ほどの策を公布するのだぞとほざいて。
「はぁ……なんでこんな羽目になるかなぁ……ついてない」
兵士は兜を脱ぎ、髻に粗末な冠をつけて体裁を取り繕った。
「本軍大将である郭軍師からのお下知である! 全軍、ここで野営とする!」
ざわざわと動揺の声が漣のように広がる。無理もない、両端は切り立った崖であり、か細いみちで長蛇陣形のままなのだから。
移動においては長蛇陣形が理にかなっている。だがこと敵地に近い場所では、襲撃に備えて方形陣を敷くのが正しい。
そして細い常山の間道で、賊徒の群れが陣形を組めるはずもないのだ。
「それぞれ什単位で固まり、互いの距離を密にせよ。丁度崖沿いの壁には『笠』となっている切り立った場所がある。落石・洛木への警戒を怠るな!」
「ういーす。じゃあメシ、メシ」
「くそ……誰も聞いちゃいない。このままでは本当に全滅するぞ……」
後の指揮を託された苦労人の兵士は、五千人の賊徒を束ねることで精一杯だった。
それでもどうにか命令は伝達され―—というよりは、歩くのに飽きた賊徒たちが、勝手に休憩を始めたにすぎないが―—どうにか簡易的な防陣を組むことに成功した。
「殿が信を置く懐刀、郭図公則……か。これまでの大功がある故断定することはできないが……」
実はあいつ、無能なんじゃね?
兵士の脳には、そのような邪念がまとわりついてしまう。
そしてパズルのピースがはまるがごとく、これまでの郭図による醜悪な行動に説明がついてしまうのだった。
「……この事実、命を懸けてでも殿にお届けせねばな」
使命感に近しい信念。
このままでは袁家は瓦解するとの予感。
兵士——若き司馬孚は苦悩していたのである。
―—司馬孚
兄が働きません。
司馬孚です。
古より名門として名を馳せた我が司馬家ですが、今一族は危機に陥っています。
孟徳公の出仕要請をことごとく蹴り、家で書物を読み漁る兄・司馬懿。
饅頭片手に「この凡愚が!」とわめいたり、「フハハハハハ」と哄笑したり。
正直、弟として何度夜中に刺そうかと思ったほどでして。
「兄上! この竹簡の山は何ですか!? 我が司馬家の財も無限ではないのですぞ。それとも兄上は貨幣が湧き出る神仙の壺でもお持ちなのですか!」
「フハハハハハ、淑達。それは凡人の考えよ。この仲達は水を欲する真綿である。人生は一度きりにして、逆行はできぬ。ならば己の欲するままに動くは、これ道理なり」
口だけは達者です。
司馬の八達の達は、きっとその辺が由来かもしれません。
「それよりも兄上、孟徳公からの要請をお断りになられたとか。かの陣営は才気煥発な英俊が揃い、じきに天下へと手をかけましょう。その時に参じても軽んじられるのではないでしょうか?」
「フハハ、凡愚の考え休むに似たりよ。よいか淑達、今華北を中心に大きな戦のうねりが巻き起こっているのだ」
それは存じております。
我が目はそこまで節穴ではありません。
「袁家は公孫を下し、勢いは日の出の如く。孟徳公と衝突し、善戦したとか」
「このままでは十中八九、袁家が勝つ。しかしそれを快く思わない者もいる。わかるか?」
「……浅学で恐縮です。お教えください」
兄は竹簡を放り投げ、寝台に寝転ぶ。妙にこの穀潰し姿勢が似合うなぁ。
「未完の大器・劉玄徳は死んだ。張燕も時を置かずして滅びよう。すると少数精鋭の曹孟徳と激突するのは是必定」
「事実起きておりますしね」
「そうだ。だが中華は広い。中原に覇を唱えんとする曹孟徳を貶めたい勢力は山ほどいるとは思わんか?」
襄陽を治める劉表か。それとも益州に伏している劉璋か。
まさか―—
「江東の小覇王……孫策と?」
「然り。かの猛虎は呉を併呑し、付近の豪族を手懐けておく予定だったのだろう。だが情勢が変わった」
兄上は……孟徳公が負ける……と本気でお思いか。
かの大宦官の末裔にして、古くは建国の功臣・曹参の血族ですぞ。
中央を固めている夏侯氏・荀氏の一門もそれぞれが独立できるほどの力を持っていると聞いています。
「それにな、淑達。俺はこの世で一番嫌いなことがあるのだ」
「淑達めが虎の尾を踏まぬよう、お教えいただいてもよろしいでしょうか」
「俺を……気軽に呼びつけることよ。韓信・楽毅・李牧……斯様な小物なぞ我が眼中にはない。俺の才が欲しくば、俺の前に参じて平伏するべきなのだ」
「……それを諸侯には教えないほうが良いでしょうなぁ」
「フハハハハ、好きにするがいい。だが司馬家の者として打てる手は打っておこうと思うてな」
長兄・司馬朗は孟徳公のもとで碌を食んでいます。
猛烈に嫌な予感がしてきましたよ。
「淑達、お前袁家に士官せよ」
「えぇ……。兄上、お考え直しください。何の手柄も実績もない私が、ノコノコと出向いて行っても文官になれるとは限りませんぞ」
「じゃあ槍働きでもしてくるのだ。袁家の長男である袁顕奕は多少見どころのある男だと聞いている。奴の目に留まるよう、しっかりと働いてまいれ」
司馬孚です。
兄に縛られて、河北行きの船に放り込まれました。
司馬孚です。
本当に兵卒になりました。
本業は内政や治水、儒学なのですが。
―—司馬孚です。
この男、郭図は……袁家に大きな災いをもたらす者であると確信しました。
なんとしても生き延びて、殿にお伝えせねばなりません。
「敵襲――――ッ!!」
やはり……一筋縄ではいかないようですね。
絶体絶命の隘路と、練度の低い賊軍の兵士。
司馬家の男として、この難局を切り抜けるべし!
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