第一話 目が覚めたら袁煕だった
家賃四万のおんぼろアパートの扉を開ける。
ほのかに煙草の臭いが残る小さな部屋だが、大事な俺の城だ。
「あぁぁぁぁもう無理、残業時間おかしいでしょ!」
コンビニで買った缶ビールとイカゲソの入った袋を持ち、俺は幽鬼のようなふらつきを見せながら、ベッドにダイブする。
スーツは……Yシャツは……クリーニング行かなきゃな……。
ああ、何もかも面倒くさい。昔みたいに三国志ばっかり読んでいた、あの頃に戻りたい。そのままドアに鍵もかけず、俺は目を閉じる。
昔はよかった。
同じ三国志マニアの友人たちと三人で、夜を徹して遊んだ。
三人とも同じ女子を好きになり、順番に告白しては次々と振られたのもいい思い出だろう。
そんな悲劇を『桃園の誓い』などと呼んで笑いあっていたものだ。
「今はみんな、なにしてんだろうなぁ……またあの三人で遊びたいなぁ……」
疲労がやばい。もういい、このまま寝よう。
霞がかった思考は停止し、俺は意識を手放した。
◆
ん、ここはどこだ?
目が覚めた俺は、雲海の中にいた。周りはちぎれ飛ぶ白い雲が流れ、晴天と日光が降り注いでいる。
「気がついたか、稀人よ」
「だ、誰ですかっ!?」
年老いた男性の声が聞こえる。
え、まって、なにこれ。夢? 夢なのかな?
頬をつねろうとして気がついた。自分の体が透けていることに。
「ほっほっほ、大丈夫かの、稀人よ。お主は運がいい」
姿を現したのは、杖を手にし、白い導師服を着た老人だった。頭がぬらりひょんのように出っ張っている。
「儂は南華老仙と呼ばれておる世捨て人よ。よかったのぅ、お主。このまま地獄の鬼どもに誘われるとこであったぞ。まあ追っ払ってやったがの」
「え……は、はあ……。ありがとうございます。それで……その、もう大丈夫ということでしょうか」
老人は悲しそうに、そして少しだけ愉快そうに首を振った。老人の諦めろという表情に、俺は猛烈に嫌なものを感じた。
「お主の魂は既に現世より切り取られてしもうた。残念ながら元の生活に戻ることはできぬじゃろう」
白くて長いあごひげを撫でながら、老人は俺を見据えてくる。
「もし生きることに未練があるというのであれば、世界に名を残してみんかの」
「待ってください。そんな、俺はもう死んでるんですか? それに名を残すだなんて大それたこと、考えたこともありませんよ」
身振り手振りで必死に抗議してみるが、体は透けていくばかり。
もう時間がないのか……?
「お主は輪廻の輪より外れた。このままでは完全なる無になってしまうのだ。儂に残った最後の力で、新たな人生を歩ませることが出来る」
俺の体はもう輪郭すらあやふやで、光の粒子が散るように、風にさらわれていっている。断る手はない……か。
「わかりました。是非お願いします」
「お主ならそう言うてくれると思ったわい。では目を閉じるがよい。あるべき環から外れた、不幸な世界を頼むぞ、稀人よ――」
南華老仙と名乗った老人の姿は掻き消え、代わりに小さな黒い穴が残った。
俺は砂塵が吸い込まれるように、黒点に向かって身を託すことにした。
◆
ひく、と鼻がなる。
アップルパイに入っているシナモンのような香りが漂っていた。
そして煙い。ついでに猛烈に喉が痛い。
「ぶえっくしょいっ! あいててっ」
大きなくしゃみを一つかましたのだが、反動で寝床と思しき場所に頭をぶつけた。
固っ! そして滅茶苦茶痛えっ!
くそ、どこだここは。俺はいつの間にこんな板の上に……これベッドなのか?
よくよく見れば中華風な四つ足の寝台だ。曲線を描く足と、直線で描かれる飾り彫りが美しい。かなり手間暇かけて作られているに違いない。
「あの爺さん、南華老仙……とか言ってたよな。確か黄巾賊の首領である張角に、太平要術の書を与えた仙人だったような。まさかな、馬鹿らしい」
あたりを見回してみる。
そして目を押さえる。
「窓の格子が、中華料理のどんぶりとかについてるマークになってんだけど、えぇ……まさかな」
(※堀飾りの格子窓は『宋』から。ここでは中華風の味付けです。
猫足のように丸く反り返った脚の机に、簡素な木製の椅子。部屋は殺風景だが、一点だけ目を引くものがある。
蒼の香炉からはもくもくと煙が立ち込めている。
「シナモンくっさっ! って、これは肉桂の香か……燻製にでもなるつもりだったのか?」
香炉の蓋を閉め、俺はかろうじて姿が映る銅鏡を見る。
改めて見た自分の姿は、知っている顔ではなかった。
どうみてもアジア系の容姿だ。黒髪に黒い瞳、そして黄色人種特有の肌色。
なんとも頼りなさそうな覇気の薄い風貌の上に、自分を大きく見せようとしているような、ちょび髭が生えている。
これは舐められる顔ですわ。
「顕奕様! 顕奕様! お目覚めでございますか?」
白い麻の服を身にまとった、あまり化粧っ気のない少女が現れた。
「ああ、よろしゅうございました。顕奕様、お支度をなさいませ。御館様がお戻りに数刻後にはお館様がお戻りになられます!」
「あの……君は……?」
「夢心地のままでございますか? 侍女の鈴猫でございますよ。お忘れになられるのは悲しゅうございます、顕奕様」
「あ、うん。ちょっと思い出してきた……かな……」
ぜんっぜんわかんねえ。
誰こいつ。そして誰、俺。ケンエキなんていうやつ……は……あれ?
「リンマオ……さん」
「さ、さんをつけられるほど、猫は身分が高くのうございます。どうぞ呼び捨てくださいませ」
「あ、はい。じゃあえとマオ、すまんけど一つ聞いていいかな」
「はい。何でもお聞きくださいませ」
「俺、誰だっけ?」
「はうあああああっ! け、顕奕様、顕奕様がっ!」
目に見えて焦るマオは、もう幽霊に近いような顔色になっていた。
まずったか。変な質問してしまったかもしれん。もうちょい無難なことを言えばよかったかな……。
「いや、ちょっと朦朧としていて。すまんがマオ、教えてくれないか」
「おいたわしや顕奕様……わかりました、不詳この鈴猫、顕奕様のご勇姿を述べさせていただきます」
目の前で拱手—―古代中国式の、胸の前で両手を重ねる挨拶—―をし、口を開く。
「生地は豫洲汝南、姓は袁、名は煕。字を顕奕。漢朝に三公を輩出した、名門袁一族本家の第二子様でございますよ」
「袁……煕……って、《《あの》》袁煕……なのか」
「猫にはわかりかねますが、袁顕奕様はこの世にお一人だけでございますよ?」
はてな、と鈴猫は首をかしげている。
肩口で切りそろえられた髪がさらりと揺れ、頭の飾り物がまるで猫の耳のようにも見える。
袁煕、字を顕奕。
こいつ三国志でも屈指のヘタレ武将として有名だ。
優柔不断にして小心者。妻に傾国の美女と呼ばれる漢の名門、甄家の娘である甄氏を娶る。
だが幽州刺史として中国の北部に赴任するにあたり、妻である甄氏が着いてくることはなかった。
曹操に甄氏の住む鄴を攻め取られ、甄氏は曹操の息子である曹丕に見初められ、結婚することになる。
要はNTRを食らう、軟弱男がこの袁煕という武将だ。
ついでに言えば、逃亡先で弟と一緒に捕縛され、斬首される。
「は、ははは……」
ちくしょおおおおおおおおおっ!!
駄目じゃねえか、これ!
死亡フラグがバリバリ立ってる上に、脳が焼かれる運命が待ってるじゃねえか!
俺が頭を掻きむしっていると、突如聞きなれない電子音のようなものが鳴った。
【パワーアップセットがインストールされました。起動しますか?】
なん……だと……。
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