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いったん庭の外に出て護衛にリーザへの伝言を頼み、ナフィと少し話をし、再び水妖の庭へ戻る。花と果物の香りをつけた紅茶が運ばれてきたのは、モードウェンを待たせることについての気遣いだろうか。気付かないうちに喉がからからになっていたので、噴水の傍に設えられた椅子に腰かけ、ありがたく頂いて喉を潤す。
落ち着いて見てみれば、水妖の庭は美しい場所だった。
奥まったところが開けていたので覗いてみると、そこは王宮の中心部を見下ろす隠れ処のような場所だった。高さも形もまちまちな屋根がひしめく上に晩秋の日差しが天から降り注ぎ、人々の営みを祝しているかのように見える。硝子に隔てられた楽園から見る世界は静かな光に溢れて、美しくて、そして遠かった。
木製の長椅子が置かれていたので、腰掛けてぼんやりとする。庭はそれほど広くはないが貸し切り状態で、呼ばなければ使用人も来ない。持ってきたお茶を片手に景色を眺め、飽きたら辺りをそぞろ歩いたり、戻って噴水を眺めたり、のんびりと過ごす。人工的に整えられた自然は、それはそれで落ち着くものだというのは発見だった。ゼランド領の豊かな自然は大好きだが、
「虫も百足も毒蛇も熊も心配しなくていいなんて、贅沢だわ…………」
「……虫はともかく、後の三つ。贅沢の基準が低すぎるんじゃない?」
「!?」
間近で声がして、モードウェンは目を見開いた。
振り返ると、浮遊する少年の幽霊がモードウェンの方を覗き込んでいた。
「あれ? 僕が見えるの? 声も聞こえるんだ?」
少年は目を瞠り、おもちゃを見つけたかのように顔を輝かせた。年齢は十歳くらいだろうか。金髪に碧眼、ちょっと生意気そうな顔が可愛らしい、育ちのよさそうな少年だ。
「君、だれ?」
「私はモードウェン。あなたは?」
「僕は……」
言いさして少年は口を閉じ、
「……秘密」
にっこりと笑ってみせる。モードウェンは真面目くさって頷いた。
「じゃあ、秘密さんって呼ぶことにする」
「…………お姉さんさあ、性格悪いって言われない?」
「あまり言われないかな。いい性格してるって言われるわよ」
「…………っふ、あはは! それ、性格いいのとは真逆の意味だって分かって言ってるよね!?」
少年は吹き出した。腹を抱えて笑い声を上げる。
「お姉さん、面白いなあ! 死んでからこんな笑うなんて、思わなかった」
モードウェンも少し笑い返してみせた。笑顔が似合わない陰気な顔だという自覚はあるが、まあいいだろう。それよりも、
「私、さっきまでここで王女殿下とお話ししていたのだけど、やり取りを聞いていなかったの?」
「なになに、聞かれて困ることでも話してたわけ?」
「まったく困らないんだけど、その中で私の名前も出たから。聞いていなかったのなら、その間どうしていたのかと思って」
思念や幽霊は基本的に、人や物や場所に憑く。この少年が使用人や衛兵の誰かに憑いているのでなければ、この場所に憑いているのだと考えるべきだろう。まさかティーカップやティーポットに憑いているわけでもないだろうし。そして、そうした幽霊はあまり場所を移動したがらないものだ。もちろん幽霊によって個人差はあるし、この庭ではなく建物そのものなどに憑いているのならそれまでなのだが。
もちろん、幽霊は現れたり消えたりするものだから、二人が話している間は消えていた可能性もある。だが、好奇心旺盛そうで我の強そうなこの少年がそんな見世物を見逃すだろうかと疑問に思ったのだ。
少年は顔をしかめた。
「さっきここにいたの、王女だろう? 王族の人たちって何ていうか存在が強烈すぎて、幽霊になってからは近寄れないんだよ。ぎらぎらしているって言うのかな、太陽みたいで。眩しくて灼かれそうなんだよね」
「それ、分かるわ」
モードウェンはしみじみ頷いた。少年が胡乱げな顔をする。
「分かってくれるのは嬉しいけど、分かっていいわけ? お姉さん、いちおう生きてる人間でしょ?」
「いちおうは余計だけど、これでも生者よ。でも、王族の方々と同じ人間だとは思えない」
「……そうだね、確かにいろいろ違うね」
胸のあたりを見ながら言うのは止めてほしい。
子供の正直な残酷さに、無い胸をさっくり抉られながら、モードウェンは思考を巡らせる。
幽霊は――モードウェンと同じく――人込みが苦手だ。不安定な存在であるため、大勢の人間に紛れてしまうと、影響を受けて揺らぎ、消えてしまうのだ。生きた人の思いや存在というものはかくも強いものだ。
舞踏会の会場で、善いあるいは悪い思念を纏わりつかせた人は多くても、幽霊がいなかったのはそういうわけだ。あれだけ大勢の人がいたのだから、幽霊を取り憑かせた者は複数いただろうが、会場の近くに留まっているか、あるいは姿を消していたはずだ。形のない思念とは異なり、形を得た――あるいは、形に囚われた――幽霊には、そうした不自由さもある。
目の前の少年はふわふわと宙に浮き、かと思うと宙でとんぼ返りをしたり、椅子をすり抜けたりとやりたい放題をしている。幽霊が板についているとでも言うべきだろうか。キースは生きた人間寄りの常識的なふるまいをしていたが、「秘密さん」はかなり自由なようだ。概して年少の幽霊ほどこうした傾向が強くなる。年を重ねると幽霊になった後もなかなか意識が切り替わらないらしく、普通の人間の行動をなかなか逸脱できないものだ。
そんな自由な彼であっても、王族には近付けないのだという。王族の血筋に何かあるのか、それとも大勢の人々の頂点に立つ存在だからなのか、それは分からない。そういえば王を太陽に譬えて称える詩歌は枚挙にいとまがない。
そんな王族に、別の王族への紹介を頼んだモードウェンは気が遠くなりそうになるのを堪えた。ぎらぎらした彼ら彼女らを眩しく近寄りがたく思っているのはモードウェンも同じなのに。
(どうしてこんなことになっているの…………)
キースを恨みたいが、生者が死者を恨むという図式の珍妙さを考えると乾いた笑いしか出ない。そもそもキースはもうどこにもいない。
「あっ」
少年の幽霊は声を漏らした。もちろん声はモードウェンにしか聞こえていない。息をしたり声を出したりという行為も幽霊の意識の上だけのことなので、実際に空気が出入りしているわけではない。
だが、そうした気配を感じ取る人はいる。モードウェンは感じるどころか見聞きしてやり取りすることができる。
モードウェンに聞かせるためではなく、単に驚いて発されたらしき少年の声に、モードウェンは首を傾げた。
少年は目を見開き、掻き消えるように姿を消した。キースが消えた時とは異なり、溶けるように天に昇ったのではない。単に姿を消しただけだ。
(ほかの幽霊でも出たのかしら。まさかね……)
自分の冗談に肩をすくめ、モードウェンは何気なく振り返った。
そして、思わず叫んだ。
「出た!」