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自分は、伯爵のようにはならない。いくら悲しんでも、恨んでも、他人を傷つけることはしない。
自分でも信じきれなかったそのことを、カイウスから保証されて……少しびっくりするくらい気持ちが軽くなった。
目が覚めたような気持ちで、目の前の光景を見つめる。そこには、捨て鉢になって自らの命さえ投げ捨てるような伯爵と、憂いながら伯爵を見つめる国王がいた。
「……余は、気付いておった」
誰へともなく、国王が独白するように呟いた。
「さすがに二回も同じ手は食わぬ。目の前にあるこの茶杯が毒杯であることも……そちがこれを出したのが、余ではなく自らの命を投げ打つためであったことも」
沈痛な眼差しを伯爵に向け、続ける。
「……一瞬、それもよいかと思った。この身は多くの恨みを買っておる。余の決定が人の命を奪ったこともある、直接的にも間接的にも。それが務めと思うと同時に、報いも受けるであろうと……」
そう零す様子は、どこにでもいる一人の人だった。権力と責任の重みに押しつぶされそうになっている、ただの人だ。
「そこの娘も余に恨みを抱いておるだろう。余の決定に抗議するために、異を唱えるために来たのであろう」
モードウェンに視線が向く。初めて国王と視線が合った。その眼差しの色は読み取れないが……疲れが滲んでいることは分かった。
息を吸い、言葉を選ぶ。
「そのつもりでした。抗議したい気持ちは今もあります。ですが……私はゼランド領以外のことを、あまりにも知りません。陛下のご決定に異を唱えるしかできなくて……」
だが、もう、誰かを恨もうという気持ちは消えていた。
国王は、ゼランド領のことを些事と見做すような人ではなかった。気にかけて、悔いて、悩んでくださった。
もう――充分だ。きっとみんなも、そう言ってくれる。
恨むのではなく、赦したい。後ろを見るのではなく、前を向きたい。本当はずっと――そう思っていた。
「……陛下。最初に私は申しました。あれは本当のことです。陛下が危ないから助けてほしいと、ある少年から望まれました。彼は名前を教えてはくれませんでしたが、陛下の身代わりであったと私に明かしました。十歳くらいで、金髪碧眼の、雰囲気も言動も少し生意気そうな感じの少年です。陛下を案じて、ずっと王宮に留まっているのだと。体をなくし、実際の手足を持たず、しかし意思だけで現世に留まっているのだと……」
「……馬鹿な」
畳みかけるようにモードウェンは言った。
「私はゼランド領で、あまりに人の死に触れすぎました。それをきっかけに、人の強い思いを――生者のものも、死者のものも――はっきりと見るようになったのです」
「……とても信じられぬ。しかし……そうとでも考えぬとこの状況は不可解であるし……余には、そなたが何かに導かれているように見える」
半信半疑のようではあるが、国王はモードウェンの話を飲み込んでくれたようだ。気が触れているとしてつまみ出される心配もなさそうだ。ひとまずはそれで充分だ。信じる信じないはこの際どうでもいい。
モードウェンは伯爵に向き直った。
「陛下の身代わりの少年だけではありません。私は、第二王子殿下の身代わりの青年にも会いました」
「……っ、キースのことを言っているのか!? 幽霊になっているとでも言いたいのか、馬鹿馬鹿しい! あまり愚弄するなよ!」
火が付いたように伯爵が激高した。カイウスがモードウェンを庇うように前へ出る。それに安堵を得てモードウェンは伯爵を真っ直ぐに見つめ、怯まずに言葉を続けた。
「彼は御父君のことを……本当に心配されていましたよ。第二王子殿下と同じか、もしくはそれ以上に」
それが、モードウェンの辿り着いた結論だった。
伯爵は金樫宮の噴水のところで会ったのが最初だ。あの寒い時期に屋外にいたのだから、散歩の途中といった雰囲気でもなかったから、以前からしばしばあの場所に足を運んでいたに違いない。――キースが亡くなって、幽霊として留まっていた場所に。
ひとけのない場所だから、時には自分の思いを独り言として零すこともあっただろう。聞く人が聞けば分かる、国王や第二王子への害意を小さく口に出すこともあっただろう。
キースは、止めたかったのだ。
彼の養父が、彼の主君を害することを。
第二王子の無事だけではなく、彼は、父親が――自分のために――大罪に手を染めることを止めたいと、強く思っていたのだ。――そうでなければ、モードウェンに託せてよかったと、あんなにすっきりした顔はしない。
(彼の言動には、違和感があった……)
言葉を選んでいる様子なのは分かった。何かを隠している様子なのも分かった。だが、嘘をついている様子はなかった。筋が通って聞こえるように話を整えつつ、本当に言いたかったことを押し込め、モードウェンが気付くのに賭けた。
(……本当に、そこまで託されたら無下になんてできないじゃない……)
あの時点では、カイウスに会えるかどうかすら怪しかったのに。だが、会えるとモードウェンを信じた。カイウスと会って、彼と一緒に動けば、本当の意図に気付いてくれるはずと託した。
違和感の正体をその場では掴めなかったが、事件が重層的だと知ったことと、少年の幽霊の話からキースの心残りが第二王子だけでなく彼の養父にもあると知ったことで……すべてが氷解した。
まさか、言えるはずもない。自分の父親が自分の主君を逆恨みで害そうとしているから止めてほしい、だなんて。そんなことを言いたくはないだろうし、そんなことを聞かされたモードウェンが快く引き受けるとも思えなかっただろう。実際のところ、最初からそう聞かされていてもモードウェンには断る選択肢がなかったのだが。
キースにしてみれば、モードウェンは降って湧いた頼みの綱だ。幽霊が見える人は少ないし、幽霊に協力する者はさらに少ないだろう。下手なことをモードウェンに聞かせて逃げられては困る、そう思って当然だ。モードウェンに彼が見えていると知ったときの安堵した様子がそのことを物語っていた。
「彼は私に託して天に昇ってしまったからもう会えませんが……もしも、天の御国でもう一度会いたいと思われるなら。彼の意を汲んであげてください。彼は復讐など望んでいません。彼の前で誇れる父親でありたいと思われるなら……どうか、お考えを変えてください」
「……っ」
伯爵が声を詰まらせた。
それは、残酷な救いだ。キースがもういないからと捨て鉢になった伯爵だが、幽霊として彼が父親の行いを見ていたと、死後にまた会えるのだとモードウェンに聞かされ、一気に実感が押し寄せたらしい。
死後の世界のことは、モードウェンには分からない。だが、人々が長い時間をかけて信じてきた世界が存在しないとは思えないのだ。
人の思いは、かくも強いものだから。
伯爵がすすり泣く声がする。
モードウェンは視線を落とした。もう彼に周りへの害意はない。
伏せた目を閉じ、モードウェンもしばし黙祷を捧げた。
そして、彼らの再会を祈った。




