39
「まあいいわ。ついてきて」
モードウェンの思考を断ち切るようにプレシダは言い、二階の回廊への階段を上がり始めた。舞踏会のときにカイウスが下ってきた階段だ。
ついてきてといきなり言われて反応できずにいたモードウェンだが、プレシダは振り返りもせずすたすたと階段を上がっていく。ディーンも付き従うように続き、モードウェンは取り残されそうになって焦って二人の後を追った。どういう気まぐれか分からないが、この機会を逃すわけにはいかない。
(待ってて、秘密さん。きっと陛下をお助けしてみせる)
そして、キースもだ。彼との約束を果たす時が来た。
二階の回廊に立っている警備兵も、王女の同行者なら咎めることはしない。あまりにモードウェンの身なりが問題だったら話は別なのだろうが、カイウスの手配したドレスならまったく問題ない。むしろ警備兵に恭しく頭を下げられるという経験に、舞踏会のときの腫物のような扱いを思い出して落差に笑いたくなってしまう。
でも、間違った選択をしたとは思わない。ドレスが弔事用と結婚式用しかなかったのは事実だし、わざわざ新しく誂えようと思わなかったのも事実だが、消去法ではなく選択したのだ。災禍の中で喪服は手放せなかったし――ろくな葬儀を挙げてあげられなかった領民への、せめてもの礼儀だ――、災禍に立ち向かう戦闘服でもあった。そして、言うまでもなく、ゼランド領を見捨てた国王への抗議だ。
意思表示以上のことをするつもりはなかったが、それを不敬や不快と捉えて処罰されるなら、そのときは恨みを込めて死んでやろうと思っていた。まさか王家が幽霊や思念を寄せ付けない体質だとは知らなかったから、その場合は王宮をさまよう悪霊になったかもしれないが。
娘のこの意図に、父は薄々感づいていたのではないかと思う。幽霊が見えることを話してはいないが、もしかしたら気付かれているかもしれない。災禍に触れるような話題はあまり出さなかったが、墓地をほっつき歩くような娘に何も感じなかったわけでもないだろう。それでも王宮に行けと送り出したのは、何がしかの決着をつけて来いという意図があったのかもしれないと、今にして思う。
そして、もしもモードウェンが王家に反逆することを選んだら。それか、王家に害されることがあったなら。父はおそらく、この国を見限っただろうと思う。ゼランド領は貧しい土地ではあるが、北の国境部分に位置している。戦略的に重要な場所なのだ。いくら北側の国々が友好的とはいえ、そんな状態の土地が目の前にあったら、自ら離脱を望むようなことになったら、どう動くかモードウェンには分からない。アールランドは大国だが、それゆえ自らの領土が減るような事態には敏感だろう。
ボネア公爵家が南方との強い結びつきを持っているように、国内にもさまざまな勢力がいて一枚岩ではない。いくら弱小のゼランド家とはいえ、外国と結びつくとなれば無視できるものではないのだ。
兄はすでに国を出ている。ゼランド家に残ったのは父とモードウェンだけだ。モードウェンがいなくなれば父は一人。そういうことだ。
自分がどうしたいのか、モードウェン自身にもまだよく分からない。直接的な行動に出る気持ちはなかったが、王族の危機を知って心のどこかで留飲を下げるような、そんな気持ちがなかったとも言い切れない。
それでもモードウェンがこうして王を助けようと動いているのは、託されたからだ。
少年の幽霊に、国王のことを。
キースの幽霊に、第二王子のことと――彼の養父のことを。
(……それに、危機を知って座視するのは寝覚めが悪いし……)
人を助けようと動いてきた経験が、体に染みついている。悪意を持って動くよりも、仕方ないと面倒だとどうしてこんなことにとぼやきながらでも善意で動いた方がいい。難儀な性格だと我ながら思うが、こうした自分が嫌ではないのだ。
むしろ、そう在りたい。王宮に来ることが嫌だった大きな理由が、悪意や恨みを持ちたくなかったからなのだ。
王宮に来てから直に見た王子王女たちは、それぞれに鼻につくところもあれば尊敬できるところもある、ごく当たり前の人間だった。そしてみんな、モードウェンを見下さなかった。
そして、彼らの周りにいる人々は、彼らを好いていた。助けようとしていた。いま目の前を歩く公爵令息も、婚約者の王女のことを優しい眼差しで見守っている。それが演技とは思われない。キースのカイウスへの忠誠は本物だし、王子王女たちが周りの人を惹きつけるのは権力だけが理由ではないだろう。
そう思うと、人ひとりでさえ、簡単に失われていいものとは思えなくなる。関係する多くの人が悲しむのだから。喜ぶ者もいるだろうが、知ったことか。焦点を当てるべきはそちらではない。
国王ともなれば、なおさらだ。彼が失われたら、少年の幽霊だけでなく多くの者が悲しむ。そうはさせまいと思い、そうはさせまいと思える自分に安堵した。
プレシダに案内されて二階の回廊をめぐり、奥まったところにある謁見の間に辿り着く。警備の兵が左右に並び、陛下はご歓談中だと止める中を、急用だと言ってプレシダは押し通った。王女に強いて言われれば止められる者もいなかったらしく、モードウェンは後について謁見の間の奥の扉に立った。
プレシダがいなければ、モードウェン一人ではとてもここまで辿り着けなかっただろう。
この奥では国王とネアーン伯爵が歓談しているはずだ。いくら目下の伯爵が相手とはいえ、国王が客を迎えているところを邪魔するのは王女にとって良いことではないだろう。その無理を押し通してくれたのは、モードウェンが切羽詰まった様子を見せていたからだろうか。
扉の前でお礼を言おうとするモードウェンが不思議がっているのを察したのだろうか、プレシダは肩を竦めて言った。
「あなたは指輪を見つけてくれたでしょう。何か特殊な能力があるみたいだし、そういう巡り合わせなのもありそうね。そういう人が必死になっているのなら、多分なにかあるのだろうと思うわよ。それと……」
プレシダは美しい顔ににやりと笑みを浮かべた。
「アリシアが快哉を上げていたわよ。私も彼女の友人として、弟にいろいろ思うところもあったわけよ。あの顔にあの性格だし、女性から手を上げられていい気味だと思うわ。いい薬になったでしょう」
「……やりすぎたとは思っています」
護衛のほか、数人の使用人があの場面を見ていたはずだ。それが王女やアリシアにも伝わったらしい。ばつの悪い思いで答えるモードウェンに、王女は軽く首を振った。
「却って安心したわ。あなたが怒っても、真正面から殴って済ませる。陰湿に恨みを募らせることはしなさそうだって。聞いている限り、正当な怒りのように思えるし」
でも、と言葉を付け足す。
「あまりに度が過ぎるようだと不敬罪で牢屋行きだから、注意してね?」
「……肝に銘じます」
モードウェンは小さな声で答えた。




