3
(……ああ、早く帰りたい。眩しい、くらくらする、もう嫌……)
モードウェンは紗の下に隠された目を伏せ、溜め息を噛み殺した。
必要以上に煌びやかな会場で、国王陛下のお出ましをじりじりと待つ。
こういう場所は苦手だ。薄暗くて静かな生活に早く戻りたい。王宮の明るさは、その光の強さは――影をも強調する。
(ああ、この人……)
近くを通り過ぎた恰幅の良い紳士の肩のあたりに、不自然な黒い靄が纏わりついている。うっすらと腕の形を形作っているのは、彼を暗い方へと誘おうとしているからだろうか。普通の人には見えないその靄は、残留思念――それが生者のものか死者のものかは分からないが――だ。黒が濃いほど性質が悪いもので、これは見るからに厄介そうだ。彼が歩くたびに影が揺らいで後を引き、モードウェンは顔を顰めた。
だから王宮は嫌なのだ。人の集まるところ、人の思念も集う。無念も怨念も――もっと性質の悪いものも。煌びやかな舞台の裏には、どろどろとした闇が巣食っている。黒い靄を――恨みを、妬みを、嫉みを――取りつかせた人は少なくなく、明るいはずの会場は、モードウェンの目には暗く沈んで見えた。
ひとつ気付いてしまえば、後から後から黒い靄が見えてくる。せっかくヴェールを被ってきたというのに意味がない。モードウェンの目に映る世界は、華やかな会場と靄の淀んだ地獄絵図とが二重合わせになっていた。
豪華な衣装を纏う人々の背に、頭に、足に、誰かの悪意が纏わりつく。虚栄の舞踏会は怨嗟の舞踏と裏表となり、仮初の美しさの下に虚無を隠して続いていた。
あの人も。あの人も、その隣の人も。……
「う……」
モードウェンはよろめいた。あまりに性質の悪い気配が多くて、気分が悪くなる。人の多さだけでも酔いそうなくらいなのに、恨みや妬みや怒りの凝った靄も多いときた。
ここは大陸に冠たる王宮、ウィア・サイキ。恨みを呑んで亡くなった者は数知れない。恨みを募らせて生きる者の数は言わずもがなだ。害のないものや善いものもあり、それらは白い靄のように見えるが、そうした白を黒が食いつくそうとしているようだった。
(少し休まないと……)
モードウェンはふらふらとテラスによろめき出た。会場から離れたくて、階段を下りて庭に出る。
(……だから、王宮に来るのは嫌だったのに……)
モードウェンの目は、普通の人には見えないはずのものを見てしまう。
人々が憧れる王宮ウィア・サイキ。しかしモードウェンの目には、地獄の王の住まいとさえ見えるものだった。
(ゼランド領の澄んだ空気が恋しい……)
明るすぎる光も、濃すぎる影も、真っ平だ。モードウェンが求めるものは、仄かな光と薄闇、静謐な空気、そういうものだ。人が多いのはいいことだが、頼むから遠くに離れていてほしい。
庭には大広間からの光もあまり届かず、しかし満月のおかげで足元に不自由はしなかった。ところどころに明かりが置かれたり吊り下げられたりしており、光が夜を泳ぐように揺らいで幻想的だった。大広間も、このくらいの明るさでいいのに。
「ふう……」
腰掛けで身を休め、モードウェンは深く息をついた。外に出て、ようやくまともに呼吸ができるような気がする。
十一月末の風は冷たいが、熱気の籠った大広間よりもずっといい。ここはゼランド領よりも暖かいが、それでも冬が始まりかけて、風には枯葉の匂いが濃く混ざっていた。
少し休むと気分がよくなったが、すぐに会場に戻る気もせず、モードウェンは辺りをそぞろ歩いた。
かすかに、名残の秋薔薇の香りがする。昼間に歩けば、咲いているものを見つけられるかもしれない。暗い中なので花を探すのは諦めて、月光に照らし出された石像たちを辿るように小径を歩いていく。おぼろな薄暗がりは、隅々まで明るい大広間よりもよほどモードウェンに安らぎをもたらした。
(…………?)
モードウェンは立ち止まった。石像のひとつが、動いたような気がしたのだ。
普通の令嬢なら悲鳴を上げて失神するところだが、モードウェンは軽く目を見開いただけだった。冷静になって少し観察すれば分かる。それは石像ではなく、人間だ。
どうやら青年のようだった。彫刻たちと違って古代風の服装をしていない。明らかに貴族階級に属する者だろうが、今夜の舞踏会の出席者ではない。
服装に疎いモードウェンでもさすがに分かる。彼が着ているのは夏用の服だ。
そして――死者だ。
暗闇にぼんやりと白く発光しているような姿は、普通の人の目には映らない。しかしモードウェンの紫の目はたしかにその姿を捉えている。
幽霊の青年は思い悩む様子で辺りを歩き回り、ときおり視線を大広間の方に投げる。この世に、何かに、誰かに――心残りがあることは明白だった。
強い思念は、死に際しても散じることなく残ることがある。多くは形を保てないが――大広間で見たような靄にも、そういった死者の思念が結構な割合で混ざっているだろう――、稀に人間の姿をそのまま残すことがある。
それが、幽霊だ。
幽霊も靄と同じように、悪意のあるものは黒く、害意のないものは白く見える。靄、もとい思念が形を取ったものが幽霊だから、性質が似ているのは当然だ。この青年の幽霊が悪い存在でなかったことに安堵して、モードウェンはゆっくりと歩み寄った。少し距離を取って立ち止まり、声をかける。
「あなたの心残りは何なの? 私にできることがあるなら、協力するわ」
青年は弾かれたように振り返った。その瞳に驚愕が浮かび、みるみるうちに歓喜と安堵に塗りつぶされる。
「私が見えるのですね!? ああ、神様! レディ、あなたは――」
「私はゼランド男爵の娘、モードウェン。領地では墓守をしているの」
男爵の娘はレディと呼ばれる身分ではない。貴族階級の末端にかろうじて引っかかっている程度であるうえ、墓守をしている令嬢など他にいないだろう。さらに言ってしまえば、淡く発光している青年よりも、暗く沈むような服装のモードウェンの方が、よほど陰気で死者らしく見える。
しかし青年はきっちりと膝を折り、貴婦人に対する礼をとった。
「モードウェン嬢。先ほどの……貴女の寛大なお言葉に、甘えてしまってもよろしいのでしょうか?」
誠実で実直そうな青年だ。美しい緑の瞳でひたむきに見上げられて、モードウェンは少したじろいで顎を引いた。
「……とにかく立って、話を聞かせて。やれるだけのことはやってみるから」
「ああ……ありがとうございます……!」
青年はモードウェンの手を取って口付けせんばかりに感激するが、まだ何もしていない身としては居心地が悪い。話の先を促すと、青年は頷いて口を開いた。