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モードウェンが何かを言うまでもなく、父親の気持ちを察したのだろう。
「……そんなに心配されていたなんて、思わなかった。心配しなくていいのに……いえ、嬉しいけれど……」
「心配は、かけたっていいのよ」
ティルダに向かって、カリンはそう言った。
「私は人の親として、お父様のお気持ちがよく分かったわ。心配はね、してしまうものなの。信頼していないからとかじゃなくて……どうしても、気にかけてしまうのよ。大切だからこそなの。子供としては鬱陶しいと思うかもしれないけれど……少しだけ、分かってあげて」
「鬱陶しい、なんて……」
ティルダは少し苦笑した。
「そんなことを父に言うなんて、考えたこともなかったわ。でも……お父様だって人間だし、私たちだって家族だったのだものね」
「家族、です。今も。ご本人がいなくなったからって、その方が影響を与えて、影響を受けて、作り上げられた世界はそのままに続いていくのですから」
それは、モードウェンの達観だった。人の死に多く触れて、幽霊に触れる機会もあって、その中でモードウェンが深く悟っていったことだった。
死者の思念や幽霊はさまざまな存在がいるし、さまざまなことを思っているものだが、その中のかなり多くが、自分が消えてしまうことへの強い恐怖と絶望を抱えている。他人のことを愛するあるいは憎むことで世に残るばかりではなく、自分のこれからが不安でたまらなくて世にしがみついているという存在が意外なほど多いのだ。
モードウェンは、当事者としてその不安を理解できているわけではない。だが、数多くの者と触れて、数多くの者を送って、その中で悟ったことだ。世界は、その人を決して忘れはしない。
その人の言葉ひとつ、行動ひとつ、ひとつたりとも欠けては成り立たず、矛盾してしまい、崩れてしまう世界。事実の積み重ねで出来ているこの世界は、要素としての人を固く捕らえて逃がしはしない。世を去ったとて、自分のしたことから逃げられるわけではないのだ。影響はどこまでも続いていく。
それは救いであり、呪いであり、厳然たる事実である、とモードウェンは思っている。
自分は決してたいそうな人間ではないし、間違いも褒められないこともたくさん仕出かすし、後ろめたく思うことなんて山ほどある。
それでも、世界の在り方そのものがモードウェンを肯定し、称揚し、誹謗し、断罪する。この上なく包容力があり、この上なく厳格な、それが理だ。
そうした実感を、短く言葉にした。
「御父君は思いを残された。それは確かに、今ここにあるものです」
たとえここに思念が残っていなくても同じだ。前伯爵は今なお、ここにいる女伯に強い影響を与えている。その人がいなくなったから何もかもなくなるなんて、そんなのは錯覚だ。
あとはそれを、残された者がどうするか、それだけだ。受け入れるか、拒絶するか、葛藤するか、態度を保留するか、選択肢はいくらでもあり、正解はない。
ティルダはしばし、沈黙した。カリンとエルシーも口を挟まず、黙って見守っている。誰からともなく食べるのを見合わせ、ゆっくりとお茶を飲むだけになっている。口を湿らせ、温かさを求め、思考に少しの刺激を与えて気分を転換させる、そのために茶器を口に運ぶ。まったく何もしないでいるよりも、なにか少しでも体を動かしている方が、つられて口も思考もほぐれるものだ。
お茶の湯気と香りが漂い、それが助けになったのだろうか、ティルダが口を開いた。
「……今頃になって、お父様に心配されていたことを知るなんて不思議だけど……嫌な気持ちはしないわ。離れてみて初めて分かることもあるのかもね」
「……それは、そうかも。近いと却って見えなくなることも多いから」
エルシーが相槌を打つ。
「正直、今すぐどうこうとはいかないわ。私が伯爵家の当主としてうまくやっていけるか、この一か月だけで完全に示せたとはとても思えないもの。でも、そんなに強く心配されることでもないと言いたいわ。なんとかやっていくわよ」
「今の調子でやっていけばいいのだし、困ったら周りに協力を求めればいいしね。私に何か力になれることがあれば、声をかけて」
「ありがとう。そもそも、こうやってお話ができることも助けになっているわ」
カリンが言い、ティルダが応える。ティルダは苦笑して言葉を継いだ。
「お父様も男性だから、女性がやわなものだと思っているのかも。女伯爵という立場はたしかに少し珍しいけど、いないわけじゃないし、したたかにやっていくつもり」
「ああ……確かに、子供が異性だと、距離感を掴み兼ねたり、成長途中で距離感が変わったりすることってあるわよね……」
カリンが実感を込めて言う。そんなものなのか、とエルシーは頷いている。
「私は私ができることをやっていくから、お父様にはしばらく心配しながらも見守っていてもらうわ。やっていけそうだと納得したら、きっとその思念とやらも自然に離れていったりするんじゃない?」
「そうですね。思念は残滓ですから、そこまで長い期間とどまるものではありません」
「なら、離れる前に安心してもらわないとね。安心すれば離れるのだろうから、どちらが先か競争になるのかしら」
そんなことを冗談めかして言うティルダは、すっかり吹っ切れた様子だった。もう大丈夫だろう、とモードウェンも安心して微笑んだ。
ティルダは、選んだのだ。思念をそのまま受け入れるのではなく、拒絶するのでもなく、そのままに見守ってもらうことを。自然に、時にまかせて、お互いが納得いくかたちで今度こそ別れられるだろうと予感して――もはや、確信して――いるのだろう。そうなる未来がモードウェンにも見えた。
「なんだか、心も体も軽くなった気分。今更おなかが空いてきちゃったわ。その春のゼリー、私にも頂戴」
「回すわね。おすすめはまだ他にもあって……」
そうして四人はすっかり打ち解けて話が弾み、お茶もお菓子も絵画の鑑賞も存分に楽しみ、戻ってきたカイウスが面食らうことになったのだった。
「――女伯から礼状が届いている。おかげさまで不調もなくなり、引継ぎ後のことも順調だと」
「……早いですね?」
カイウスがティルダからの礼状をモードウェンの部屋に持ってきたのは、お茶会の次の日のことだった。
礼状は確かに、早めに書くものだが……昨日の今日で大丈夫だと言っていいのだろうか。少しそう思ったが、すぐに打ち消した。もう大丈夫だと本人は納得しているし、モードウェンも同意見だ。また何かあれば出来る限り力になるし、ひとまずこれで区切りがついたと考えていい。
「でも、本当によかった。善い思念なのに苦しみの元になるのは辛いですものね」
モードウェンは心から言い、表情を綻ばせた。それを見たカイウスが少し目を瞠る。
「……君にとっては、昨日会ったばかりの、地位もずいぶん違う人なんだが……どうしてそんなに親身になれるんだ?」
「親身……? あちらがよくしてくださったので、私もそのように返しただけですが?」
「よくしてくださったって、普通に挨拶して当たり障りのない話をしていただけだろうが……」
カイウスが呆れたように言うが、それで充分ではないだろうか。あからさまに見下されたりしなければ、心の中で相手が何を考えていようが別に関係ない。表面上だけの仲良しであっても構わない。事実がすべてだ。
モードウェンのその割り切りは生死を見てきた者ゆえのものかもしれないが、カイウスはある程度察したようだった。
「……よく分かった。君は馬鹿だ」
「はあ!?」
「馬鹿のつくお人よしだ。よく知らない相手に自分の重要な情報を開示して、親身になって、それを利用されたらどうするんだ?」
「利用、って……」
モードウェンははたと気付いた。それはまさに、カイウス自身のことを言っている。




