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「……王宮に、ですか? ……私が?」
モードウェンは聞き返し、思わず顔を上げた。渋面の父親と視線が真っ向からぶつかり、これが冗談でも何でもないのだと理解する。手から匙が滑り落ち、長卓に乾いた音が響いた。
田舎領主ゼランド家の晩餐の席。食卓についているのは当主のアロード・ゼランド男爵と、彼の末娘モードウェンだけだ。家族の数が少ないうえ、結婚して首都に屋敷を構える長男は実家にほとんど戻ってこない。
つまり、王宮に行けという父の言葉は、モードウェンに対して発されたものに間違いない。社交など大嫌い、一生ずっと領地に引きこもって静かに暮らしていたい、いっそ修道女になってもいい――修道会の方からお断りされるだろうが――とさえ思うモードウェンに、王宮に行けと。
「……正気ですか、お父様?」
娘のあんまりな言葉に、父の渋面が一層ひどくなった。
「むろん正気だとも。むしろお前に問いたいのだが、仮にも成年を迎えた貴族の娘が、国王陛下にお目通りもなしで済ませられるなどと……正気で考えておるのか?」
「あ……」
モードウェンは紫色の目を見開いた。
十七歳になり成人した貴族は、特別な事情がない限り、一年以内に宮廷で陛下に拝謁をしなければならない。
いかな弱小貴族とはいえ、それは貴族の義務だ。従わなければ王家への叛意ありと見做されて、取り潰されても文句は言えない。
モードウェンの誕生日は一月の終わり。今は十月の半ば。――猶予は少ない。
モードウェンは恨めしく思いながら父を見上げた。
「お父様……どうしてもっと早くに教えてくださらなかったのですか」
「何度も教えたとも。お前が先延ばしに先延ばしにとしてきただけだろう」
「…………」
言われてみれば、聞き流したような覚えがある。言い返す言葉もない。
言うべきことは言ったとばかりに、父は何食わぬ顔でポタージュを口に運んでいる。モードウェンの前に置かれた皿はどんどん冷めていっているが、目に入らない。
「……冬は、人死にが増える季節なのに。そんな浮ついたことをしている場合ではないのに……」
「夏にも同じことを言っておったな」
「…………」
いかにも自分が言いそうなことだ。モードウェンは自分の舌を噛みたくなった。
冬は社交の季節だ。夏には各々の領地で狩猟を楽しむ貴族たちが、続々と王宮へと集まってくる。降誕祭や新年祭などの華々しい行事が目白押しの時期で、貴族たちは人脈作りや情報収集のために、交流し、協調し、あるいは敵対する。陰謀が企まれ、ときには表立った沙汰にもなる。人や物や金が動き、多くの人々があるいは巻き込まれ、あるいは糸を引く。そんな有象無象、魑魅魍魎どもの群れなす中に飛び込むなど、考えただけで倒れそうだ。
「社交の時期の王宮なんて嫌。行きたくない……」
「そういえば、夏は人が少なくて目立つから嫌だと言っておったな」
「…………」
「いつ行っても同じだ。行ってこい」
「……………………はい」
それしか、答えようがなかった。
普段のモードウェンは、墓守の仕事をはじめ、貴族令嬢として貧しい者にも治療が受けられるよう計らったり、時には自分でも医師や薬師の真似事をしたり、私腹を肥やす聖職者とやり合ったりと、それなりに忙しい。社交は父や兄に丸投げしてきたが、これでも貴族令嬢であり、貴族の義務として慈善事業に携わる身でもあるのだ。墓守を慈善事業に含めて憚らないのはモードウェンくらいのものだろうが。
自分が留守にする間のことは、引継ぎができることはして、できないことも影響が少なくなるように処理をして、必要なら王宮に使いを寄越すよう算段をつけて、その合間に――嫌々ながら――ドレスを仕立て直したりもした。
「お嬢様。何度でも申し上げますが、新しいドレスを注文なさるべきです」
侍女のナフィが腰に手を当てて、嗜めるような目でモードウェンを見上げた。
モードウェンは痩せぎすで背が高い。小柄で女性的な体つきのナフィとは正反対だ。巻き毛の金髪に碧眼、可愛らしい顔立ち、という点でもモードウェンとは大いに異なる。
緩く癖のある長い黒髪を無造作にまとめ、祖母のお下がりのドレスの仕立て直し具合を確認していたモードウェンは、思わずぼやいた。
「私より、ナフィがお披露目すればいいのに……」
「できるわけがないでしょう!? 何を馬鹿なことを仰っているんですか! 話を逸らそうとしたって、そうはいきませんよ」
ナフィは首を振り、容赦なく言葉を続けた。
「大昔の、それも弔事用のドレスを仕立て直して宮廷においでになろうなんて、馬鹿ですか。流行遅れどころか、もはや骨董品の域ですよ?」
「では、私も何度でも言うけれど。お金がない。買っても無駄。あるものを大切に使おう精神。どこにも、新しいドレスを買う理由なんてない」
「お金がないって……それはお嬢様が使ってしまわれるからでしょう! ……人々のためになるのだから、咎める筋合いなどないのですが……」
このゼランド領は税率がかなり低く、富の再分配についても当主アロードの目配りが届いているが、それでも細かなところで不足があったり、即応性に欠けたりことがあったりする。モードウェンは領主の息女として私的に割り当てられた資金のうちの結構な額を、そうした部分を補うために使っているのだ。
それでも、ドレスの一着や二着くらいなら、父に頼むなりすれば調達することはできる。それをしないのは、ひとえに無駄だと思うから。
「……せめて、弔事用はやめませんか?」
そう言うナフィに、モードウェンはわざとらしく目を見開いた。
「なら、結婚式用のドレスにする? ものすごく場違いだし、間違いなく顰蹙を買うけれど」
「極端すぎます! 何で花嫁衣裳を持ってこようとするんですか! お呼ばれ用のものとか、もっと他にあるでしょう!」
「ないわ。全て売ってしまったから」
「……そうでした」
気まずい空気を誤魔化すようにモードウェンは言ってみた。
「着倒して毛羽立った家庭用のドレスとか、土埃の染みついた旅装のドレスとかならあるけれど……」
「もっと駄目です! 変なものを着ていけば、家名にも傷が付くんですよ!? お嬢様ひとりの問題ではありません!」
「……領土は辺鄙で貧しい地域、位は男爵。アールランドの首都よりも隣国の首都の方が近くて、お父様も引退後は親戚を頼ってそちらに越すことをお考えだとか。吹けば飛ぶような男爵領はお兄様が継ぐか、親戚の誰かが持っていくか……誰も欲しがらないかもしれない。お兄様も結婚なさって子爵の位をお持ちだし、上がりがほとんどない領地なんてお荷物なだけだというご時世だし。男爵位だって、何代も前の当主が本家の跡継ぎ争いに敗れて、形ばかりの爵位を与えられて放り出された結果でしかない。そんな弱小にもほどがある貴族の家名に傷が付いても、だからどうなると言うの?」
「……もう! もう!」
ナフィは肩下までの金髪を振り乱して地団太を踏んだ。
「なんて口の減らない! 屁理屈をお捏ねになってばかりで、お館様のご心労が偲ばれますわ! 墓地をほっつき歩かれるのもよろしいですが、一生に一度のお披露目の義務くらいはお果たしなさいませ!」
「…………」
モードウェンの口が達者だというのなら、原因の一端はナフィにあると思う。罵倒しつつ敬語を忘れないなんて器用すぎる。その他の部分を盛大に間違えている気がするが。
短く息をついて、ナフィは不毛な議論を終わらせた。
「ともかく。新しいものを一着は仕立てていただきますわ」
「……社交の時期が目前で、どこの仕立屋も大忙し。領地内の仕立屋も、飾り甲斐のない私のドレスを作るより、金払いがよくて、作ったドレスを着こなしてくれて、今後につながる顧客の方を大切にするはず。私が王宮に行く機会なんて、今回きりなのだし」
理屈で返したモードウェンに、ナフィは射殺すような視線を向けた。
「今回きりなら尚更、必要ですわ。否とは言わせません」
「…………」
「黙ればいいと思ってらっしゃるでしょう!」
こうしてモードウェンはのらりくらりと躱し続け、王宮に行く日がやってきた。