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「まだも何も、話は始まったばかりだ。言うだけ言ってさっさと帰ろうとするな。……いま舌打ちしなかったか?」
「しておりません」
「そうか。あまりにもそういう顔だったものだから」
舌打ちどころか平手打ちを食らわせてやろうかと思った。そういう顔とはどういう意味だ。
「しかし、私を前にしてさっさと帰ろうとするとはな。君は未婚のデビュタントのはずだが」
「……未婚の女性であれば誰もが自分に魅了されるはずだとでも?」
「いや、既婚であっても同じだ」
平手ではなく拳で殴りたくなった。
「……でしたら、そうした者を傍に置かれればよろしいでしょう。私はごめんです」
モードウェンが言うと、何が楽しいのかカイウスは笑った。
(眩しっ……!)
晴れ上がった夏の空に吹く風のような爽やかさだ。中てられて消し飛ばされそうだ。
笑みの余韻を口元に残しながらカイウスは少し首を傾げた。
「しかし新鮮な反応だな。私の笑顔はそれなりに受けがいいつもりなんだが。誰か好いた者でもいるのか?」
「…………おりませんが」
「そうなのか? おかしいな」
その自信はどこから来るのだろうか。
モードウェンは息をついた。与太話に付き合っていても意味がない。
「それで、何を仰りたいのです? まさか自慢話をなさりたかったのですか?」
「自慢と言うが、根拠があるのだから……いや、本題に入ろう」
モードウェンが拳を握りしめたのを見て取ったカイウスが話を変えた。殴りたい衝動を抑えるためであって本当に手を出す気はないが、そうした素振りを見せるだけでも本来ならば問題だ。相手が失礼だから情状酌量の余地はあるだろうが、それよりも相手の親しみやすさがこうさせているのだろうか。気に入らない。
カイウスは緑の瞳でモードウェンを見透かそうとするかのように見つめた。
「正直なところ、君のもたらしてくれた情報をどう扱っていいか分からずにいる。そのまま信じることはできないが、捨て置くには重大すぎる。キースの死について不審な部分があったのも確かだ。そこで相談なのだが……」
「お断りします」
「……私に協力して動いてもらえないだろうか」
嫌な予感がしたから聞かずに断ったというのに、カイウスの方もモードウェンの話を聞く気がなさそうだった。何も聞かなかったかのように、要求――王族からのこれは、依頼ではなくもはや要求だ――を突きつけてきた。
「…………」
聞かなかったことにしたいが、聞いてしまったものはどうしようもない。モードウェンは思い切り顔をしかめた。
「…………余計なお世話だろうが、淑女がするような表情ではないと思うのだが」
「淑女として扱ってくださるなら、謹んでお断りしたいのですが」
「なかなか弁の立つ淑女だな」
まずかっただろうか、とモードウェンは少しひやりとした。理屈っぽい、可愛げがないというのはよく言われることだ。言うのが主にナフィや父なので聞き流してきたのだが、つきあいが浅いうえに目上も目上な相手に対する態度としては言うまでもなく問題だ。売り言葉に買い言葉のような感覚で言い返してしまったが、無礼を咎められるのだろうか。
モードウェンのたじろぎを察したかのようにカイウスが距離を詰め、畳みかけるように言った。
「頭の回転の速そうな君なら分かってくれるだろう? この情報は捨て置けないし、情報をもたらした君も逃がせない。幽霊が見えるという君の眉唾な主張を確かめないことには話が進まない」
「……まあ、そうなりますよね……」
義務感で王子の危機を伝えたはいいものの、幽霊が見えるという話をしてしまった以上、こういう展開になるのは見えていた。
とはいえ、最悪の展開というわけではない。もしもカイウスがモードウェンの話をはなから信じなければ、話もモードウェン自身についても何も確かめることなく忘れればいいだけの話だからだ。そうなっていない以上、少なくとも彼は話をきちんと受け止め、自身に危機が迫っている可能性についても心構えができるだろう。
モードウェンとしては、これで充分だ。キースとの約束を果たしたと言えるはず。
だから、油断した。
「それで、君はキースとどんなやり取りをしたんだ? 私の危機というだけでなく彼の仇を取るためにも、なるべく詳細に知りたい」
カイウスの要請を受け、ところどころ質問を挟まれながら、モードウェンは素直に話した。あまり認めたくないことだが、幽霊が見えるという話を一笑に付することなくきちんと取り合ってくれた彼の態度に、少しだけ絆されたからでもある。
話を聞き終えたカイウスはにこりと笑った。
「なるほど。君はキースに言ったのか。『王子のことは任せて』と」
「……それが、何か?」
嫌な予感に、モードウェンはじりじりと後ろに下がった。しかしその分だけカイウスは距離を詰めてくる。いい笑顔でモードウェンに言った。
「請け負ったことは最後まで全うしないと。もしも私がこのまま殺されたら、それでも彼との約束は果たしたといえるのかな?」
「……伝えたところまでが私の責任でできる範囲です。あとは殿下のなさりよう次第かと」
「君はキースに代わって警告を届けてくれたのだろう? 『キースに代わって』。もしも彼が今ここにいたら、なんとしてでも私を助けようとしてくれたはずだが」
「それは当然、彼は殿下の従者ですから」
「では当然、恋人たる君も同じことをしてくれるだろう?」
何を言われたか、本当に分からなかった。
何かの暗号か、謎かけか。もっと単純に、聞き違いか。
眉根を寄せて考え込むモードウェンに、カイウスは繰り返した。
「君は私の恋人なのだから、恋人たる私を助けるのは当然だろう? 従者が主を助けるよりももっと切実なはずだ」
聞き違いではなかったらしい。モードウェンの眉根がますます寄った。
「…………お疲れでいらっしゃるのでしょうか。それとも失礼ながら、気が触れていらっしゃる?」
カイウスは苦笑した。
「その反応は予想していたが……私にかけらも興味がないとそこまではっきりと示されると……新鮮だな」
そうでしょうとも、と相槌を打つのさえ馬鹿らしくてモードウェンは心の中で呟くに留めた。
カイウスはさらに言った。
「疲れているとか気が触れているとか、それを言われて当然なのは君の方なんだが。幽霊が見えると言い出す方がよほど荒唐無稽だろう」
「なった覚えもない王子の恋人とやらとして扱われるのも大概だと思いますが」
「どっちもどっちということか。では、そういうことで」
「お待ちください!」
「私の恋人になることが不満か?」
「不満だし、不審だし、不穏です。ご乱心にもほどがあります!」
乱心、と繰り返して笑うカイウスは、客観的に見れば恋人として極上だろう。血筋も容姿も文句のつけようがない。性格は……だいぶ難ありのようだが。
(王女が仰っていたのは、こういうことなのだろうか……)
顔「は」いいということには賛同するが。曲者の匂いしかしない。
「それなら、君は私と何のかかわりもなかったということにしようか。自分で言うのも何だが、私は女性たちに人気がある。本気で私の恋人になろうと狙っている者はたくさんいる。そうした者に、君と私がロマンチックな『水妖の庭』で二人きりになり、何事かを話したということを伝えようか。針の筵状態になった王宮で、無事に過ごせる自信はあるのかな?」
「…………!」
前言撤回だ。彼は単なる曲者ではない。――とんでもない曲者だ。




