日本人のなかで、俺だけが黒髪黒眼
「立てる?」
名画から抜け出してきたような美少女が、俺を見つめている。
ただの名画ではない。
企画展示などがあれば間違いなく目玉になり、その絵があるだけで美術館に行く意義が生じるような名画の出身だ。人の美意識の定義を造りかえる力さえ持ち合わせ、神の美意識に肉薄する、人類の最高傑作。
絵の得意な父がこの透けるように儚い見目の少女を見たら、憧れのあまり気のふれたことをするかもしれない。夕焼けから絵の具を作ろうとしたり、ペガサスの尾からできた筆を探したり。彼女を見るだけで、神が示す美の「正解」に近づくことができるようだった。
きっと神というものは人間には到達できない優れた美的センスを持っていて、その幻想を立体に掘り出す力さえも持っているのだ。人間離れした完璧で天才的な造形を、神が誤ってこの子に与えてしまったのかもしれない。
どんな名画や黄金比よりも説得力のある、整った顔立ち。こちらを覗いている大きな瞳は、外側が海のように青く、内側は大地の恵みを体現するような緑と茶色が入っている。創造主はこの子の愛らしさに血迷って、地球を宝石に作り変えてその両目に嵌めたのだろう。
大粒の雨が引っかかる透け色の睫毛は人間の限界に挑戦するかのように長く、しかも重力に逆らってくるんと上を向いていた。ミルクを混ぜたブロンドのような色の前髪から、雨粒が流れていく。
水の妖精には美少女の顔を伝う水滴を運ぶ仕事がある、とか言われても、今なら納得する。
桃源郷の王が戴く冠のように不思議に淡く艶めいている髪はぺったりと彼女の額に張りついて、それが完成された相貌にあどけなさを与えていた。あまりに美人であれば、びしょ濡れて張りついた前髪も魅力的な武器になるらしい。そんな彼女が身につけているのはシンプルな水色のワンピース。袖なしのハイネックで丈は膝の真ん中あたりまで、ポーチのついた濃いココア色の太いベルトがウエストをマークしている以外に模様や飾りはついていない。それが服の力を借りずとも煌めく容貌を一層引き立てていた。
間違いない。この子は世の摂理から寵愛を受けている。
俺と同じ人間だとは、思えない。
視界を支配する美貌に、劣等感は湧かなかった。猫の愛らしさに同じベクトルで張り合おうとする人間はいないのと同じだ。
現実を忘れて見惚れてしまうぐらい整って美しいだけじゃない。気遣うようにこちらを見つめるその子は、今まで見た何よりも可愛かった。
「私はソフィ。アナタの名前を聞いてもいい?」
ふわりと目を細める表情の動きはほころぶ蕾の擬人化のようだ。急に自己紹介してきた少女の言葉が脳に伝達されて、ハッと我に返る。
この異様な場所で耳にする流暢な日本語だけが、雨上がりの光のようだった。
土砂降りのさなか、殺気立った兵士に囲まれているにも関わらず、ソフィと名乗る少女は微笑の女神であるかのようにこちらに手を伸ばしてくる。
その瞬間に、パァン、と鋭い音が響いた。
耳を貫く爆音に、肩がビクリと震える。遠ざかっていたはずの死の恐怖が蘇って、全身の筋肉が硬直した。
威嚇射撃、とかじゃない。
円をなす兵士の誰かが、今、美少女ソフィに対して確かに発砲した。少女の足元の土が抉れており、黄褐色の奇妙な液体が詰まった弾丸のようなものが、めり込むように埋まっていた。
ひぇっ、と喉を鳴らすと、女の子が屈んでこちらを真っ直ぐに覗き込んでくる。腰のあたりまでありそうなシルクの髪の束が、ゆらりと揺れた。今にも戦いが起こりそうな緊迫感のなか、命を対価に支払って眺めるのもおこがましいような美貌に晒されて、二重に喉が引きつってしまう。
「アナタに怪我はさせないから、安心して。お兄さん」
お兄さん、と呼ばれて、眼前のすらりとした少女は自分より幼いのか、と硬直した後頭部で考えた。
「女!フィーゼルムンドの遣いから離れろ!」
雨の爆音のなかで、兵士の誰かが精一杯張り上げたであろう声が聞こえた。
……なんの遣いだって?
「フィーゼルムンドの遣い、って何?」
少女が呟いて、声をひそめてこちらに尋ねてきた。空想にしか実在しない合唱部の妖精みたいな声をしているのに、身内にするように親しげに話しかけてくるので、頭に入ってくる情報が氾濫しそうだ。
「え……っと」
俺に分かるわけがない。
分からないけれど、あの鳥の背に乗って現れた自分のことを示しているのだとは思う。これから何が起こるのか分からないが、できる限り面倒に巻き込まれたくはない。あの物知りそうな鳥にもっと実用性のある質問をしておくべきだったと後悔しながら、うまく働いていない思考を必死に回転させる。
考えろ俺。どうにかうまく立ち回るんだ。
日本語を話すってことは、ここにいる金髪や茶髪に明るい色の目をした人間たちは日本人だ。
うん。日本人だと信じよう。
黒髪黒目なのが俺だけだとしても、相手が日本人なら、空気を読んで奥ゆかしい感じに振る舞えばこの場は凌げるかもしれない……。
「お、俺のこと……だと思う」
「思う?」
正常性を失った思考回路を走りながら、目の前の美少女に言葉を返す。最先端技術で黄金比をもとに削り出した彫刻のような彼女は、未開の高山を駆ける子山羊のように首を傾げた。無垢な地球色の瞳に、この子は本当に大勢の兵士に囲まれるような悪行を成したのだろうか、と疑問が芽生える。
「本当は違うんだけど、あの人たちにはそう思われてるのかもしれない」
俺がフィーゼルムンドの遣いだ!と言う勇気はなくて、素直にそう述べた。豪雨に晒されてなお一切穢れの見えない彼女。どうすれば味方を増やせるのか分からない状況だが、目の前の清廉な美少女には嘘をつくべきではない、と脳が警鐘を鳴らしている。
そもそも、俺は初対面の人に自分を偽るなんて怖くてできない肝の小さい人間で、修羅場を潜り抜けるための器用な受け答えもできないのだが!
「フィーゼル……なんとかって何?」
「あの鳥の名前らしい」
「流氷のこと?」
「多分……」
柔らかい瞳で話していた女の子が、一瞬だけ難しい顔をした気がした。美少女が瞬きして視線をくるりと回すだけで映画の名シーンに匹敵する誘引力がある。そんな彼女に返事をする俺の声は、なんと間抜けなのだろう。
「アナタは……」
少女が何か言いかけたところで、痺れを切らしたのか数人の兵士が発砲した。
ダン、ダン、と雨で満たされた空間を貫く発砲音が連続して、頭を押さえて蹲る。
「ひぃっ……」
これ、当たったら絶対死ぬよな?!なんで、このソフィって子は銃声に全くビビらないんだ?!
「聞こえないのか!神鳥の遣いから離れろ!」
「男の方は絶対に危害を加えるな!神鳥の背に乗ってきた人間だぞ!」
荒れた声と気配が近づいてくる。おそるおそる見ると、輪を作っていた兵士のうち4人が明らかに銃っぽい見た目の筒を構えながらこちらに駆け寄ってきていた。
怖い。怖すぎる。
何が起こっているんだ。これから何が起こるんだ。なんとかこの場を切り抜けられますように。
何かに祈りながら、恐怖で引きつった顔を上げる。女の子は特に何かを怖がるそぶりもなく、駆け寄ってくる兵士を一瞥して、弾丸の吹き溜まりができた足元を見下ろした。
5つの銃弾が、ぬかるんだ地面に半身を沈めている。
兵士が少女の足元を撃ったのか、撃つのに失敗したから少女に当たらなかったのか、それとも青い雨があまりに重くて弾が飛ばなかったのか。俺には判断がつかなかった。
そもそも、この黄褐色の透明な液体の入った弾が何なのかが分からない。
唯一分かるのは、巨鳥に乗って現れた恩恵で、今のところ、俺の命は狙われていなさそうなことだ。不幸中の幸いである。
今はとにかく生き延びることを一番に考えよう。
駆け寄ってきた兵士4人のうち2人が、少女の腕を両側から掴んで強引に立ち上がらせた。
それを見て、「ぁ、」と間抜けな声が俺の喉から微かに飛び出る。こんな女の子を2人がかりで拘束するなんて、何をするつもりなんだ。
装飾のないワンピースの裾は、彼女が俺の前に屈んだせいで泥がついていた。金具の触れ合うようなカチャリという音がして、少女がウエストに巻いているチョコレート色の太い革のベルトのポケットには何かが入っていて、ベルトから何かの道具がぶら下がっていることを認識する。
この子、何者だろう。
「女。麻酔銃を避けるのはどういう絡繰だ?徽章なしに何をしている?」
謎の少女は自分が取り押さえられていることは気にしていないようで、腰に巻いたのと同じ色の編み上げブーツをばたつかせて俺の方を示し、鈴蘭を形にしたような声で兵士に訴えた。
「ソフィです。あの、このお兄さん、流氷の遣いじゃないって言ってるわ。人違いだから、ちゃんと話をした方がいいと思う」
……この子に「流氷のフィーゼルムンドの遣いではない」と言うべきではなかったかもしれない。少女の発言に、内心焦る。流氷の遣いが何なのかわからないけど、その肩書きを持っているように見せた方が俺が生き残れる確率が高そうな気がする。
「黙れ。適当なことを言うな。このお方は神鳥の遣いだ。魔術の不法使用と傷害容疑のあるおまえが話していい相手ではない」
少女の発言のせいで保身に走るための肩書きが失われなかったことに、利己的な自分の心は安堵していた。罪のなさそうな少女が目の前で拘束されて怒鳴られているというのに、最悪だ、俺。
「傷害事故は起こしていないわ。霰が刺さった男の子を手当てしただけなの」
いかにも心の清らかそうな少女の言葉を聞くと、そうだろうなと納得してしまう。あまりにまっすぐすぎるが故に、誤解されやすいのかもしれない。いわゆる損をするタイプ、というやつにも見える。
「駐在所で公正に事実確認をするから来い。両手を出せ」
「ええ」
抵抗する気はないらしく、素直に腕を差し出した女の子の手に、氷でできた枷がガチャリと嵌められる。こんな可愛い子に何をしているんだよと胸が痛んだ。
この子が罪に問われる可能性があるとしたら誰か悪いやつの陰謀に嵌められたときだけだろ。
どこか子供みたいな雰囲気を纏う彼女を守ってやらなければ、という気持ちになる。小さいというにはやや背丈があって、銃声にびくりともしないし、ウエストの革のポーチには物騒な金属が入っている音がしなくもないが。
「あの子は無事なの?」
美少女は白く半透明な手錠を嵌められても動じることはない。脇に立っている大柄な茶髪の男に問いかける口調は無邪気なままだ。
その兵士の目はメープルシロップ色。目鼻立ちがはっきりしてはいるが、ヨーロッパにいるような人の顔かと言われると全然違う。ちょっと顔が濃いめの日本人と表現するくらいがしっくりくる。あとの3人も髪をブリーチしてカラーコンタクトを入れた日本人のような風貌だった。
何度瞬きしても、自分の知る現実とかけ離れた光景が醒めることはない。ここでは自分の知らない宇宙の法則が働いていて、自分の知らない常識が布かれていて、都合よく人間と日本語だけが用意されている。
やっぱりここはゲームの世界なんだろうか。
「公会堂に避難して手当てを受けているだろう。意識が戻ったら事情聴取をする」
思考が静止してしまいそうな俺を置いて、少女と兵士の会話は続いている。兵士の言葉を聞いた美少女は目元を和らげていた。
「よかった」
2人の男から押さえ込まれている状態で純朴な物言いを繰り返す彼女に、この子は童話のお姫様のように綺麗な心の持ち主なのだろうかと思えてくる。
どうしてあの巨大な鳥は俺をこの子の隣に降ろしたんだ?
考えても全然わからない。
だけど、あの鳥がこの子の隣を狙って着陸したことは確かだ。
「魔術の不法使用と徽章の不携帯は犯罪だ。なぜ徽章を携帯していない?」
地球色の瞳がくるりと一回転した。
「落としちゃったの」
「分かった。抵抗はするな。すぐに駐屯所へ行くぞ」
「うん。あっ、何するの?」
さっきから会話に出てる「徽章」って何だ?
俺、そんなもの持ってる気がしないけど、もしかしてまずい?
ひとりで焦る俺の傍で、太眉で男前の1人の兵士が地面に埋まっている怪しい液体の詰まった弾をひとつ拾う。懐から取り出したナイフで切れ込みを入れたようで、ピシリと音が走り、迸った内容液が少女に振り掛けられる。
……と思ったら、蛍のように光る黄褐色は彼女の肌に触れる前に白い花びらに変化して、青い土砂降りに貫かれて地面にぽとぽと落ちた。
何が起きているんだ。
困惑していたが、よく見ると兵士の表情も凍りついていて、今起こった現象がここの人間たちの常識も外れていることは察した。
ソフィという少女は、現地人にとっても異質な力を持っているらしい。
「おまえ、何者だ?出身都市は?魔術属性は?」
「私はソフィ。ここには初めて来たの。ここの魔術の分類については知らないわ」
「麻酔液に何をした?」
「何もしてないわ」
「正直に言え!」
「ほ、本当に何もしてないの」
大柄の男2人に両脇から押さえ込まれて問い詰められている少女が気の毒で、見ていられない。その子を離してやってくれないかと言いたいけれど、口を開こうとしても緊張で言葉が出なかった。これから自分が何をされるか分からないし、迂闊な発言をするのは憚られる。
だが、保身に走りたい気持ちを破くように、このソフィという少女の助けにならなければ、というひ弱な正義感が確かに湧いていた。
ここの兵士たちにとって異邦人である自覚のある俺と、異邦人っぽい少女。流氷のフィーゼルムンドは少女の味方になれと言うつもりで俺をここに置いていったのかもしれない。
この美少女に手を貸すべきなのだろうか。
ふわふわしたことしか考えられない頭でぼんやりと目の前のやり取りを見つめていたが、急な破裂音に、目を見開いた。
「その銃弾に何かするくらいなら先にこれを壊すもの。こうやって」
「!?」
4人の兵士も目を見開いていた。俺は口まであんぐり開けてその光景を見つめていた。土砂降りに舌を何度も刺されてようやく、何が起こったのかを脳が理解しようとし始めた。
ソフィの手首を固めていた透明な氷の手錠が、音もなく粉々に砕け散ったのだ。
雨水を吸ってぬかるんだ地面に、鰹節みたいになった氷の破片が微かに光っている。
俺の目で追える範囲でだが、女の子は指の一本も動かさなかった。この子、今、何をしたんだ?少女を押さえ込んでいた兵士2人が怯んだように手を離す。
「……と、とにかく来い。話は駐屯所で聞く」
不思議な少女が逃げるそぶりはない。男たちの焦った声をスルーして、淡い金髪の持ち主は麗しく俺のほうを向く。
「このお兄さんはどうなるの?」
「彼は中央区の庁舎へ行く。神鳥の遣いだ」
「庁舎へ行ってどうなるの?」
どうやら、自分のことは棚に上げて、俺の身を案じてくれているらしい。人に手を差し伸べることが許されるのは己の手が空いている者だけだと知らないのだろうか。罪の疑いで塞がれた両手を携えたまま、透き通った視線が自分を射抜く。
「おまえには関係ないことだ。こっちへ来い」
ソフィと兵士がくるりと背を向けた。編み込んだ三つ編みのハーフアップが花冠のように彼女の後ろ姿を飾っている。高貴な精霊みたいな後ろ姿がどこか物騒に見えるのは、チョコレート色のベルトから明らかにナイフの入っていそうな形の袋と白い手袋がぶら下がっているためだろう。
それでもやっぱり、この少女がなにかの罪を犯すような子には見えなかった。
「神鳥って、何?」
ソフィが兵士にそう尋ねた。川のせせらぎと鳥の囀りを思わせる声が怪訝そうに揺らぐのを聞きながら、真っ白になりかけの頭を叱咤する。
できるならこのソフィという子が兵士に連れて行かれるのを阻止したい。人を見た目で判断してはいけないと分かってはいるが、その理性に抗えないくらい、彼女は「この世の真理」に近しい魅惑のオーラを放っている。
「フィーゼルムンドはこの世界を司る神だ」
兵士に合わせて歩いて去ろうとしていた少女が、立ち止まった。
「どうした?はやく来い」
「……あの流氷は」
「神鳥のことか?」
「あの流氷は、神じゃないわ」
少女が淡く小さな声で呟いた。兵士がそれを遮る。
「黙れ。その物言い、レクキュピアの巫女か?何にせよ徽章も身分証もないおまえには発言権も行動権もない。とにかく来い」
……俺、神の遣い、ってことになってるのか?
息が止まりそうだった。
この明度の高い色合いの人間たちは何者なのだろう。そしてこの人間たちが神と呼んだあの巨鳥は何なのだろう。
父親が神と知り合いで、その息子の俺は神の遣いってこと?
俺とあの親父に限ってそんなことあり得ないだろ。
俺が神の遣いなわけがない。
だって、そうだとしたら、脳細胞が死滅しそうなぐらい土砂降りの勢いが痛く感じるのも、自分がまったくの無知で無力なのも……
……兵士に連れていかれる女の子ひとり助けられないのも、おかしいではないか。
兵士たちが女の子を乱暴に引っ張って歩き出そうとする。
水を吸ったミルキーブロンドが揺れて、星のようなひとみが一瞬、俺を振り返った。
その目を見て、勝手に口が動いていた。
「ま、待ってください!」
雨音を掻き消すほどの、大きな声が出た。
ソフィと2人の兵士の歩が止まって、俺の方を振り向く。
助けを求めているように見えたのは一瞬だけで、丸く大きなふたつの地球は、急に大きな声を出した俺を不思議そうに見つめていた。土砂降りに支配される視界でも、神の寵児の姿は陽に照らされるようにはっきり見える。
ぴたりと動きを止めてこちらを見つめる兵士たちの視線は強張っている。青暗い雨越しの視線はどうみても俺を信仰したり歓迎してなどいない。彼らが俺を見る目と、ソフィを見る目は、同じだった。
鳥に乗って現れた自分は崇拝の対象などではなく、ただの恐怖の根源なのだ。俺とソフィは、きっと同じだ。
張り詰めた空気への恐怖と焦燥で、心臓が早鐘を打つ。
怖い。
だけど、ソフィの味方をしたい。
考えろ、俺。
デタラメでいい。あの子を兵士から逃す方法、言い訳を、考えろ。
今すぐにだ。