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目覚めたら目の前に裸の天使が……




目を開けたら、目の前に天使がいた。

比喩じゃない、本当だ。

その人影の放つ輝きはサングラスなしには直視できない真珠のようで、冷蔵庫ぐらいの大きさの白翼を広げた彼らは、市民プールほどの大きさの湖に腰まで浸かっている。

いま目の前にはそんな神聖そうなのが数十人くらいいて、しかもみんな全裸だった。


……いま起動したのって、全年齢対象のゲームだったよな。天使って人間じゃないかもしれないけど、それでも人のかたちをしているし、裸はまずくないか?


……いや、ここどこ?


情報量の氾濫で頭が爆発すると思考力も判断力も的を得ないものになるというのを、いま、全身全霊で体験している。

自分の置かれた状況が全く理解できず、木彫りで作った借りてきた猫みたいに動けないでいたが、淡い色素の裸の天使たちがもれなく全員ペタンコの、いわゆる貧乳であることに気がついたところで我に返った。


なに見てるんだ、俺。あの人たちに失礼だろ。目を逸らせ!


ぶんぶん首を振ったら、一心不乱に水浴びをしていた天使たちが俺がいるのに気づいた。儚い色の視線が束ねられて自分に集中した、と思った次の瞬間、天使たちは怯えた鳥の群れように一斉に飛び立っていった。

「………。」

弁当のバランみたいな草を踏みしめて立ちあがる。俺、家にいたはずなのになんで靴履いてるんだろう。湿っぽく青々とした香りが足元から昇ってきて、ツヤツヤの緑を潰している履き慣れた黒のスニーカーを見下ろした。

状況を認識したがる理性を騙すように優しい風が吹いてきて、顔を上げる。肌をなぞる冷気に誘われるように、性別不詳の天使たちが集っていた湖に視線をやった。あの天使たち、すごく可愛い顔立ちだったけど、飛び立つ時に具が見えた気がするんだよな……。

静まり返った湖面の上を、虹色の光が不気味に踊っている。夏祭りの提灯が花火のかけらを伴って飛んでいるみたいだ。一度その不思議な輝きを目にしたら平衡感覚を削られるような軽い目眩に襲われて、足が勝手に湖の淵まで動いていた。

誘蛾灯の明かりに囚われた虫って、こんな気分なんだろうか。いま考えるべきことの優先順位が塗り潰されたような、全てへの気力を3割ずつ抜き取られたような感覚がする。梅雨の気だるさや冬の朝に布団から出たくないときと少し似ていた。

ざわめきを運ぶ風に乗って、白い羽が花びらのように舞って落ちてくる。天使のものだろうか。落ちてくるままにふわふわの欠片をキャッチしようとしたが、「野生動物の落とし物に安易に触ったら駄目」と言う母の言葉が聞こえた気がして手を引っ込めた。


天使って野生動物なのか?

……さあ。


純白の羽毛が夢色の湖面に着水するのを目で追って、湖の奥底に鮮やかな珊瑚がぎっしりと生えていることに気がついた。

耳をすましたら人魚の歌が聞こえてきそうな、幻想的で麗しい珊瑚礁。目の前の光景がどこまで現実に即した色彩なのかもはや判断ができないが、とりあえず、この水溜まりを最初に見た時に「池か、沼か」で悩んだことを反省するくらいには綺麗だった。これは池でも沼でも水溜まりでもなく「湖さん」と敬称をつけて呼ぶのが正しいと思う。

……湖面をちらつく光のように散乱する思考を落ち着けようと、水面に映る唯一見慣れたものへ意識的に焦点を合わせた。

生まれてから18年間、ほぼ毎日見てきた自分の顔。「お父さんに似て柴犬みたいな顔だね」と言われる、不細工ではないと信じたいがフツメンと言う自信を持てるかは微妙……な、俺の顔。

水面に揺れる己の顔を眺めていると、この立体感溢れる景色はただの夢で、暫くしたら自室の床かリビングのソファで目を覚ますだろう、という頭の隅の楽観的な考えが萎んでいく気がした。これが自分の夢だったとしても、裸の天使を眺める世界を生み出したのが己の脳だと受け入れたくない気持ちが湧くのだけど。

一体、いまの自分はどういう状況にあるのだろう。水鏡に映る冴えない顔と見つめ合った。目を逸らさない顔面に指を突っ込むと、波紋が広がって、水の中の自分が不安げにぐにゃりと歪む。

天使が浸かっていた水は死人のような冷たさと、人肌のような温もりを持つ不思議な感触の液体だった。底に引き込むかのようにぬろりと肌にまとわりつく水は、爪の隙間にピリリと沁みる。

この美しい水のpHはいくつなんだろう。人体に有害な水溶液か……もしや、なにかの生命の体液だろうか?確かに、妖艶な珊瑚が生い茂る湖が淡水なわけがない。

恐ろしい考えが湧いて、慌てて湖から手を引き抜いた。水を飛ばすために天使の風呂に触れた手を振ると、肌の表面が気化熱でひんやりした。


これは本当に夢なのか?

非現実的なこの空間が現実でないことは文字通り明らかだ。だが、湿度のこもった匂いや不吉な風の音が連れてくる生々しさと帰郷を求める胸騒ぎは、一体何なのだろう。


わけのわからない状況を整理したくても、何から考えるべきなのか判断がつかない。途方に暮れていたら、液面にぽつぽつと波紋が浮かび上がって、極彩色がゆらりと揺れた。と思うと、静寂を突き破る轟音が響いて水鏡が割れ、水面が剣の畑のような荒波に変貌した。

突如降り始めた土砂降りが、頭と背中を叩く。大粒の雨に晒されて体表の温度が奪われ、全身が、真冬に傘を持つ手よりも冷たくなった。

暗い空は虹色の湖から彩度を奪い、滝のような雨は視界を遮って肌を打つ。

色彩を奪われたはずの目に映るのは異様な光景だった。

……黒い天から落ちてくる雨が、どうしてか宝石のように見える。アクアマリン、ムーンライト、サファイア……知っている宝石の名前が脳裏に浮かんでは消えていく。どういうわけか、近くで見る雨粒は青白い炎を秘めたように煌めいていた。

星を閉じ込めたような水滴の美しさに目を奪われる。雨宿りをすることも忘れて水際でしゃがみ尽くしていたら、より一層体の芯を冷却する影が背中を覆った、気がした。

その湿った違和感はすぐに確信に変わる。

ただでさえ土砂降りで暗い世界を裏側まで飲み込むような、冷酷な影。凍った手で心臓を掴まれたような、異様な感覚に襲われていた。

最低限の動きで首を回して背後に目をやろうとして、


「………」


息を、止めた。

本能的な恐怖に支配されて、体が動かなくなった。これは畏怖だ。遺伝子にも神経にも、背後の正体はまごうことなき恐怖の根源だと刻み込まれている。

雨の帷を隔てたすぐそこ、自分の背後に、何かがいる。

ヒグマ?ライオン?それとも、ティラノサウルス?

想像し得る食物連鎖の頂点が、獰猛に爪を立てて脳を走り抜けていく。目線を動かすことすらできなかった。瞬きも呼吸も奪われた怖気の檻の中で、全身に鳥肌を立てる第六感が、己を見つめる存在(それ)を感じ取っている。

全身を貫くような土砂降りが、いつの間にか消えていた。

豪雨は続いているのはずなのに、雨粒が肌に当たらない。地面を殴る雨の轟音まで飲み込む、物質的で巨大な静寂が、辺り一帯を覆っているのだ。まるで影の妖怪みたいだった。幽霊のように薄く、息遣いも感じられないのに、肉食獣のように支配的な圧力でのしかかってくる。


俺は、喰われて死ぬのだろうか。


母さん、今朝は行ってきますも言わずに家を出てごめん。父さんと姉さんには、昨日喧嘩してからまだ謝ってない。明日課題の相談しようって言ったヨウ君、ごめん。来週ご飯に誘ってくれたナツメ先輩とヒビキ先輩、ごめんなさい。

昨日ちゃんと部屋を片付けるんだった。自分の洗濯物、畳んでおくんだった。今日の晩ごはん、何だったのかな。作るの手伝えばよかったかな。

みんなごめんなさい。

俺はここで死ぬみたいです。


場違いな後悔と初めて経験する死への恐怖でパニック状態になり、その場に縮こまった。死にたくなくても辞世の句じみた懺悔って意外とすらすら出てくるものなんだな、とパニックを免れたごく僅かな思考が他人事のように呟く。

……存在(それ)が僅かに動く気配がした。片足だけこちらへ踏み込んだのだろうか、それとも首を少し揺らしでもしたのだろうか。大した所作はしていないはずなのに、微かな空気の揺らぎによって空中の青い雨が固まって、静止した。内側に海色を光らせる雨粒は一つ残らず白く変色し、粉砂糖のようにさらりと舞って積み上がりながら、座り込んだまま動けない男を嗤うように、檻で囲うように、雪氷の枝を伸ばす。

怖い。

理解の及ばない光景に両手で顔を覆うと、凍てついた大気の外側ではまだ土砂降りが続いているのが聞こえた。

自分が感じているのが殺気ではなくただの冷気でありますようにと無力に祈りながら、大気が白い形を得ていくパキパキという音に震えあがった。骨が鋭利な歯で噛み砕かれるときもこういう音がするのだろうか。

ああ、この氷に囲まれて逃げられない状態で、恐怖心を餌にする獰猛な捕食者に殺されるのだ。いつ、その牙に貫かれるのだろう。いつ、その爪で押さえ込まれるのだろう。殺されて、どうなるのだろう。喰われるのだろうか。怠惰に日常を過ごしていた罰に八つ裂きにされるのだろうか。生きたまま食われるなんてことがあったらどうしよう。

死にたくない。だけど逃げようがない。

悪い方へ悪い方へと思考が錯乱していく。鳥籠のように伸びる氷の樹の隙間から石膏を流し込まれたかのように、身体は動かない。動いたとしても何だ。見なくても強大だと実感できるような存在から逃げ切れるわけはないし、挑んで敵うわけもない。覚悟なんて決まるわけもなく、ただ絶望に打ちひしがれて目をぐっと瞑ったが、自分の身体から鮮紅の噴水が上がるような悲劇は一向に訪れなかった。


もしかして、背後に聳える異形の影は、俺を殺す気はないのだろうか。

一縷の希望が光に見えたその時、


「 」


水の中を経由してきたようなくぐもった声が、神経を痺れさせた。脳に石油とミルクココアを同時に注入されるような、触れたことのない柔らかな音が、聞き慣れた日本語を形作っている。

凍てつく抑揚が紡いだ意味を理解した瞬間、雷に打たれたような衝撃が首の後ろから脳天に突き抜けた。


「………ぇ、?」


土砂降りの爆音が聞こえなくなった。

恐怖を支配するように伸び上がって己を囲っていた雪氷の檻は、自分のかすれた声に反応するように脆く崩れて白い山と化す。それが、土砂降りを冷気で覆い、静寂をもたらすためのもの()であったことを、ようやく理解した。

サラリとした雪の山を茫然と見つめる。こわばった口が震え、喘ぐような吐息が漏れた。

これは何かの茶番か?自分は滑稽なゲームの主人公にでもなったのか?第六感まで支配して心臓が口から出そうなほどの焦燥をもたらす実在は、やはりただの夢なのか?

強烈な威圧感を放つ背後の存在は、己の混乱に応えるように、ふたたび髄に音を注ぎ込んできた。


「薄野宏輝の息子よ」


……薄野(すすきの) 宏輝(こうき)


明らかに人間を超越した存在が、凡人の、自分の、父親の名前を口にした。




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[良い点] 語り手 「物語の1番最後で、自分の父親の名前が⁉︎ ど、どうなるんだろ。零君。 (((o(*゜▽゜*)o)))ワクワク」 零 「まあ、読んでいったら分かるのでは?」 語り手 「冷たいな…
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