海賊令嬢は腹黒貴族との婚約を破棄したい~悪徳貴族はやっつけろ~
父さんは海賊で義賊。
小さな海賊団の頭領だ。
あたしもそのうち跡目を継ぐんだって、海に生きて海で死ぬんだって、そう思っていたのに。
「突然だがシア。おまえブレイクと婚約したから」
父さんに話しかけられたかと思えば何の前振りもなくそう告げられ、あたしの目は点になった。
ちょっと何言ってるのかわからない。
「……は?」
「日取りとか招待客とか諸々決めんといかんのだが、そのへんはブレイクが勝手にやってくれんだろ。おまえは着たいドレスでも考えな」
「いやいやいや待て待て待て。どうした父さん、錯乱したか? 頭打ったか?」
婚約なんてのは陸のお貴族様たちが結ぶもの。海賊の娘であるあたしには縁のない話だ。
しかも港町を守る騎士の一人と海賊の娘が婚約なんて正気とは思えない。いくら父さんが悪い商人しか狙わない義賊だといっても、それはない。
「あなた、もう少し説明してあげましょう? シアちゃんが困ってるわ」
父さんの隣にいた母さんが、控えめな手付きで父さんの服の袖を引く。
母さん、ナイス!
いつもふわふわした笑顔を浮かべているから頼りなく思っていたけれど、生まれて初めて母さんが心強い味方に見えた。
母さんは細い指を頬に当て、にっこり笑う。
「今まで黙ってたけど、実は父さんも母さんも昔は貴族だったの。両家の仲が悪かったから駆け落ちして、海賊になったのよ」
「駆け落ちと海賊が全然繋がらないよ!?」
目を見開いたあたしを見て、父さんが面倒くさそうに「まあ、いろいろな」と首の後ろをかいた。
雑な説明にも程がある。
「とにかく血筋的には問題ないわけだ」
「血だけ継いでりゃいいってもんでもなくない? 制度的にいろいろない?」
「そんな面倒なこと、俺は知らん」
「知っとけよ! 娘の話だよ!!」
父さんに詰め寄ったあたしの肩に、母さんがそっと触れてくる。振り返るとおっとりした笑みがあたしのすぐ側にあった。
「シアちゃん、父さんはちゃんとわかってるのよ。説明が面倒なだけだわ」
「フォローになってないよ母さん」
面倒だからって知らないことにするのは親としてどうかと思う。
「あー、それでな。ブレイクも身分を隠して騎士のふりをしているだけで実は貴族だから、婚約に法的な問題はない。よし説明終わり」
「そんな説明で納得できるかっ! あたしは父さんの跡を継ぐんだからな! 貴族なんかあたしにやれるかよ」
十七になった今でもまだ海賊の仕事には連れて行ってもらえないけれど、いつか海賊になるつもりで武術だって覚えた。うちの男たちの中でも特別強い奴らにはまだ勝てなくとも、その辺の男になら負けない自信はある。
突然貴族になれなんて言われても、そんな急に――あれ?
子供の頃から不思議だった母さんの〝趣味〟の意味がようやくわかった気がして、母さんに顔を向ける。
母さんは目を瞬いたあたしを見て、ふわりと微笑んだ。
「大丈夫。シアちゃんには礼儀作法も社交ダンスも最低限の教養も、ひととおり教えてあるからなんとかなるわ。それ以外のお勉強だけはちょっと頑張らないといけないかもしれないけど」
「あれ教育だったの……!?」
小さい頃から母さんは時々、「母さんの趣味に付き合ってちょうだい」と言って、あたしをいろんな〝ごっこ遊び〟に誘ってきた。
時には囚われのお姫様、時には恋する深窓の令嬢、スパルタ教師と女学生。母さんの好きな物語のワンシーンから始まってアドリブを展開させる遊びだ。
お辞儀やダンスに関する演技指導がやたら厳しいと思っていたら、あれは教育だったってこと?
「母さんはな、所作の綺麗さとダンスの華麗さから〝社交界の妖精〟って呼ばれてたんだぜ。その母さんから教わってきたおまえは、所作とダンスだけならそのへんの令嬢に引けを取りやしねーよ」
なんでそんなすごい人が、こんなところで海賊の妻なんかやってるんだろう。
「あとはブレイクに聞け。このあと会うだろ」
「待ってよ。婚約も嫌だけど、何よりあいつとなんて絶対嫌! 本当に貴族と婚約できるんだったら、あたしは――」
「〝スカーフの君〟がいいって言うんだろ?」
父さんにため息混じりにそう言われ、つい首元のスカーフをぎゅっと握る。
色褪せて肌触りも悪くなってしまった若草色のスカーフ。何度もほつれた部分を縫い直し、穴が空きそうなところは折り方を工夫して隠し、騙し騙し使っている。
そんなヨレヨレのスカーフをいつまで着けてんだって他人に言われても、私にとっては大事な思い出の品だ。これをくれた男の子と、きっとまた会おうねって約束したんだから。
不満を表すために口を尖らせて父さんを睨んだけれど、
「あーめんどくせー! 婚約して貴族のパーティにでも行けば見つかんじゃねーの。ほれ、そろそろ準備しろ」
父さんはあたしを追い払おうとするかのようにひらひらと手を振る。
「さっ、今日も素敵に〝変装〟しましょうね」
母さんがあたしの手を握って、優しく引いた。
◇
海賊団の一員である、ロウの操舵してくれる小船に乗って、港町から少し離れた岸辺に向かった。
明かりは月と星だけ。夜の海は怖いと言う人もいるけれど、あたしは波に映る淡い光が揺れるのを眺めるのが好きだ。ゆらゆら、ゆらゆら。規則的なようで不規則な光の動きは、ぼんやり見ていると心地よくてつい眠くなる。
海を見ている間に岸に着いた。岩陰に隠れた場所にロウが小船を停めてくれた。
長いスカートの裾が濡れないように膝より上で結び、靴を持って砂浜に降りる。
母さんが決めた今日の設定は〝港町に住む男性に恋した令嬢のお忍びデート〟。
長いスカートは歩きづらいし、趣味じゃないからやめてほしい。でも「海賊の娘らしくない人物を演じてこその変装でしょう?」という母さんの主張に言い返せなかった。
変装してブレイクに会い、悪い商人の情報をもらって帰るのが、あたしの海賊団での役割だから。
スカーフは服に合わないから駄目って言われたけれど、小船がアジトを離れてからこっそり巻いた。
裸足で砂浜を歩いていると、待っていたブレイクがにこにこ顔で手を差し出してきた。
「やあ、シア。こんばんは。今日も美しいね」
「あんたに愛称で呼ぶことを許可した覚えはない。……何回言わせんだ」
「もちろん、君が許可してくれるまで何度でも」
やわらかな笑みを浮かべるブレイクの金髪を月明かりが照らして、淡く光って見える。吸い込まれそうな深紫色の目があたしを見つめていた。
ブレイクのことは気に入らないのに、顔だけは好みだから困る。どことなくスカーフをくれた男の子に似ているせいで、余計に動揺させられる。
ふいっと顔を背け、一人で草の生えたところまで歩いていく。足についた砂を雑に払ってから靴をはいた。
「今日もつれないなあ。そのスカーフの代わりを贈ろうとしたこと、まだ怒ってるの?」
あたしは後ろをついてきたブレイクを軽く睨み、腕を組む。
「怒ってる」
「悪かったよ。まさか君がそんなに大事にしていると思わなかったんだ」
ブレイクの謝罪に返事をするのはやめにした。
あたしだって、謝ってもらっておきながらいつまでも根にもつのは子供っぽいと思っている。でも大切な思い出の品を「くたびれたスカーフ」なんて言われた上にあっさり代わりを提案され、あの子との思い出に土足で踏み込まれたみたいで、ものすごく嫌だったんだ。
返事をしない代わりに話題を変えた。
「で、婚約ってどういうこった」
「あれ、ジャッカルさんから聞いてない?」
ブレイクが首を傾げる。小船を固定してから上がってきたロウが、「うちの頭領は説明をあんたに丸投げしたっス」と両手を頭の後ろで組みながら答えた。
「なるほど、あの人らしいね」
苦笑したブレイクが、浮かべる笑みをいつもどおりの柔和なそれに戻す。
「婚約はね、僕らの作戦の一部なんだよ。ジャッカルさんが僕と組んでいる目的は知っている?」
知っているも何も、父さんとブレイクの共通の目的なんて一つしかない。
「悪い商人をぶっ潰す」
「うーん、一つの正解ではあるんだけど、足りないね。末端をどれだけ潰したところで意味はない。僕らの狙いはもっと上さ」
「じゃあ商人たちが取引してる、この辺の港町の領主たち?」
「あんな雇われ領主はただの駒だよ。その上」
町の領主の上となると、この辺の港町は全てレザリンド侯爵領に属しているから……。
「レザリンド侯爵ってこと?」
そう答えると、ブレイクは「正解」と言って笑みを広げた。
「君たちに手伝ってもらえたおかげで、この辺の領主たちだけならどうとでもできるほどの証拠は揃ってるんだ。でも、それだけじゃ足りない。こんな小さな港町の領主なんて、レザリンド侯爵からすれば領主の暴走と言い張って首をすげ替えれば終わりだよ。何も変わらない」
ふうん、とひとまず頷いておく。でもあたしとの婚約にどう繋がるのかが見えない。
ブレイクがまだ話したそうに見えたので、釈然としないものを感じながら続きを待った。
「あとはここの領主たちがレザリンド侯爵の指示で動いていたことを証明できればいいんだけど、これが難しくてね。領主側の帳簿や契約書は押さえてあるから、対になるものが侯爵側にあるはずなんだ」
「そんなの、侯爵が燃やしてるんじゃないの?」
「その可能性もゼロではないけど、僕はあると踏んでる。レザリンド侯爵の性格からして、記録はきっちり残しているはずだよ」
ブレイクはやけにはっきり言い切った。まるで侯爵をよく知っているような口ぶりだ。
「隠し場所のアタリもつけてある。レザリンド侯爵の本邸の書斎の広さが間取りと合わないから、そこだろう。ただ、侯爵家の本邸ともなると平時に間者を紛れ込ませるのが難しくてね――そこで君の出番」
「……?」
「レザリンド侯爵の本邸で、僕と君の婚約披露パーティーを開かせる。その隙に別動隊が書斎に忍び込んで証拠を押さえる」
「侯爵の本邸でパーティ!? なんでそんなことできんの!?」
あたしは目を見開いたけれど、ブレイクはそんなあたしの反応に満足したように笑みを深くした。
「理由その一、僕がレザリンド侯爵家の人間だから。分家だけどね。理由その二、君のお父さんがリッフォン公爵家の人間だから。レザリンド侯爵はリッフォン公爵に借りがあるから、公爵が侯爵の本邸でやりたいと言えば断れないよ」
父さんが公爵家の人間だとは知らなかった。そもそも父さんと母さんが昔は貴族だってことすら今日聞かされたばかりだ。
待てよ、父さんも母さんも駆け落ちしたんだったらもう貴族じゃないよね? どうしてまだ貴族と繋がっているんだろう?
理解できないことばかりだけれど、知る意味はなさそうだったから聞くのはやめた。
ブレイクとの婚約が父さんの仕事の一部で、あたしにも役割があるんだったら――あたしが知るべきは、もっと別のことだ。
「あたしは別働隊が書類を探す間、レザリンド侯爵の気を引けばいいんだな?」
「そう。僕の婚約者を演じつつ、ね」
意味ありげにウインクされたのはスルーしておく。
あと聞いておきたいのは、
「別働隊ってのはどんな奴らなんだ?」
何かしら連携が必要になるかもしれないから、別働隊については知っておきたい。
ブレイクの周囲の人間かと予想していたけれど、意外にもすぐ近くで手が挙がった。
「あー、それはオレっスー」
「えっ陸で仕事なんて大丈夫なのか!?」
「オレはそっちが本業なんで、大船に乗ったつもりでいてくれていいっスよー」
ロウの本業って何? 海賊が本業じゃないの!?
何年も前からうちの海賊団で船に乗っていたロウ。他の団員と同じく父さんが唐突に連れてきた奴だから素性なんて知らないけれど、海賊業以外のことをやっているようには見えなかったのに。
「必要な情報はこれくらいかな。納得してもらえた?」
ブレイクがやわらかな笑みを浮かべて言う。爽やかにしか見えない表情なのに、なんだか仮面みたいだ。
たぶんブレイクは計画の全貌をあたしに語ってはいない。あたしが役割を果たすのに必要なことを話してくれただけだ。その中にだって、嘘が混じっていても驚かない。
腹の中が読めないブレイクのことは信用していない。
でも父さんの仕事は尊敬してる。麻薬の密輸や人身売買を行う商人から取引の品をかっさらって、少しでも被害を減らすこと。真っ当な商船なら依頼を受けて護衛だってする。父さんの船に乗っている海賊団員の大半は、元々は行き場のない子供たちだった。
賊を名乗ってはいるけれど、あたしにとって父さんは正義のヒーローだ。
その父さんが、作戦のためにあたしをブレイクの婚約者役に設定したんだったら、あたしも乗る。父さんも最初からそう言ってくれればよかったのに。
「わかった。そういうことなら、あんたの婚約者になってやるよ」
腕を組んで頷くと、ブレイクの仮面みたいな笑顔がふっと崩れ、素直な喜びが覗いた気がして――息を呑みそうになった。
とっさに顔を背ける。このままブレイクを見ていたら、月明かりのような笑みにこっちの調子を崩されそうで。
ブレイクがあたしに一歩近付いてきた。
「じゃあ今日は、婚約者らしく振る舞うための練習をしようね」
「練習?」
「そう。まずは腕を組んで寄り添ってみようか」
「はっ!?」
どうぞと片腕を向けられ、試しに触れてみる。固い筋肉の感触に心臓がはねたことにびっくりした。
海賊団員はみんな鍛えているし、半裸で歩き回る奴だっている。男の筋肉なんて見慣れているはずなのに、なんで男の人と腕を組むって考えただけで、こんなに恥ずかしいんだろう。
「どうしたの? もっと近くにおいで」
からかうような声と同時に腕を引かれ、ブレイクの整った顔が近づいた。顔中の血が沸騰しそうな感覚に襲われて慌てて目をそらす。くそう、なんなんだこれ。
助けを求めてロウを見ても、
「姉御が婚約者になってやるって言ったんだから責任もって演れっス。姉御の演技がグダグダだとオレがピンチになるんで、ほれもっとくっつけっスー」
と、相手にしてもらえなかった。ブレイクも楽しそうににこにこしている。
くそう、この作戦が終わったら婚約なんかさっさと破棄してやる!
◇
婚約を知らされてから婚約披露パーティまでは二ヶ月。そのほとんどの時間を馬車による移動と、演技の練習、礼儀作法とダンスのおさらいに費やした。
一番苦戦したのが演技の練習。母さんの言う〝恋する乙女の微笑み〟が難しすぎた。
「今回はね、〝リッフォン公爵家に養子として引き取られて不安になっていたら、初恋の人がレザリンド侯爵家にいると知って、養父にせがんで婚約した〟っていう設定にしたのよ」
「おまえが演りやすいように考えてやったんだぞー。ブレイクをスカーフの君だと思えば簡単だろ?」
と、母さんも父さんも軽く言うけど、記憶にあるあの子は天使みたいに可愛い子だった。ブレイクみたいに何を考えているのかわからない男じゃない。
そう言うと、父さんは「知ってるか? それな、思い出補正って言うんだぜ」と腹を抱えて爆笑した。娘の大事な思い出を笑うなんてひどい。
あたしの養父という設定の、リッフォン公爵にも会った。
「君はお母さんそっくりの顔立ちなのに、君の青い目に見つめられると兄さんを思い出すから不思議だね」
そう言って笑った公爵は、穏やかで理知的な男性に見えた。父さんと血が繋がっているなんて信じられない。
パーティに出る前に国王に謁見が必要だとか言われて、王都にも連れて行かれた。作戦が終わったら海に帰るのにと渋ったけれど、社交界に顔を出すには社交界の長である国王への挨拶は必須らしい。貴族ってなんて面倒くさいんだろう。
父さんと母さんとは途中で別れて、リッフォン公爵の馬車でパーティ会場に向かう。従者の格好をしたロウも一緒だ。
ボロボロのスカーフはドレスには合わないから絶対にだめだと言われてしまったので、スカーフはドレスの下の腰のあたりに巻いている。お守りだ。
レザリンド侯爵の屋敷には約束の時間よりずっと早くに着いた。あえて早く到着するのも作戦の一環であるらしい。
こちらの来訪を告げると、門番の一人が慌てて屋敷のほうに走って行った。少しだけ馬車内で待っていて欲しいと言われ、止まった馬車から外を眺める。
内陸に来たから当然だけど、海は見えない。門から屋敷までの道に沿って、長い花壇が続いている。花壇より外側にはたくさんの木々や花、小さな建造物が並んでいた。
公爵は外に目を向け、穏やかな笑みを浮かべている。
「見事な庭園だね」
「はあ……」
海で生きてきたあたしには花や木々の良さはよくわからない。あたしは花より貝殻のほうが好きだ。
でも公爵が見事って言うんだから、すごい庭園なんだろう。
何か褒め言葉でも考えとかなきゃだめかなあ。庭に目を凝らしていたら、少し離れた木の影に見慣れた金髪が見えた。
風に乗って、微かに話し声が聞こえてくる。ブレイクと、あと二人。
ブレイクたちが話している内容に意識を向け、不穏な空気だと気づいた瞬間、あたしは馬車を飛び出した。
「あっシアちゃん、どこ行くの!?」
公爵の声が聞こえたけれど気にせず走る。ドレスもハイヒールも走りにくい。長いスカートが重い。
ブレイクはあたしに背を向けている。ブレイクの前に立っている二人の男の人も、あたしにはまだ気付いていない。
「いいかげん笑ってないで何とか言えよ」
「だいたい分家の分際で公爵家の娘と婚約なんて――」
「ブレイク様!」
声をかけるにはまだ遠かったけれど、話を終わらせたくて声を張り上げた。
ブレイクたちが一斉にあたしを見る。知らない二人の男性が驚きに目を見張ったのはもちろんだけど、ブレイクまで同じように驚いてくれたから小気味よかった。
急いでブレイクのもとに駆け寄り、ブレイクの肘のあたりに両手で軽く触れる。
「早くお会いしたくて馬を急がせてしまいました。こんなところにいらっしゃるなら、いっそ門のところで出迎えてくださればよろしいのに」
甘えた声と仕草は、母さんに教わったとおり。
練習を始めた直後は「やーい下手くそ」と笑っていた父さんが、最後には「これをブレイク相手にやんのかと思うとイラッとすんな……」と苦い顔をしていたくらいだから、演技は上達しているはずだ。
「あっ、ごめんなさい。お話中でしたか? ブレイク様、ご紹介していただけます?」
他の二人の存在には今気付いたふりで、愛しの彼しか目に入らない恋する乙女感を演出。よし、完璧。
仕上げにおしとやかな令嬢っぽく、にこっと笑っておく。ここまで走ってきたから不似合かもしれないけど。
「……」
「……」
「……」
ん? なんだ?
三人ともあたしを見つめて固まっている。知らない男性二人は顔が赤い。
走った拍子にドレスが着崩れたかと自分を見下ろしてみたけれど、別におかしなところはない。
ブレイクをこっそりつつくと、はっとして二人を紹介してくれた。
二人はこの家に住むレザリンド侯爵の息子たち。二人とも侯爵の領地経営の仕事に携わっているらしい。
「お初にお目にかかります。ルティシア・ラル・リッフォンです」
母さんから教わったとおり、優雅にお辞儀。でもやっぱり侯爵の息子二人が何も言ってくれない。
何の話をしていたのかと話を向けてみてようやく「いや、別に……」「なあ」と二人は顔を見合わせる。一言二言話してから逃げるように屋敷のほうに走っていった。
「……何だったんだ」
ぽかんとそれを見送っていると、ブレイクがおかしそうに笑った。
「君に見とれていたんだよ。彼らにも、いじめている現場を美人に見られて恥ずかしい、という羞恥心はあったんだねえ」
やっぱりさっきのはそういうことだったのか。
貴族は家同士の力関係がわかりやすいぶん、嫌がらせや悪口も多いんだろうか。あたしにスカーフをくれたあの子も、年上の男の子たちに酷いことを言われて殴られていたんだっけ。
気弱そうに見えたあの子は言い返せていなかったけど、ブレイクなら口八丁でやり込められそうなのに。
「なんで言い返さなかったんだよ」
「今後のことを考えると、好きに言わせておいた方が油断してくれるかなあと思って」
「……あたし、余計なことした?」
「いや? 君は今も昔も正義のヒーローみたいだなあって思ったよ」
ブレイクが手を伸ばしてきて、あたしの髪に触れる。頬にブレイクの指先が少しだけ当たって、そこだけが急に熱を持った気がした。
「僕は普段の君の、眩しいくらいの力強さが好きだけれど……さっきみたいに可愛らしい君もいいね。僕もつい見惚れてしまったよ」
甘ったるい声と表情。
ブレイクのことなんか好きじゃないのに、不覚にも心臓が暴れだした。悔しい。
「そっ、そういうこと言うなよ……照れるだろ」
熱くなった頬を慌てて腕で隠したけれど、
「あー、二人の世界が始まりそうなところ悪いっスけどー、割り込ませてもらっていっスかねー」
というロウの言葉ではっと我に返った。
「いつからいた!?」
「気配を消してただけで、だいぶ前からいたっスー」
あたしの髪から手を離したブレイクが、当てつけみたいなため息をつく。
「悪いと思うなら空気を読んでくれないかな」
「お断りっス。この甘ったるい空気の中で話しかけるタイミングをうかがい続けるくらいなら、オレは空気の読めない男という評価でいいっス。文句があるなら一度外野の気持ちになって考えてみろっス」
ロウは若干疲れた顔できっぱり言い切った。そしてあたしを見て、親指で公爵の馬車を示す。
「もう屋敷に向かえるらしいんで、オレらは行くっスよ。姉御はそいつに庭を案内してもらいながらのんびり後から来ればいいっス」
「あたしも馬車に戻るよ」
「いーや、〝設定〟を思い出せっス。姉御の設定上、二人っきりでデートしたいとねだるのが自然だから、本邸まで歩けっス。それからパーティが終わって敷地の外に出るまで素に戻るのは禁止っス」
早口で言い終えたロウは、これ以上ここにいたくないと言わんばかりの勢いで走り去っていく。
ブレイクがにこやかな笑みを浮かべてあたしに手を差し出した。
「じゃあ行こうか、女優さん?」
「……」
なんとなく素直に手を取るのは癪だ。
ちらっとその手を見下ろしてから、あたしは母さんに言われて練習してきたとびきりの笑顔をブレイクに向ける。
「はい、ブレイク様」
途端にブレイクがさっと顔を赤らめたので、してやったり、と内心ほくそ笑んだ。
◇
屋敷についてから紹介してもらったレザリンド侯爵は、神経質そうな線の細いおじさんだった。飾ってある花の向きがおかしいとか、テーブルクロスがズレてるとか、使用人たちに細かい指摘をしている。
ブレイクはレザリンド侯爵なら帳簿や契約書をキッチリ残しているはずだと言っていたけど、確かにこんなに細かい人なら証拠も全部残していそうだ。
パーティの参加者を数えるのは多すぎて無理だった。数十人はいる。
一人一人紹介してもらったけれど全く覚えられない。どうせ作戦が終わったらあたしは海に帰るのだし、名前を頭に入れるのは最初の三人で諦めた。
さすがにブレイクの両親のことは覚えたけど。二人とも、優しいけれど気弱そうな人で、あいさつのあとはすぐに端っこに引っ込んでいった。
「市井で暮らしていたのにいきなり貴族の仲間入りだなんて大変ではなくって? 逃げ帰ってもよろしいのよ」
なんて嫌味を言ってくる女の子もいたけれど、その程度は母さんが事前に教えてくれた想定問答の範疇内だ。
「まあ、心配してくださるんですか? お優しいんですね」
と、笑顔で流した。
いつものあたしなら間違いなく言い返すところだけど、今は作戦行動中だから我慢。それに母さんが「いじわるを言ってくる人たちの大半はねえ、すごーく暇か嫉妬してるかのどちらかだから、相手にする必要ないわ」と言っていたから。
母さんは「あとでその子の意中の男性に、〝こんなことを言って心配してくださったのよ。いい人ね〟なんて告げて仕返しする方法もあるわよ」と笑顔で教えてくれたけど……そっちは忘れよう。
あたしはその場で言い返すか頭突きでもお見舞いするほうが性に合っている。
ひととおりの挨拶が終わったら、今度はダンスの時間らしい。
会場を見回してみると、ロウはまだリッフォン公爵の従者たちの中にいた。事前に「抜け出すタイミングはこっちで決めるから、あんま見んなっス」と言われているけれど、気になってつい探してしまう。
「さて、君の大事な仕事の時間だよ。シア」
ブレイクが小声で囁く。愛称で呼ぶなって言ってるのに。でも婚約者のふりをしている今は指摘できない。
「派手に転んで周囲の気を引くか、見事なダンスで皆を魅了するか、さあどっちかな?」
ブレイクの唇が挑戦的な弧を描く。ブレイクの挑発に乗るのは癪だけれど、だからといってここで引いては女が廃る。
――その挑戦、受けて立つ!
「ダンスくらい余裕でこなしてやるよ」
小声でそう返してから、差し出されたブレイクの手を取った。
ブレイクのエスコートに従って中央に向かうと、周囲の人々がちらちらとあたしたちに視線を向けてきた。さっき嫌味を言ってきた女の子は、あたしを見て小馬鹿にしたように笑っている。
リッフォン公爵は不安そうな顔をこちらに向けているし、公爵の隣に立つレザリンド侯爵は、あたしたちにはさして興味がないように見える。
貴族として養子に迎えられたばかりの元平民。あたしがうまく踊れずに失敗すると大半の人間が思っているのかもしれない。
でも――失敗しろなんて、そんな期待には応えてやらない。
ブレイクと向かい合って立ち、まずはお辞儀。ゆったりとしたワルツが流れ始めると同時に片手を繋ぐ。ブレイクがあたしの背中にもう片方の手を添えたので、あたしもブレイクの背に手を回した。
両肘は肩の高さに固定し、胸はそらす。
男性のリードに合わせて躍るものだから、どう動くかはブレイク任せだ。でもどんなステップを求められても姿勢だけは崩しちゃダメだって、母さんの言葉は忘れない。
ブレイクがにこりと笑った。
「じゃあ、お手並拝見といくよ」
予備歩から、七回のターン。ふっと止まって上体を倒し、またターンを繰り返す。その次は逆回転。
あたしたちが一緒に踊るのは初めてだから、互いの調子を合わせるために最初の数小節くらいは移動だけで様子を見るのかと思ったのに、くるくる回らされる。
――こいつ、いきなり上級者向けのステップをぶっ込んできやがった!
ブレイクを軽く睨むと、とても楽しそうないい笑顔を返される。
あたしの反応を見て遊んでいるつもりかもしれないけれど、そうはいくか。転んでなんかやらないからな。
足の動きをブレイクに合わせ、体もしっかり寄せたままキープする。でも足元は見ない。
二人の息をいかに合わせるか、動きの一つ一つをスムーズに繋げられるかが見栄えを左右するから、どんなに目の前の男の足を踏みつけてやりたくても我慢だ。
「いいね、やっぱり君はそうでなくちゃ」
「後で覚えてろよ」
ゆらゆら、ふわり。長いスカートがステップに合わせて揺れる。
母さんが選んでくれたドレスはスカートが重いと思っていたけれど、あたしが回るたび上品に広がった。
しばらく踊っていると一組の男女がやけに寄ってきたので、ブレイクと目配せをする。ぶつからないように周りのペアからは距離を保つものなのに、何か変だ。
女の子がわざとらしくあたしのほうによろけたのを、ターンでさっと避けた。
自分が転びそうになった女の子があたしを睨んできたけれど、ウインクをぱちっと返しておく。人にわざとぶつかろうとするからいけないんじゃん?
音楽が終わって、ブレイクから一歩離れた。お辞儀をしてから周囲を見回すと、ロウの姿が消えていた。このダンスのうちに会場を抜け出したらしい。
多くの人があたしたちを見ている気がする。何人かの女の子には睨まれたけれど、リッフォン公爵は満足げに笑っている。
肝心のレザリンド侯爵は無表情で何を考えているのかはわからない。でもあたしたちを見ているってことは、注意を引くことには成功したんだろう。
ブレイクに促されてリッフォン公爵たちのところに戻ると、リッフォン公爵は笑顔で拍手を送ってくれた。
「さすがは社交界の妖精の娘だね。君のお母さんが踊る姿を思い出したよ」
「まだまだ母には及びませんが、そう言っていただけて嬉しいです」
「いやいや、本当に素晴らしかったよ。ねえレザリンド侯爵」
リッフォン公爵がレザリンド侯爵に話を向ける。レザリンド侯爵ははんと鼻を鳴らした。
「……あの粗雑な男の子供とは思えんな」
今は演技中。でも、ぴくりと自分の眉が動くのを抑えられなかった。
「確かに実父はいろいろと雑ですが、細かすぎるよりはよいと思います」
「……ほう」
レザリンド侯爵が目を細めて私を見下ろす。冷えた空気が周囲に満ちるのは感じたけれど、言葉を覆す気は起きなかった。
二曲目のダンス音楽が流れ始めたけれど、穏やかな音楽がやけに場違いに聞こえる。
リッフォン公爵が困った顔をしている一方で、ブレイクはにこにこと笑顔を崩していない。
腕を組んだレザリンド侯爵があたしに言い放つ。
「一つ忠告をしておこう。君が嫁入りする先は我が侯爵家の分家筋だ。本家の当主たる私には逆らわないことだな」
「本家分家と言われましても、私のような元平民には馴染みがなくて。ご忠告ついでに教えていただけないでしょうか?」
「ふん。そこでヘラヘラ笑っている君の婚約者に聞けばよかろう。大した仕事もなく暇だろうしな」
手を強く握る。体中が熱い。
確かにブレイクはいつもヘラヘラ笑ってるとあたしも思うけれど、レザリンドの侯爵の言い方には、裏に軟弱者とバカにするような響きが含まれている気がした。
「てめ――っ」
開いた口を、ブレイクにさっと塞がれる。
「そうですね。僕から話しておきますよ」
「娘が申し訳ないね。今の謝罪と……そうだ、君の家の庭について話したいと思っていたんだ。あちらで飲みながら話さないかい?」
リッフォン公爵もあたしの前に立ってレザリンド侯爵を別の場所へ促した。
公爵たちが遠ざかってからようやく、ブレイクがあたしの口から手を離す。
「僕たちも外に出ようか」
口を尖らせかけたのを慌てて引っ込める。演技を継続できる気がしなくて、渋々ブレイクに従った。
◇
外は暗くなりかけている。オレンジから紫へのグラデーションが空に拡がって、少し眩しい。
バルコニーに出ると、澄んだ日暮れ時の空気が血の上った頭を落ち着かせてくれた。穏やかな風が気持ちいい。
「……ごめん。レザリンド侯爵の気を引けって言われてたのに」
今はリッフォン公爵がレザリンド侯爵と話をしてくれているけれど、本来はあたしの仕事だったはずだ。
あたしは肩を落としたけれど、ブレイクは「ああ、別にいいよ」とあっさり答えた。
「元々、君一人でレザリンド侯爵の対応をし続けられるとは思っていないし、その担当者は複数配置してる。ほら、一人また話しかけに行った」
「聞いてないけど」
「うん。言ってないね」
そういうことは事前に言ってほしい。ブレイクを軽く睨んだけれど、笑顔で流された。
「僕の予定とは少し違ったけれど、君は十分いい仕事をしてくれたよ」
「ダンスのこと?」
「違う。君は気にしてなかったと思うけど、明らかに何人かがさっきの僕らの会話を聞いていた――レザリンド侯爵は僕に重要な仕事を任せてはいないって発言をね」
その発言を聞かれたから何だって言うんだろう。
首を傾げたあたしに、ブレイクはウインクを返してくる。
「内部告発をする以上、僕自身に火の粉がかからないように十分な根回しは終えているけれど、僕が無関係だと証言してくれる人間が増えるに越したことはないでしょう?」
「ああ、そういう……」
内部告発に、なるのか。全然似ていないけど、あのレザリンド侯爵とブレイクは親戚なんだよな。
分家とか本家とか、貴族の家の事情はあたしにはよくわからない。でも分家の人間は本家の人間に逆らうなっていうレザリンド侯爵の言葉は、うまく言えないけど、なんか嫌だ。
「ブレイクはあんな……言われっぱなしでいいのかよ」
口を尖らせてそう言うと、ブレイクはふふっと笑みを浮かべた。
「なんで笑うんだよ」
バルコニーの手すりに背を預けたブレイクが、あたしを見つめて無言で微笑む。ただ見られているだけなのになぜか落ち着かなくて、自分の腰を抱くように腕を組んだ。
「自分への嫌味は笑顔で受け流してた君が、僕のために怒ってくれたことが嬉しくてね」
「べっ、別にブレイクのために怒ったわけじゃない」
「そう?」
楽しそうにまた笑ってから、ブレイクはバルコニーの手すりに背を預ける。
「さっきの問いに答えるね。君は、僕が黙ってサンドバッグになってやるお人好しだと思うの? 言われっぱなしじゃ癪だから、僕は君たちと組んで仕返しを画策しているわけだ」
仕返し。なんとなく嫌な響きだ。
あたしは眉を寄せたけれど、ブレイクは「正義感いっぱいの君たち親子と違って、僕の動機の三分の一くらいは私怨だよ」と肩をすくめた。
「ねえシア。事が全て片付く前に君に話すって、ジャッカルさんと約束していることがあるんだ。今聞いてもらっていい?」
「うん?」
「レザリンド家ではね、スクールに通い始める八歳までの間、分家の子供もみんな本邸に集められて教育を受けるんだ。本家の子供かどうかで明らかな扱いの差を受けながらね」
なんで父さんはブレイクに身の上話を語らせる約束なんてしたんだろう。頭にハテナを浮かべながら聞いていたら、
「物心つく頃にはもう諦めてたよ。そういうものなんだって――でも」
ブレイクが言葉を切って、あたしに目を向ける。
「教育の一環として領内を回らされていたときに訪れた港町で、本家の兄弟から殴られていた僕を庇ってくれた女の子がいたんだ」
そう言われてどきりとした。
ブレイクの話が突然思い出の光景と重なったから。
港町で、他の子供からいじめられていた男の子。いじめている方もいじめられている方も身なりが町の子たちより立派だった。近くに子供たちの従者らしい大人がいたのにその人は見ているだけだったから腹が立った。
だからあたしは走って割り込んで、一番体の大きな子供を蹴り飛ばしたんだ。
「覚えてる?『二人で小さい子をいじめて、恥ずかしくないのか』って君は言ったね」
「覚――えてる」
あの時の話を一言一句覚えているわけではないけど、たぶん言った。
あたしと向かい合っていたいじめっ子たちが言い返してきて、取っ組み合いになりかけて、駆けつけた父さんがあたしと男の子を抱えて別の場所に連れて行ってくれたんだっけ。
「自分より体の大きな相手に全く怯まなかった君はとても格好良かったけれど、同時に、年下の女の子に守られたことが恥ずかしかった。僕は今のままじゃだめだって、変わらなきゃって思ったよ」
昔のことを思い出しながらブレイクの話を聞いていたけれど、やっぱりあの男の子とブレイクが重ならない。髪や目の色はよく似ていると思うけれど、あの子はブレイクと違って素直で、可憐な花みたいに笑う子だった。
「この家もやっぱりおかしいって思ったけど、当主があんな風だからね。どうすれば追い落とせるかを知るためにたくさん勉強して、時間をかけて裏で動いて味方を増やして、やっとあと少しというところまできた」
ブレイクがためらいがちにあたしの頬に手を添える。あたしを見つめる紫の目が揺れている。
「ねえシア。僕は、君に守ってもらったあの時から、ずっと君のことが好きだよ。でも君は昔の僕のほうがよかった? 今の僕じゃ――嫌?」
「……あたし、は」
ブレイクが黙って待っている。
何か言わなくちゃ。
そう思うのに、いつもなら考える前に喋ってしまうはずの口が固まったみたいに動かない。
ずっと、スカーフをくれた男の子に会いたかった。本音の見えないブレイクのことは気に入らないって思っていた。
でも、あのときの男の子もブレイクで、だったらあたし――あたしは……?
「シア、答えて。今の話を聞いた上で、僕のことは嫌だって言うなら、ちゃんと諦めるよ」
「……」
なんであたしは答えられないんだろう。
ブレイクと婚約したって聞かされたとき、絶対嫌だと思ったのに。
今のブレイクじゃ嫌だって言ったらどうなる?
諦めるっていうのは、もう会わないということ?
それは――嫌だ。あの子にもう一度会えたら話したいと思っていたことも、見せたかったものも、たくさんある。
でも、じゃあいいのかって聞かれたらやっぱりわからない。だから、
「話を聞かされたばっかで、今すぐには答えられないよ」
としか言えなかった。
何の回答にもなってないのに、ブレイクはふわりと笑って一歩近づいてきた。
「ねえシア、それなら――」
突然、夜の中に大きな羽音が響く。そちらに目を向けると、茜色の空の向こうに鳥が一羽飛び去っていくのが見えた。
「……本当、彼は空気を読んでくれないね」
「あれ、もしかしてロウの仕業?」
「そうだよ。あの鳥が証拠の一部を運んでくれるんだ。設定は、〝リッフォン公爵がサプライズプレゼントとして持ってきた鳥を運ぼうとした従者が誤って逃した〟ってことにしてある」
「でも鳥が運べる量なんて大したことないんじゃないか?」
「いいんだよ。家宅捜索の名目が立って、隠し部屋の開け方がわかれば。あとの手筈は整えてある」
鳥が去っていった方角を見つめながら、ブレイクは口元を釣り上げた。
「ああ、早くあいつらが慌てふためく顔が見たいなあ」
目が全く笑っていない横顔を見て、やっぱり今のブレイクは微妙かもしれないという考えが頭をよぎった。
◇
パーティのあとは馬車でリッフォン公爵の家に向かい、広い屋敷でバタバタと忙しく過ごした。
レザリンド侯爵が息子たち共々失脚した話はリッフォン公爵が教えてくれた。それならあたしの仕事は終わったし、海に帰ると言ったのだけど、
「君が『海に帰る』と言ったら『まだ終わってないぞ』と伝えてほしいと、兄さんから頼まれてるんだよねえ」
と公爵が困り顔で答えた。
終わってないということは、あたしにはまだ仕事があるんだろう。
でも何の指示も受けることなく、時間ばかりが過ぎていく。ブレイクも父さんも忙しいらしくて姿を見せてくれない。
当然のような顔で公爵家の屋敷にやってきた母さんと白いドレスを選んで、「あれ?」と思っているうちに結婚式も披露パーティも終わってしまった。
結婚式で久々に会ったブレイクにも父さんにも次の仕事は何かを聞きたかったけど、「ひととおり終わるまでは令嬢の演技をしっかりね」って母さんに言い聞かせられていたから我慢した。
親族用の控室に戻り、部外者がいなくなってからようやく、
「……婚約は作戦って言ったよな?」
そう尋ねるとブレイクは不思議そうな顔で首を傾げた。
「言ったけど?」
「この結婚式も何かの作戦なんだよな? あたしの次の仕事は?」
「いや、今のは普通の結婚式だよ。何なら君に伝えた作戦の本当の目的はこの結婚だったよ。元侯爵を追い落とすだけなら君抜きでもやれたしね」
「えっ」
「幸せな家庭を築こうね。子供は何人欲しい?」
「は!?」
どういうこと!?
「父さん、『まだ終わってないぞ』っていうあの伝言は!?」
「まだ結婚式も終わってないぞって意味だな。それがどうした?」
父さんも不思議そうな顔をしている。
口をパクパクさせていたら、父さんが腰に手を当てた。
「だっておまえ、スカーフの君がブレイクだって聞かされた上で、今のブレイクでもいいって言ったんだろ?」
「言ってない!」
「……ん?」
目を丸くした父さんがブレイクを見る。あたしと父さんの視線を受けたブレイクは、いい笑顔で平然と答えた。
「僕はちゃんと事実だけをかいつまんでお伝えしましたよ。あとはまあ、解釈の差じゃないですかね」
「おめーなあ……」
呆れた顔になった父さんが腕を組んでううんとうなる。
でも考えてくれているように見えるだけで、こういう時の父さんが出す結論はだいたい決まってる。
「ま、いーんじゃね。結婚しとけ」
やっぱり面倒になって投げた!
助けを求めて母さんを見たけれど、母さんはいつもどおりのふわふわした笑顔で両手の平を合わせる。
「大丈夫よ。シアちゃんはよくブレイクくんの文句を言っていたけれど、スカーフをくれた男の子よりブレイクくんを好きになるのが怖かっただけよ。同一人物だってわかったんだから、あとは素直になればいいわ」
「違う!」
あたしが抗議の声を上げても、父さんは「母さんが言うなら間違いねーな」と大口を開けて笑った。
「シアが『スカーフをくれた男の子に会いたい』『結婚したい』って泣きわめいてから十年以上だもんなあ。俺ら頑張ったよなあ」
「そうねえ。シアちゃんの言う男の子がブレイクくんだって特定して、ご両親に連絡をとって、礼儀作法やダンスを教えて、当時のレザリンド家じゃお嫁にはやれなかったからブレイクくんに協力して……長かったわねえ」
そんな昔の話を持ち出さないでほしい。
っていうか、スカーフをくれた男の子を見つけた時点で教えてくれればいいのに。
口を尖らせていたら、
「だってシアちゃん、スカーフの君を見つけたって教えたら、後先考えずに飛び出していきそうなんだもの。サプライズで再会させたら喧嘩して帰ってくるし、母さんたちだって困ったのよ。スカーフの代わりを提案されたって怒ってたけど、そりゃああんなにボロボロなんだもの。贈った側としては別のものを贈り直したくもなるわよ」
と母さんに言われて反論できなかった。
「あ、あの……本人が納得していないのに婚姻を進めるのはいかがなものかと思うのですが……」
それまで黙っていたブレイクのお父さんがおずおずと手を挙げる。
気弱そうに見えたから期待していなかったけど、ナイス!
リッフォン公爵も眉尻を下げる。
「そうだよ、兄さん、義姉さん。私も、シアちゃんは意地っ張りなだけでブレイクくんのことが好きだって聞いたから、可愛い姪っ子のためだと思って協力したんだよ。話が違うじゃないか」
「礼儀作法が身についているとはいえ、いきなり侯爵夫人というのも大変でしょうし、あまり無理は……」
「ん? 侯爵夫人って何の話?」
ブレイクに顔を向けると、とてもいい笑顔でウインクを返された。
「元レザリンド侯爵と領地経営の要職に就いていた侯爵の息子たちは、違法な取引を繰り返して私財を貯めていたことが明るみになって国外追放されたんだ。空いた侯爵の席は分家から埋めることになって、僕が継いだの」
「全部ブレイクの筋書きどおり?」
「もちろん。君が嫁いできても問題ないように、全部片付けておいたから心配しないで。ふふ、悪巧みが得意だなあと自分でも思うよ。でも」
ブレイクがあたしの手をとって手の甲に口づける。途端に顔が火照り、一歩後ずさったけれど、ブレイクが追ってきた。
「誰より真っ直ぐな君が傍にいてくれたなら、僕はきっと道を踏み外さずにいられると思うんだ。ずっと隣で支えてくれないかい?」
その言い方はずるい。
なんだかこのままブレイクと結婚しなきゃいけない気がしてくるじゃないか。
「ブレイク、領民を人質にとるような言い方はおよしなさい。ごめんなさいね、ルティシアさん。この子の言うことは気にしなくていいですよ」
すかさずブレイクのお母さんがブレイクの袖を引いた。
でも困り顔のブレイクの両親やリッフォン公爵と違って、父さんと母さんはにこにこしている。
「あら、大丈夫ですよ。シアちゃんはブレイクくんが本当に嫌だったら、手を握られた時点でひっぱたいていますから。ね、シアちゃん。他の人に同じことをされたらどう思う?」
「え……」
母さんに水を向けられ、他の誰か――知らない男に、手にキスをされたり髪を触られたりしたらって想像してみる。
ゾワッと鳥肌が立った。
確かにそんなことをされたら、あたしは相手をひっぱたくかもしれない。
でもブレイクに触れられたときは、いつも血が沸騰するような感覚に襲われて、心臓がうるさくなる。
それが嫌かと問われれば――嫌だと断言できない自分がいて。
……え、待って、つまり、母さんの言うとおりなんだろうか?
おそるおそるブレイクを見上げると、ブレイクはふっと笑う。知ってたって言われた気がした。
ぶわっと体中の血液が顔に集まる。文句を言ってやりたいのに、唇が震えてうまく動かせない。
今の僕は嫌かって聞いてきたのは何だったんだ。あたしの回答なんかわかってたってこと?
「ああシア、君は本当に可愛いね。もう一度結婚式をしようか?」
あたしの手を握って、楽しげなブレイクが顔を寄せてくる。父さんが「おーい、いちゃつく気なら俺らはそろそろ帰るぞー」と頭をかいた。
母さんもにこにこ顔で、ブレイクのお母さんに近づいていく。
「折角ですし、一緒にお茶でも飲みませんか? やっと子どもたちが片付いたんですもの、もっとゆっくりお話したいわ」
「え、ええ、でもあの子たちは……」
「馬車一台と使用人を数名置いていきましょう。二人とも、暗くなる前に屋敷に帰るんだよ」
「……そうですね。安心したら疲れました。濃いハーブティーでも飲みたい気分です」
「俺はどうせ飲むなら酒がいいな。あいつらが甘ったるくて胸焼けしそうだぜ」
「兄さん、お酒は披露宴で十分飲んだでしょう」
「じゃあシアちゃん、母さんたちは海に帰るけど、また会いにくるわね」
あたしとブレイク以外の全員が連れ立って控室を出ていく。ちょっと待って、というあたしの声は誰にも聞いてもらえなかった。
父さんが振り返りもせずに扉を閉め、控室の中は急に静かになる。
「シア、キスしていい?」
「へっ!? だめ!」
「どうして? 結婚式で誓いのキスはすませたじゃないか」
「あれは演技だと思ってたからノーカンだよ! その、……ほら、えっと、心の準備とか……」
しどろもどろになったあたしの腰に、ブレイクが手を回してくる。逃げるどころか体を寄せられ、しばらく抵抗したけど結局、あたしの口はブレイクに塞がれたのだった。
(終)
◆キャラ紹介◆
(画像は似顔絵メーカーCharat様にて作成しました)
・ルティシア(シア)
海賊の娘として生きてきた少女。曲がったことは嫌い。
・ブレイク
侯爵家の分家の青年。頭は回るが悪だくみも得意。